「自分の信仰を〈ほんもの〉にしようとすると必然的に哲学することになる」
「信仰を持つものにとって、哲学は大いに役立つ。
それどころか、「真理」と「多様性」について考えることを避けて通れない現代世界において今や必須の教養である」
これ、私も心からそう思わざるを得ないのです‼️
哲学ゼミで知り合った福音派二世クリスチャンの坂岡さんの著書を
序文から「おもしれーーーー!」と絶叫(心の中で)しながら拝読させていただきました。
うん、これ読書会したいわ。
買ってください 笑
坂岡さんのことについて。
もともと哲学をはじめた動機が宗教との格闘でそれが半分人生のテーマでもあったので、
境遇の似た坂岡さんの論文にプレゼンテーションに、ただただその問題意識の掘り下げと、教養や洞察の非凡さと、通底する暖かさと誠実さに、
「いつか必ず本を出して欲しい」と思っていたところ、念願の著書が手元に届き嬉しい限りです。
しかも、対話篇が秀逸で、難しいと見られる哲学者の問題意識を身近な信仰の問題にまで落とし込んで、私たちを対話に巻き込んで、
いつの間にか、登場人物の一人になった感覚をすら覚えます。
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よく、「神はいるんですか?」「いると思いますか?」と聞かれる。
私の場合は、「わからない。」「そうだよねー。わかんないよねー」「いると思います。なぜなら論理的に推論して、、、云々」と言うことは言え「ません」。
かといって「います!信じなさい。」と言うのも、なんだか違う。
「俺にとって」は普通に「いる」んです。
一緒に住んでる人くらいの感覚です。
でもやっぱり「全てはわからない」。
ただそのコンタクトやコミュニケーションの内実が全人格的なものであって、単なる「対象」ではない。
問題って「いる、いない」的な二元的な単純な問題ではなくて、
その人の固有の人生に「出会う」「救いを実感する」「人生ひっくり返る」っていう体験と、その望み、欲望に他ならないと思うんですよね。
多かれ少なかれ、人は、満たされない絶望感とか罪の意識や虚しさや重荷や孤独を抱えていると思うのですが、
そういう感情や状態に対して、全人格レベルでの深い癒しをもたらしてきた歴史があることは確かです。
だから第一にすべきことは、まず、
相手の心の奥深くにどういう傷や呻きや絶望や望みがあるのかということを、しっかり共感的に受け止めようとすること。
対話をすること。
よければ、人間の力ではどうにもできない罪や絶望という病をキリストが埋めることができますよ、
私は、こうこうこういう体験があって救われたと感じましたっていう、私にあった具体的な体験や日々のことや「神さまの働き」、
自分自身や状況がこう変わったということを率直に伝え、
「あなたにも出会おうとしておられる」「イエスはあなたの心の扉をノックしている」という「私の確信」を、「信じて」伝える、交わる。
けれど押し付けることはしない。
人の「救い」ということに関しては、
「何を」以上に「この人に」っていう方がより根源的だと思う。
信仰の世界に飛び込んで、
様々の自説を弄していた私に対してよく言われたことですが、
「神の世界は人間の頭で考えた哲学ではわからない」
本当によく言われてきました😅
私も、同じことを言うだろうと思います。
確かに、確かに、そうです。
哲学が成長して、神の恩寵になることはない。
回心(コンバージョン)や聖霊の体験だとか、
心が変えられたとか、
「どう考えても神様が奇跡を起こしたとしか考えられない」体験
いうものを、
多かれ少なかれどの教派や教会の人でも、
聞いてみたら、有していて、
有している人同士、「ツーカーの関係」みたいな感じで、喜びを分かち合うことは多い。
ただ、それを、深く吟味して味わい咀嚼して、
自分の「体験の意味」を言語化して、
誰かと分かち合ったり伝える作業というのは、
本当に大切。
私が「何を神の名で呼んでいるのか」「神に何をぶつけているのか」「祈る時、何を祈っているのか」「神が自分に何を欲しているのかと耳を傾ける」と振り返る時、
それはどうしても自分自身の「中心的な望み、欲望、願望、感情」と深く結びついていることを自覚します。
ニーチェの洞察。
僕たちを力付けてくれたり、安全、安心の感情を与えてくれるものを、
僕たちは「真理」「信じたくなる」と思ってしまう。
「神」「聖書」は、「人生の問題集」に対する「模範解答例」「正解」のようなものではない。
どこまでも、自分の実際の人生の体験や経験、そしてその深いところにある「意味」を通してしか、見えてこない。
もし、それが「真理」や押し付けになってしまったら、暴力と化す。
容易にそれは転化する。
ニーチェの手厳しい指摘は、この私にも当てはまる。
現実があまりにも辛いものだから、
「神」に逃げる。
「厭離穢土欣求浄土」的諦めの発想。
神の世界に対して、現実に対して敵対的な目で見ている節がある。
行動することではなく、祈りによってのみ現実を変えようとする。
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私の生涯を通したテーマが、おそらく「普遍性」とか
ちなみに私自身、10代は「ハッピーなサイエンス」という比較的原理主義的傾向の強い宗教の二世
→名だけのカトリックのミッションスクールで宗教科の先生から、新興宗教と伝統宗教の違いを諭され
→哲学の道に進み、
→原理的「宗教」との戦いに明け暮れた日々を過ごしておりました。
ニーチェにどっぷりハマり、
→やっぱり独善的で排他的な一神教やキリスト教だけは馴染まないし好きになれない。
だけど、イエスは好き。教会の仲間も好き。
一応洗礼は受ける。
→日本の諸宗教をめぐる。
→では、何を信じればいいんだろう。
→鬱の時にキリスト教の本に出会って信じてみようと思う
→四国遍路歩きながら、ある宗派と出会う
→普遍的な活動をしている神父と出会う
→6年後コンバージョンを経験する。
うーーーん、
結局、紆余曲折あったのですが、
実のところ「真理」というたいそうなもの以上に、
「寂しさ」「居場所」「自分が自分でいていい」
「どんな私でも無条件に愛され、受容され、肯定される」
そういうモチベーションはすっごく大きいと思うんですよね。







