土星が空に現れているのを見た。
大きくて、驚いた。
もちろん夢の話だ。
こんな夢を見たのは、
寝る前に村上春樹のIQ84を読んでいて、
そこに「二つの月」が現れた、とかそんな話があったからなのだろうけれども、
僕の脳裏には、
巨大な土星が現れた🪐
驚いた。
夢の中で、なぜ、と思った。
なぜよりによって土星なんだ。
こんなに土星が地球に接近することって、あるのか?
月が綺麗に大きく見える夜はあるけれども、
あれは実際に月が近づいているのではなくて、幻影でそう見えているだけなのだそうだ。
そんな存在感で、土星が、あまりにも巨大な形で、アパートの窓の外に見えていた。
土星って、固形じゃなくて、ほぼ巨大なガスのかたまりだったよな、
なんてことを思う。
人は住めないし、地表そのものが存在せず、もし降り立ったら無限に下降して一生そこから出ることはできないだろう。
なにが「どせいさん」(MOTHERシリーズ)だ。
「ぽえーん」だ。
ゾッとする。
水星も金星も火星も土星も木星も冥王星も海王星も人は住めない。
しかもそれらの惑星の間には、絶望的な距離がある。
宇宙という海よりも広い寒々とするような巨大な空間(?)の中に、
全てのものが恐ろしいまでの秩序で回転していて、
それらの一切が生命がなく、無人の星。
ポツンと地球だけが無限の虚空の中にちょうどいい塩梅でビー玉のように置かれてその中にだけ、
夥しい生命と、
そしてごくごく最近になって知性などを有したホモ・サピエンス種がいて、
一種の「概念」を扱うことに長け、広範囲での共同体を作り出すことに成功し、文明を何とかして築き上げている。
なぜ、「ぼく」はいるんだ。
そして、
「ここ」は「どこ」なんだ?
ぼくはどこに来たんだ?
推測される場所としては、
土星の衛星である「タイタン」あたりの可能性が高い。
そういえば、
タイタンには水があり、地球と近い環境で、
生命らしきものが存在してもおかしくないとかなんとか、
いっていたような気がする。
ああ、そうか。
そこにも地球と同じような、「普通の文明」とか「退屈な日常」ができて、
巨大な土星が空に映ることなんて日常の光景なんだ。
静岡県民にとっての富士山みたいなものなのだろうか。
でかい。
それにしてもでかい。
圧迫感がすごくてこの星が重力に飲み込まれないか心配になった。
いよいよ、太陽系の秩序も崩壊して、いろいろ太陽に飲み込まれたりして、
虚空の宇宙にバラバラになっていくんじゃないかと。
そんな予兆なんじゃないかとすら思った。
でもじゃあ待てよ。
宇宙に地球に生命を生み出す力や秩序があるんだとしたら、
地球に見えるカタチをとって現れては消えを繰り返している生命なんてのは、その宇宙の生命の一つのあらわれに過ぎないんじゃないだろうか。
知性を持った、だけど儚いニンゲンの存在も、この宇宙が生み出して、
前頭葉の小さな、理解できる範囲の器官でなんとか世界を、「人間モデル」から離れることは決してないだろうけれど理解しようとしている。
自己保存の欲にまみれこの地球の形を大きく変えながらも、
ちょっとだけ、世界を良くしようと足掻いている。
小学校や中学校の頃、
授業中に、ふっとそんな考えが頭に浮かんで、
お腹の奥から寂しさが込み上げてきて、
日常から一人だけ切り離された気持ちになることがあった。
みんなはそんな気持ちにならないのだろうか。
教壇に立って大人になって社会人になったらそんなことは思わなくなるのかと思ったが、授業中でも、試験監督中でも、いっせいに机に向かってカリカリやっている子たちを見て、ふっと、なることがある。
たまに気になって、そんなことを聞いてみる。
「ない」っていう子もいれば、
「ああ、あります!」っていう子もいる。
でもそんなことは役に立たない。
試験に出ないし、社会から考察を問われることなんて人生にはない。
何百人と子どもを見てきて、
この国にいるほぼ全ての子どもは、ただ関係なくすれ違うだけの存在。
出会いは偶然。
しかし、運命を変えることなんて、偶然の積み重ねなのだ。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーが偶然教会で出逢って、ビートルズが結成されたように、
松下村塾で、地元の子らが吉田松陰という男に出会って、維新の原動力となって行ったように。
「計算し尽くされたかのような見事な偶然」というものが、
私たちの人生や歴史には存在する。
地球に生命が生まれたのも、人と人が出会い、存在するのも、
恐るべき偶然。
驚愕すべき偶然。
存在の偶然の意味もわからないし、
不条理や苦悩の意味もわからない。
だけど、後になって、「ああ!」と思い、ゾッとする感動を覚えることがある。
あの時、あの出来事がなければ、
あの時、あの偶然がなかったら、
あの時、あの友人の呼びかけに答えてなかったら、、、。
思うことは、
私やこの場所との出会いが、
「素晴らしい偶然」の出会いであれるよう、できる限り誠実でありたいということ。
「時」に備えておけるようにしていたい、ということ。
ちゃんと正面から伝えるべきことを伝えられた、と思います😅
思春期男子の「性」の扱い方や話題について。
時にそれが、公の場で、軽薄に語られることに関して、
私は非常強い危機感や悲しさを覚えております。
「何か」がすごく嫌だ、不快だ。
一人だけ自分の感受性が敏感すぎるんだろうか。
だけどその「甚だしく不快」な感じを、
正確に言語化して、想いとして伝えるのをグッと堪えたまま、
内心さまざまな思惑を抱えながら、
多分、多くの人が目を細めつつ、
自分も身に覚えの一つや二つあるものだから、
笑ってやり過ごして、
「むっずかしいですよね」
「そんなもんですよ」でやり過ごすんだと思う。
そこにある凄まじいまでの「暴力」を看過して。
もちろん、法的には「セクシャルハラスメント」でアウトっていうのもあるんだけれど、、、
ただそれだけでいいのかな。
TPOをわきまえるとか、
「恥」の感覚を持て、
それも、ある。
ただ、社会的な外堀の文脈のみでやり過ごして、
バシッと、有無を言わさず、
「やめなさい!」
で、
そのまま、終わり、
でいいのかな。
性の話題を、全く「タブー」にするべきではない、と思うし、
「悪いもの」「恥ずべきもの」として抑圧すべきでもない。
かといって、
「やらしいものではありません!すばらしいものです」
とオープンに話すのもなんだか、嘘くさい。
まあ、本音、人間を根源から動かす深いエネルギーであり、
倫理や規範や理性の奥にはまりきらず常に重力のように蠢いているパワーで、
それは時に「暴力」と紙一重だし、
奥深い優しさや神聖なものとも近い。
この二つは、
まるで二匹の馬がいる馬車を操るような感覚だ。
どちらかが欠けて、
プラトニックなものになっても、
あるいは獣のようなものになっても、
人は満たされることがない。
「正しい方向に秩序づけられる」ことが重要だ。
ちょっと、授業後に生徒を呼び出す。
「まじかぁ、、、」と気まずそうな顔。
まっすぐに顔を見た。
「今日の発言、どう思う」
と問いかけ次第、
彼は、まっすぐに
「周りを不快にさせてしまったと申し訳なかったです。」
私が率直に、嫌だった、ということを伝え、
それは社会的にも法的にもアウトだよ、
ということも伝えつつ、
理由を聞いたところ、
「だって、みんな友だちがそういうことを話してて、先生も笑って許容しているから」。
まあ、そういう年頃だから、わかる。
ただ、それだけではない、ということも。
あなたを尊重して幸せに生きてほしいということを伝える。
性は、
「りっしんべん」に「生きる」。
いちばん深いところの人格的な交わり。
いちばん、
深くて
弱くて、
センシティブで、
さらけ出されたところを、
優しさや愛で包み込むものであってほしい。
その人の人格は、その人が性をどう扱うかによって、見えてくる。
だから、軽々しく扱っていいものではないし、
あなたにいちばんすばらしい、幸せに向かう愛に向かってほしいから、
たとえ周りがみんなそうしているから、といっても、そういう扱いをされることは悲しい。
いちばん大切にすべきものをいちばん大切にあつかえる人間になってほしい。
ていう想いを伝えたら、
こっちの目を見て、まっすぐに聞いてくれた。
10代の頃って、
「正しさ」「ルール」
以上に
「仲間と盛り上がる、つながる」
ことの方が重要で、個人個人は素直なのだが、
その重力の中で安易に、流されてしまう。
だけど、
その中で、
「本当の自分の心」「幸せ、自由の選択をする」「自分自身であること」
から、薄々自覚しながらも、ズレた方向に向かってしまう。
そこには歪んだ「楽しさ」はあるだろうけれども、
それは虚しさしかない。
こうしたことを、
ちゃんと伝えられる大人って、
どれくらいいるんだろうか。
悩んでいた時にふと思い出したのが、
中学一年生の時に、校長先生から受けた話と、
大学時代に竹内修一教授から受けた「性の倫理」の対話。
そして、池田晶子さんの「14歳からの哲学」。
校長は中1の私たちに、
「将来の伴侶となる女性が今この世に存在しているから、今日から毎日のその女の子のために祈れ。
そしてプロポーズした時に、中1の時から君のために毎日祈っていたよ、と伝えるんだ。」
という話。
(私は、毎日、、、ではなかったけれども、やっていた、と思う。
そして、そんなことを伝えた、と思う)
性とは、全人格的なもので、
その人がどういう人であるかは、
その人が自分の性をどういう扱いをしているかでわかる、
ということ。
この頃つくづく思うのが、
人間存在そのものが根っこを失って、どんどん軽薄になりつつあって、
「存在」を見失っているのではないかということ。
この文明の流れに、ささやかながら抵抗して、警鐘を鳴らし続けられたら、ということを思う次第。
実は、
オンライン家庭教師をさせていただいております☺️
「親子コーチング」でやってます。
ご紹介心から感謝です🥲
卒業式練習で、椅子を蹴っ飛ばしちゃってそのまま帰ってしまうような男の子😂
、、、なのですが、私と一対一の時は、すごく真面目で、礼儀正しくて、言われたことはちゃんとやる。
わからなかった問題も、ちょっとやればガンガンできるようになって、
私もそういうのを見るのが嬉しいので喜びます😊
去年は、、、いや去年だけでなく、5本の指以上、完膚なきまでの挫折を繰り返し、絶望しかしていない私にとって、
嬉しいことはもちろんですが、
「これはどういうことか」と思っています。
お母様からは、感謝され、ひとえに私の人格と人柄だというのですが、、、
そうなのか?
決してそれだけではない。
もちろん、目の前の子の心理検査をやって、タイプ、特性を把握し、理解しようと心がけ、
自分が味方であり、伴走者であり、勇気づけをし、信じていることを繰り返し伝え、
成長のために適切なハードルを与え続けるわけですが、
「すべての人にとってベスト」という指導は存在しないことを自覚しておくことは非常に重要です。
ですが、
教育を
教師の「心」「人格」【だけ】の問題にしてしまうと、
逆に言えば、疲弊し、潰れる教師がもっと増える。
熱意も技術も志も大切です。
ですが、全部をそれに担わせるのはおっそろしく危険なことだと言いたい。
構造的な問題だと思うのです。
もし、私が彼(とそのつるんでいる友人)の担任、その役割を与えられている立場だったら、
「やんわりと信頼関係を結び対話」なんていう手段が焼け石に水であることを悟り、
思いっきり嫌われうざがられ反抗されながらも、逐一うるさく注意し、怒鳴り、恐れられる側に立ち続け、そしてそれが信頼関係を崩していくのを自覚し、自己嫌悪に陥りながらも、その感覚を麻痺させ、
かつての「お花畑」のような自己の思想を激しく憎んでいるでしょう。
徹底的に恐れられ嫌われ役に徹する鬼のような教師がいますが、
あれは素で生まれつきそうなのではなく、必要に駆られ、どこかで「いい先生」であることを切り捨てて、その役割に徹して、「秩序」を保ち、しかもそれなりの成果をあげている。
しかし、もう現代ではそういう昭和なやり方は通用しない、
その代わりにソフトで真綿を閉められるような管理に服さなければいけない。
まず、正直、
「悪い子なんて一人もいない」「問題児なんていない」
は、私の口からは、どうしても言えない。
【状況によって】体罰は絶対に必要だし、スクールポリスの介入は喫緊の課題です。
地獄は存在するべきであるし、それによって必要な報いが刈り取られ、正義が保たれなければ、私たちの善を希求する精神は報われることはない。ーーーと無限の赦しも愛の精神にもなり得ない、エゴイズムを抱えた人間である私は、かくの如く想うのであるが、その心こそが地獄なのであろうか。
なぜかというと、教師の安全、安心が喫緊の課題だからです。
ともかく、正義が守られないと、個人だけでなく社会全体が崩壊することを直観している。
で、想いや人格や評価も、
社会、構造の立場や役割によって、まーーーったく変わってくる。
私の思想や正義は
私の置かれている状況と利害関係、人間関係によって変わってくる。
ある状況で、非常に効果的な正しさが、
別の状況では、ひどいものになる。
だけど、人は、状況の圧力に応じて、
「正しさ」を選択しなければならない。
状況や構造を変えれば全てがうまく回る、
とは言えませんが、
それでも、
構造や環境を変えるだけで、劇的に変化するものがあることは、確かです。
ある状況で、問題を起こす人が、
別の状況に置かれたら、それを起こす「必要」がなくなる、
ということはよくある。
個人が、個人として比較や対立することなく、存在をそのまま認められる空間を作ってあげるだけで十分です。
個々人が学びや成長を楽しみ、
互いに自由を承認しあえる合意があればいい。
それはだらだらした関係でなく、ある程度の、自己に対する節制や努力を必要とする。
理想を言えば、学校のみならず家庭も会社も社会全体もそのようなものになれば、文明由来の精神病のほとんどはなくなるはずです。
カントという哲学者は、
みんなが単なる手段じゃなくて、大切な人格として尊重されたら最高だよねっていう国を「目的の王国」として想定しましたが、
現代、この社会全体で言うなら、
資本主義の構造自体が、他者を単なる手段とし、お互いに手段として扱うことを強制させられているため、
そんなもの単なる寝言の理想論としか思えませんが、
しかし、こういう人類や人間のあるべき姿のすごく幸せなビジョンが人間の心の中のあるからこそ、それが決して生きている限り実現しないからこそ、人間は無限に苦しみ、そして絶望する。
絶望は、理想への無限の欲望があり、かつそれゆえにその欲望が生涯叶わない構造になっているから起こる。
おおよそ絶望は悪で忌避すべきものと思われがちですが、
絶望していない人間は、精神的存在者ではありません。
ですが、
全体を変革することは実に困難な作業であるにせよ、
私たちが、自らそのような環境を創り出していく、ということに対しては、
常に「可能性」は開かれています。
また、それを私たちは実現し続ける実例も有します。
(「可能」とは表現しません。
もし「可能」と表現していたら、もしそれが不可能であった場合、
それは全て個人の意志の責任にきせられるからです。)
人類の無限の苦しみと絶望は、裏を返せば、
人間の精神のうちに無限の自由と永遠なるものが埋め込まれ、またそれを欲している所作でもある、、と敢えて形而上学的に言わせてもらいたい。
人間は、とりわけ精神は神によって作られ、神に向かって造られているため、神自身を知り、有し、一つになること以外に、それ以外のことで満たされることは決してない。
人間とは基本的に精神であり、そして精神は自由なのですが、それが人間存在の最も優れており、また人間たる所以だと想うのですが、
それは、決して状況から独立してはいないということです。
精神がいつも置かれているのは身の具体的状況です。
もし、現代のスピリチュアルが言うように、一切の事物が自我の顕れであるとするのであれば、人間の精神は一切の悲惨さの責をその個人の咎に負わされ、またそれを脱するの途もなく、そればかりでなく、責任を負わず、それを信者に負わせるカルト教祖にとって都合のいいカモでしかありません。
夢だとか、自主性だとか、内発的動機は立派なものですが、これはうまいこと、報酬なき搾取のために利用されがちなのです。
精神の誇りは自由であることですが、
その自由こそが、精神に最も屈辱的な服従を負わせることにもなりかねません。
他方、精神の起源が環境にある、というわけでは決してなく、
環境さえ整えれば、精神は自由になる、と言うわけではありません。
(環境が自由を生み出すとはなんという矛盾)
自由が自己を発揮できるための「環境」が必要なのですが、
最も良き環境は教師であり大人でありますが、その精神が自由を希求し、また自由を実現しようとしていることが望ましい。
精神は状況と構造に働きかけることができます。
かつ、精神自身も最も大いなる環境と状況になり得ますし、またなるべきなのです。
精神自らが、最も善く自由であれる状況を作りだしていくためには、、、。
さて、
講師とは、学習を中心とした教育の課題において、
親と子どもの間の間に割って入る役割ですが、
たいがい、100パーセントの親は子どものことが不安で、何かしら足りない点、伸ばすべき点があると思っています。
そのニーズを満たし問題解決をするために講師というサービス業は存在します。
また、そうでなければ、教育は親子間で完結すべきものです。
多少問題があっても、
自分らしく伸び、成長していく子がいます。
これはもう長期スパンでじっくりじわじわ、3〜12ヶ月くらい見る必要がある。
ちゃんと待てるか、信じられるかどうかが重要です。
また、伸びない子、自己肯定感が欠乏し、逃避する子の特徴なのですが、
これほぼ例外なく、
親が子の能力や頑張りをこえて「もっともっと」を望むこと、です。
まあ多少あるくらいだったらいいのですが、
それが常態化し、常に毎回のように、頑張りを認めず、不平不満をたらし、もっと頑張って、を言われ続けると、
子どもにとっては存在を否定されているようなものです。
しかも、それが「愛」でなされているからこそ、厄介。
で、その親自身も、そういう人生観を持っていて、自分の心の中の空っぽ。
精神としての自己であることは、すぐさまではないにせよ、人間的生命に関わることです。
現代の教育も家庭も社会も、心の存在や働きは認め、脳科学や心理学も発展し多くのことがわかるようになってきましたが、精神としての自己は決して何を持ってしても満たし得ません。
そのための伝統的環境や固定されていた状況は崩壊し息の根を止められました。
精神について知ることは精神ではありません。
精神が自己であり、呼吸をできるための環境と状況が必要ですが、
幾何学、人文科学によってデータ化され計算されたものと、
まさに、繊細の精神によって、自己が精神の呼吸を取り戻す活動がなければいけない。
教育者であるためには、結局のところ、自己が自己でなければいけないと思うのですが、
精神としての自己は、常に死の陰の谷を歩まされています。
自己の周りに精神はまとわりつくのですが、自己が精神になるためには、精神として生きるためには、一つの飛躍が必要なのです。
先月の給料だーい🥰✨
豊かな豊かな恵みに感謝いたします。
どうやって食っていけと😂
なんですか?
あるものに感謝したらその波動で、豊かになるんですか?
そう、、、思えますか?
すごく思おうとしているけれど、、、
無茶じゃないすか。
SNSを見たみなさんが仕事をくれ、応援のおかげで、なんとか飢え死にしないで済んでいます☺️✨
日毎の糧を
本当に本当にありがとうございます😭
いや、本当に会社組織に頼らない働き方を自分で考えないと、
人生詰みます。
厄介な顧客を会社は追い払ってはくれないよ。
3年かかる対応を、一年未満の人員に背負わせるよ。
厄介な顧客はお引き取り願えないし、
もちろん、手を出したらダメだよ😂
配置転換も無理だよ。
それで社員が鬱になっても保障なんて何もないよ。
能力不足、自己責任だよ。
人は好きなんです。システムも素晴らしい。
ただ、これ、人格とかの問題でなく、構造の問題なんすわ。
環境と人とを愛しておりますので、さらなる発展と繁栄を願います。
誰を責めるつもりもないのですが、
ええ、
正直、
繰り返し繰り返し、
呪いと憎しみが波のように襲いかかり、
悪人の末路を、この目で見て、嘲笑ってやりたいという、
いや、完全犯罪で復讐を成し遂げられたらと思っておりますが、
悪魔的な心情が私を支配しようと激しく誘惑をかけてきております。
しかし、
世界はどう見ても公平ではない。
善人は報われず、踏み躙られ、
悪人が徳をし、守られる。
毎日、祈って出勤し、
道端のゴミを拾って、徳を積んで、
トイレはピカピカにし、
まっすぐにいいことを伝え、
感謝を分かち合い、
波動をあげ、
一人一人全員のために祈り、
仕事が終われば山々と天を仰いで、天の父に一日を報告し、
全てのよきことをイメージし、口に出し、感謝し、
寝る前にいいこと日記をつけ、
しんどいことがあったら、
詩篇を読んで祈り、
神に大声で訴え、
何ヶ月もやり続け、
神は
応えたまいませんでした。
霊がいささか満たされることは感じますが、
肉体の、神経は癒えることなく、
現象が変わることはなく、
奇跡は何も起こりませんでした!
残ったものは何もありませんでした!
ただ、ボロボロになり、顧みられず捨てられた抜け殻のみです!
負けた。
完全に負けました。
全く意味がわかりません。
人生には、永遠に回収されないフラグに別れが存在しますが、
それらは、満ち満ちている。
このことに何か意味があるのだと思おうと、信じようとすればするほど、その深きのりを悟らしめたまえと願うほど、
そして希望を持とうとすればするほど、
虚無と不条理と支払いの催促が全く重くのしかかり、
もはや、
私の心は石のように固くなり、凍てつき、
感動も消え失せ、
優しさも染みず、
ただ目に見える一切のもの、話される話題の全てが心に触れず通り過ぎていき、
全てを分かち合うことができない、
ただ一切のことに虚しさと虚無しか感じないのです。
他の人間と何か言葉を交わすにも、
とてもではないですが事務的なこと以上のことを語ることはできず、
自分の存在は害悪なのではないかとすら思うのですが、
仮面をつけて明るく演技をして振る舞うことは自然にできてしまうのです。
その時、ふと、電灯がついたようになり、自分はまともで、ああ、思い過ごしだったんだと気がつくのですが、
全てが終わると、ただひたすら疲れ果て怯えて動かなくなっている自分がいるのです。
楽しいことも喜びもなく、
痛み、耐えざる痛みと苦悩のみが、ただ永続し、
何をしても消えることはありません。
神は今や、私にとって痛みでしかありません。
苦痛でしかありません。
恐れであり、罪であり、
救いは脅迫です。
責められるべきは只に私の信仰だとか態度だとか、そうした熱情の無さなのです。
神を呪うつもりはございません。
無神論者にもなり得ません。
「私はもう神を信じない」と棄教するつもりもございません。
神が義を為したまわないことに、私は激しく怒っているのです。
神が訴えをひねもす呼び求める私を、
聞くだけ聞いて、護りたまわないことに対して、不平不満を述べ立てているのであります。
そして、呼びかけることにも祈ることにも良きことであろうとすることにも私は疲れ果てて、もう一切がどうでもよくなってしまったのであります。
とにかく、これは、信頼関係の問題であります。
神が愛であるならば、
我が子をなぜこんな鞭打たれるのか。
絶望
絶望
徒労
口に出そうとするのも
どうしていいかわからない
ただ全てが煩わしい。
なんで、自分で自分の命を終わらせることはいけないのか、、、っていうことはよく考えます。
正直、かける言葉や救いの言葉の一切が見つからないというか。
死なないでとか
生きてりゃいいことある
とか本当に言えない。
絶望した結果、自由意志でっていうのもあるかもしれないけれど、
社会が、周りが、
一番親しい人、大切にしなきゃいけないべき人が、
そいつを、そこまで痛めつけてきたんだろうし、
そして誰も救えなかったんだろう、と。
そして、誰も救えない。
ちょっとした優しさとか
ちょっとしたお金とか
社会機構、セーフティネットが
全部全部その重みに耐えれずに、破れていく。
何より本人の中の絶えざる心身の癒えることのない永続する痛みの前で、
いかなる外的なアクションも焼石に水ということがある。
っていう現実の中で、
いや、よくそこまで生きてきたなって。
風邪を引いたら学校を休むように、
マラソンで限界が来たら歩くように、
生きるのに限界が来て、かつどれだけ希望を待ち望んで求めても、全くそれが得られないことを繰り返し学習したら
生存から降りる、降りざるを得ない、
その選択肢しか残されていないと思うんだよな。
だけど
「そこまで辛いんだったら生存降りても〈いい〉」っていうのは絶対に言えない。
神がいるんだったら、
なぜ、わざわざ、そうした実存存在をこの世に生み出したのか。
放置されるのか?
後になって救済があっても、それはちょっと、そこまでする意味があるんですか、と。
そういう問いはごく自然な呻きだ。
そういう、人間の力でどうしようもない絶望を持った人を前にして、
キリストの十字架を見せる。
「神がいるんだったらなぜこんな不条理と沈黙があるのか」
という綺麗事抜きの現実に対して、
その神自身も同じ苦しみを経験し、あなたと共に十字架につけられておられる、
それほどまでに愛しておられる、
ということを伝える。
これは外の象徴や遠くのありがたいものではなく、
私たちの生命の本質を蘇らせてしまう「現実」の出会いだ。
基本的に、十字架なんてものは見たくないし、できれば横にどけて、
神には自分を富ましてほしい、成功させてほしい、健康と安寧を、と祈り、感謝していたい。
しかし、十字架なくしては「救い」はないのだ。
絶望する人間存在を責任もって救えるのは、責任もって世界と人間を愛するものとしてつくった神だけで、
それも、どこか宇宙の彼方にいる観念としての存在でなく、
ちゃんと人間と全ての全てを分かち合い共感し、どこまでも「大丈夫」を宣言してくれる愛。
そして、
「あなたは信じられないかもしれませんけれど、
私があなたの分まで信じて祈りますんで」
とちゃんと伝えて、
毎日祈ることにした。
そういう仲間の存在がすっごく大事だし、
とりわけ人が一番求めているのって
「お母さん」だと思うのです。
これはもう、絶対男性がいくら頑張っても無理だろうと思う。
ジョン•レノンが「ウーマン」で歌うように、全ての人は無条件で愛して、そして叱ってくれる母体と母性の土台が根底にあると思うのよ。
2歳くらいまでに母子関係がなってないと、
幼児は亡くなっちゃうか、その後も愛着不安を生涯抱えて生きる。
ほんと、
今の日本には「祈り」が足りない、
圧倒的にない。
本当にこんな心を病みおかしくなっちゃう人が増えたのは、
祈る心を忘れたから
「いのち」に対するセンスがもはや取り返しのところにまで来ちゃっていると思うのです。
祈るところから始めなければいかんと思うのです。
NOTEを更新しました。
2025年はお世話になりました。
個人の内的なことや考察などを勝手気ままに綴っていた本ブログですが、キリスト者のなかでも、教派をこえて読んでくださっている方がおられて、読者の方から何人も実際にお会いしたときに声をかけられ、恐縮でありました![]()
まあ、特定の界隈に渡って出入り、交流させてもらっている人間は私を除いてほとんど聞いたことがないので・・・。
とかく、この記事を読んでくださっている画面の向こう側お一人お一人のために、祈らせていただきとうございます。
これまでの活動報告なのですが、
ここ数年間は、私の家庭と教友の家庭をで交互に「家庭集会」を開催しておりますが、
カトリック、プロテスタント、幕屋関係なく、集まり、
聖書を読んだことのない方、心に傷を負った方が導かれ、あたたかい雰囲気の中で神の霊に触れる現場にいさせていただくことができて、本当にこれは神様の力以外の何者でもないと感じております。
『17歳から楽しむ聖書』の著者である石田平和さんにも来ていただき、
旧約から新約までの救いの物語、
というよりも、今ここがエデンなのであるということを伝えられ、
大きく聖書の読み方に驚くばかりでした。
私自身、職場のことで、本当に心身限界をきたし、
詩編の140編、141編・・・ダビデの呪いというか怒り憎しみのような祈りを、神の前で毎日毎日大声で祈っていました。
心が、自我で一杯になり、神の前に出られない、祈れないときに、
教友、、、とりわけ、ご婦人の祈りが、まるで聖母の取次のように感じられ、
その祈りのエネルギーは、永遠に私の魂のうちに生き続けております。
思い出すだけで、感謝で泣けてきます。
また、「こんな悲惨な人生があるのか」という友がおりますが、
神への恨みや、憎しみの中にあり、
日々祈ることを伝えました。
祈られた私が、今では、日々祈る側になっています。
すべての活動を「私」がやっていたとしたら、まあほとんど何もできなかったでしょうし、誰も集まらなかったでしょう。
支えてくださった信仰の諸先輩方のおかげです。
本当に、「使徒行伝」の家庭でのパンの分かち合いや祈り、ものと心の共有さながらの現場、です。
もし、「ちょっと覗いてみたい」という方がいらっしゃれば、是非、遊びに来てください。
非常にこの前の集会で印象的だったのが、
「キリスト教というともっといろんなことを勉強したり、日曜日に礼拝いかないといかない、いろんな戒律のあるものかと思っていた」と言われたことなのですが、
本質としては、神様に対して「天のお父様」と親しく呼びかけて声を聞くこと、交わること、これでいいんですよ、
と言われ、その方の目がぱっと開かれたようになったことでした。
生活スタイルや儀式やコミュニティとしての「宗教」が壁になっていることはすごく大きい。
だけれども、いっしょにご飯を食べて、話をして、
親しく神様、神様と呼びかける・・・
そういう仲間がいること。
辛いときしんどい時は、ちゃんと助け合うこと。
これでいいんじゃないですかね、と思うわけですよ。
それこそ、祈ることすら馬鹿らしい、抵抗があるんだったら、
そうじゃなくて、いっしょにしゃべってご飯食べるだけでも立派な「宗教」(笑)ですよ。
塾講師の仕事に従事させていただいている私ですが、
フリースクールの場を使わせていただけることになったので、
コーチングやイエナプランを取り入れた教育の場をつくっていきたいと思っています。
それぞれが、個別に、協力しながら、
探求的な学びをすすめていける場です。
あとは、自分の中にある使命やミッションを生き生きと生かして最高の自分を生きるための教育をしていきたい。
一緒ごはんや合宿をしながら、生きる力や人を信頼する力を取りもどしていくそんな、
天の国が開けるような学び舎をつくっていきたい。
もう一点が、
「一緒ごはん」の「関西支部」(?)じゃないですけれど、
「多拠点生活」の家をつくりたいと思っています。
ここで、生きづらさを抱えた若者たちが、
いっしょごはんをして、しばらく寝泊まりして、自分を回復させていく。
しかし、問題はお金・・・。
活動を見て、知って、寄付をしてくださる方がいれば、すごく嬉しいと思いながら、
新年頑張りたいと思っています。
noteに記事を書きました。
相性が良ければ、授業自体はすごく楽しいしやりがいもある。
そこに、わずかな毒が入り込むだけで、すべてがダメになっていくにもかかわらず、
排除できないで、講師の力量に責任が行くというのはきついよねという話。
noteをやっています。
しばらく、教育について思うことなどを、書いていけたらと思います。
タブーを述べさせてもらうけれど、
やっぱり一定の条件のもとでの枠組みやルールを決めた上での「体罰」はどうしても必要なんじゃないか、
ということを現場ですごく思うわけです。
「無条件にいかなる体罰も禁止」というのは、さすがに教員の人権を著しく侵害している。
もしくは、法によって、周囲の人を守るための必要な隔離や排除の処置をちゃんと認めてくれ、と。
(一番ベストなのは、
教育の仕組み自体を根本的に変えること、
その必要のない空間を創出することなのだが
これはあと100年は変わんない。)
これをやんない、できないから、教員がどんどん病んでいく。
ただ後者を認める、となると、隔離された側の行き先は?
はいはいじゃあ君は授業中私語をしたり反抗したりしたから少年院ね、とはならない。
少年院未満の吹き溜まりのような界隈、暴走族、非行グループだとか、
やっぱりそいつらを集めた教室や教育機関は地獄だろうと。
それが移行するのみっていう話。
というのも、
大人や社会を完全に舐め切って、ルール遵守の意識の欠片も感じられない、あえて「子ども」とは言わないーーー餓鬼
が一定数いるのはいつの時代も変わらない現象だと思うのですが、
どこかで、そこにきっちり厳しく歯止めをかけられる実力行使がないと、
全体がガン細胞のようにどんどん崩壊していく。
そういう現象に法や実力の歯止めがかからなくなると、
賢い人や富裕層は、うまいこと彼らと関わらないところに逃れ棲み分けが自然に生じる。
スラムの周りに巨大な壁ができるように、
「ラザロと金持ち」のような巨大な分断が生じる。
それを治めるための、巨大な暴力が発生するのは、
福沢諭吉の『学問のすすめ』を読むまでもない。
自由と愛と個人の次元上昇を願う人々は、
「波動をあわせず」
「我関せず」
で、それでいいのかもしれない。
もちろん、大半の子どもは、きっちり話したり、厳しく指導したり、褒めたり、認めたりすることによって、ある程度の枠組みを超えたらこうなるんだなということを察知して、行動を修正していくわけでもちろんそうした層にかつてのような体罰ありき、は私も断固反対である。
では、心の人間らしい部分、他者への共感や思いやりを著しく欠き、
「爬虫類の脳」で生きているような人間。
「ここまで一定のラインを踏み込んだら痛い目見るぞ」
というのをちゃんとわからないと、永遠に貪り続け、信じられないレベルの被害者意識と権利意識を振りかざす。
想像してみてほしい。
オウム真理教と粘り強い対話の末、テロリストと信頼関係を結び共存する警察を。
全く刀を抜かず鬼舞辻無惨やその配下の鬼と対話の結果犠牲を耐え忍びながらじっとしている鬼殺隊を。
気持ち悪くないか。
私の高校生くらいまでは普通に体罰は日常的な風景で、
授業中にケータイが鳴ったら教師が叩き折る、
中間体操中外に出ずに教師をおちょくるいじめっ子を、真っ赤になるまで張り倒した教師に、頼もしく思ったものである。
9条護持、死刑廃止を訴えていた超リベラルで優しいな神父でさえも、
「最近は体罰反対反対言い過ぎはおかしくないか。
昔は普通に殴る神父いたんだけれどなあ」と授業中おっしゃっていたし、
普通に校長をやっていた神父が私語をやめない学生を全校集会でビンタしていたわけだが、
こういうことは、進学校でもあったし、
それらが理不尽で不条理なことだとは思わなかった。
そういうことが、一律に全く法律で禁止され、
少しでも何かあると、もう全国ニュースに流れる。
つまり、
貪る人間、恥知らずの人間、倫理道徳を持ち合わせていない畜生
の権利や市民権をどういうわけか、
大半の人間が「おかしい」と思いながら、
唯々諾々と権力に従うように受け入れているわけである。
排除しなきゃいけない人間は排除しなきゃいけないんだよ。
どっかで、「ここまでやったら痛い目見るぞ」を守れる者がなくなっちゃった。
おかしい人間に合わせようとする、受け入れようとすると、
全てがおかしくなっちゃう。
厳しく強制されず、放置と甘やかしばかりを続けさせられ、
勉学や授業をサボり、言い訳と恨みつらみばかり毒を吐き続け、
周りに迷惑かけてきた人間が、
将来Fラン高校行って、中退して、
人が離れ、定職にありつけず、もっと悪い奴にひたすら搾取されまくった挙句、
行方不明になって、親の死に目にも会えない、、、
10代の頃に調子に乗ってきた何十倍ものツケを払う、
という実例は、
いくつかみてきたのだが、
これって、自業自得なんだろうか。
社会全体の責任?
その人生は幸福だったのだろうか、
意味があったのだろうか、
と神に問う。
確かに十字架のあの人の目から見たら真っ先に天国に行くくらいの価値のあるものだったのかもしれないし、
我々のような感受性を持つものこそが深い縁にいるのは必至なのであろうが、
わからない。
ただ、ざまあみろでもせいせいしたでもなく
悲しいでも、
幸せを祈るでもなく、
なんとも言えない気持ちになる。
どうでもいい、って思えたらいいんだけれど。
そいつの人生だから、これは他人が口にすることでもないし、
関わろう、援助しようとするとそれもはねのける。
地獄があるとしたら、そういうところなのかな。






