救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。


「自分の信仰を〈ほんもの〉にしようとすると必然的に哲学することになる」
「信仰を持つものにとって、哲学は大いに役立つ。
それどころか、「真理」と「多様性」について考えることを避けて通れない現代世界において今や必須の教養である」

これ、私も心からそう思わざるを得ないのです‼️

哲学ゼミで知り合った福音派二世クリスチャンの坂岡さんの著書を
序文から「おもしれーーーー!」と絶叫(心の中で)しながら拝読させていただきました。




うん、これ読書会したいわ。
買ってください 笑

坂岡さんのことについて。

もともと哲学をはじめた動機が宗教との格闘でそれが半分人生のテーマでもあったので、
境遇の似た坂岡さんの論文にプレゼンテーションに、ただただその問題意識の掘り下げと、教養や洞察の非凡さと、通底する暖かさと誠実さに、
「いつか必ず本を出して欲しい」と思っていたところ、念願の著書が手元に届き嬉しい限りです。
しかも、対話篇が秀逸で、難しいと見られる哲学者の問題意識を身近な信仰の問題にまで落とし込んで、私たちを対話に巻き込んで、
いつの間にか、登場人物の一人になった感覚をすら覚えます。


ーーーーーーーーー

よく、「神はいるんですか?」「いると思いますか?」と聞かれる。
私の場合は、「わからない。」「そうだよねー。わかんないよねー」「いると思います。なぜなら論理的に推論して、、、云々」と言うことは言え「ません」。
かといって「います!信じなさい。」と言うのも、なんだか違う。

「俺にとって」は普通に「いる」んです。
一緒に住んでる人くらいの感覚です。
でもやっぱり「全てはわからない」。
ただそのコンタクトやコミュニケーションの内実が全人格的なものであって、単なる「対象」ではない。

問題って「いる、いない」的な二元的な単純な問題ではなくて、
その人の固有の人生に「出会う」「救いを実感する」「人生ひっくり返る」っていう体験と、その望み、欲望に他ならないと思うんですよね。
多かれ少なかれ、人は、満たされない絶望感とか罪の意識や虚しさや重荷や孤独を抱えていると思うのですが、
そういう感情や状態に対して、全人格レベルでの深い癒しをもたらしてきた歴史があることは確かです。

だから第一にすべきことは、まず、
相手の心の奥深くにどういう傷や呻きや絶望や望みがあるのかということを、しっかり共感的に受け止めようとすること。
対話をすること。

よければ、人間の力ではどうにもできない罪や絶望という病をキリストが埋めることができますよ、
私は、こうこうこういう体験があって救われたと感じましたっていう、私にあった具体的な体験や日々のことや「神さまの働き」、
自分自身や状況がこう変わったということを率直に伝え、
「あなたにも出会おうとしておられる」「イエスはあなたの心の扉をノックしている」という「私の確信」を、「信じて」伝える、交わる。
けれど押し付けることはしない。

人の「救い」ということに関しては、
「何を」以上に「この人に」っていう方がより根源的だと思う。



信仰の世界に飛び込んで、
様々の自説を弄していた私に対してよく言われたことですが、
「神の世界は人間の頭で考えた哲学ではわからない」
本当によく言われてきました😅
私も、同じことを言うだろうと思います。
確かに、確かに、そうです。
哲学が成長して、神の恩寵になることはない。

回心(コンバージョン)や聖霊の体験だとか、
心が変えられたとか、
「どう考えても神様が奇跡を起こしたとしか考えられない」体験
いうものを、
多かれ少なかれどの教派や教会の人でも、
聞いてみたら、有していて、
有している人同士、「ツーカーの関係」みたいな感じで、喜びを分かち合うことは多い。

ただ、それを、深く吟味して味わい咀嚼して、
自分の「体験の意味」を言語化して、
誰かと分かち合ったり伝える作業というのは、
本当に大切。


私が「何を神の名で呼んでいるのか」「神に何をぶつけているのか」「祈る時、何を祈っているのか」「神が自分に何を欲しているのかと耳を傾ける」と振り返る時、
それはどうしても自分自身の「中心的な望み、欲望、願望、感情」と深く結びついていることを自覚します。

ニーチェの洞察。
僕たちを力付けてくれたり、安全、安心の感情を与えてくれるものを、
僕たちは「真理」「信じたくなる」と思ってしまう。

「神」「聖書」は、「人生の問題集」に対する「模範解答例」「正解」のようなものではない。

どこまでも、自分の実際の人生の体験や経験、そしてその深いところにある「意味」を通してしか、見えてこない。


もし、それが「真理」や押し付けになってしまったら、暴力と化す。
容易にそれは転化する。

ニーチェの手厳しい指摘は、この私にも当てはまる。

現実があまりにも辛いものだから、
「神」に逃げる。
「厭離穢土欣求浄土」的諦めの発想。
神の世界に対して、現実に対して敵対的な目で見ている節がある。
行動することではなく、祈りによってのみ現実を変えようとする。


ーーーーー

私の生涯を通したテーマが、おそらく「普遍性」とか


ちなみに私自身、10代は「ハッピーなサイエンス」という比較的原理主義的傾向の強い宗教の二世
→名だけのカトリックのミッションスクールで宗教科の先生から、新興宗教と伝統宗教の違いを諭され
→哲学の道に進み、
→原理的「宗教」との戦いに明け暮れた日々を過ごしておりました。

ニーチェにどっぷりハマり、
→やっぱり独善的で排他的な一神教やキリスト教だけは馴染まないし好きになれない。
だけど、イエスは好き。教会の仲間も好き。
一応洗礼は受ける。
→日本の諸宗教をめぐる。
→では、何を信じればいいんだろう。
→鬱の時にキリスト教の本に出会って信じてみようと思う
→四国遍路歩きながら、ある宗派と出会う
→普遍的な活動をしている神父と出会う
→6年後コンバージョンを経験する。



うーーーん、

結局、紆余曲折あったのですが、
実のところ「真理」というたいそうなもの以上に、

「寂しさ」「居場所」「自分が自分でいていい」
「どんな私でも無条件に愛され、受容され、肯定される」

そういうモチベーションはすっごく大きいと思うんですよね。

おとといも、一人で部屋で、「このやろう!死ね、ばかやろー」と絶叫して、枕を投げつけていました 笑
で、そういうことを信頼できそうな他人複数にぶつけまくっていました。
10代や学生時代はそれができなくて、
「自分のせいだ」と、自分を罰する。
そうしながら、周りに間接的に復讐を試みる。

ーーーーーーーーー



さて、
来週、以上のテーマで、
オンライン講演会を開催いたします😌

主催者は、クリスチャン宗教二世で、臨床心理士でもある、坂岡さん。
最近著書を出されました。
彼の論文の多くを目に通しましたが、共感しかなくただ秀逸としか言いようがない。

閉ざされた信仰を哲学がひらく 隣人と共に生きる対話篇 https://amzn.asia/d/02LcWTIX



主に精神医療関係や支えるかた向けのお話になるかと思いますが、
もしご興味のある方がいれば。

私が10代の頃、自傷行為をはじめたきっかけというのが、
逆説的ではあるのですが、
「夜回り先生」のリストカットの話を聞いて、なのです。

「パンパンになった心を、リストカットという形でガス抜きをする。
だから止めちゃいけない。
心が限界になったサインだということをわかって、
その根本的な原因まで向き合わないといけない。
信頼できる人の前で切れ。
抱きしめてくれる人が必ずいるから。」

なんていう話。

つまり、
辛さをわかって、抱きしめてくれる人が欲しかったっていうそれだけの話なのですが。

ただ、それは、得難い。
得難いから、切る。
切りながら、それを得ようとする。
それを得るための手段として、無意識のうちに、それを用いる。
でも、結果は真逆になる。
でも、それ以外に伝える術がない。

当時の孤独や心の鬱屈やつながれなさや支えのなさやそういうものを抱えていたのですが、
それを言葉で伝える手段や、
わかってくれそうな人がいなかった。

言葉で伝わるなら、とっくに伝えている。
でも、ほぼ全てが、論理とジャッジとアドバイスでかえされる。
自傷を知れば人が離れていく。

わかっている。
でも、溺れてどうしようもない心はどこにも行き着くところがない。

今でもあの感覚をどう言葉にしていいかわからない。
誰にも届かない、理解されない感覚。

恥。
まともで健康な社会と隔絶された感覚、
「どうしたって分かり合えない」っていう感覚。
なのだけれども、必死にまともで健康な社会の一員として、
「みんな多かれ少なかれいろいろある」
って言い聞かせて、
心を殺しながら振り落とされまいと頑張り続ける。

どうしようもならないっていう絶望感。

語ろうとすると、
「乖離」が起こるのを感じる。
つまり、他人事のように、興味がないかのように、
単なる時系列や説明になっちゃう。
うまくそれっぽいことを語ろうとしてしまう。
違うと思いながら、
おっそろしく冷めた自分が出てくる。

うまく伝えられるかわからないのですが、

結局、
たった一度なのですが、
わかってもらえる、抱きしめてもらえたという体験があったので、
私は、自傷を辞められた。

たった一度なのですが、それが決定打でした。

今回の講演会が、
自分自身にとっても、
もしくは、伝わる人にとっても

着地点としては、
「つながり」
っていうところに持っていけたら、
なんてことを思いながら、

まだ

スライドが

できていない😱
「ミサ」って何?

多分人間にとっていちばんの幸せ、いちばんの欲望って、
本当に心からの溢れんばかりの愛で、人と人の心が、何も遮るものがないほどに結ばれるっていうことなんだろうと思う。
人は、本物の愛に触れると、
その愛を伝えたくて仕方のない人間に変えられていってしまう。

神があなたをこんなに愛しているんだ、
その神に出会ってくれ、
ということを伝えたくてたまらない。

いのちの奥底にある愛の喜び。
永遠の生命。

現代の欲望と不安に覆われた文明で、
僕たちの心は、そこから離れて、いつも寂しかったり、心を閉ざしたり、痛んだり、絶望から抜け出せない。

そんな心の奥底に、現実に、
天地ができる前から、自分の存在を望み、名を呼んで、この世界に生み出した神様と再び出逢い、帰って行き、再び派遣されていく旅が、
全てが完成されるその「いつかのいい日」まで必要なのだ。

ーーーー

カトリック教会で中学生たちに、
自覚的な自立した信仰を持つための「堅信」の授業をしているけれど、
本当にそんな思いでやっている。




天地をつくられ今も生きている神様がいて、それは僕たちと愛のリレーションシップを持ちたくてずっと語りかけ続けている。
神様が本当に人間そのものになって、僕たちと全てを分かち合って、
僕らの罪のために十字架につけられて、死んで、生命を与えて、復活したっていうのが、プロテスタントでもカトリックでも同じ根本的なメッセージ。

だけど、
カトリックを語る上で、カトリックの信仰を伝える上で「ミサ」というのは、本当に特別な意味がある。


カトリックでは「毎日」、「ミサ」をやっている。(毎日である!)

じゃあ、「ミサ」ってなんなんだ、
って幕屋の教友、プロテスタントの教友、信者じゃない友人からよく聞かれるし、
実のところ、カトリック信徒でも、その本質を人に伝えられない人が多いんじゃないだろうか。

プロテスタントでは聖書と信仰が中心でそこから日々神の言葉に霊感を汲み生命をもらう。

ミサでは一言一句式次第が全て決まっており、全世界で同じ文言に動作。
若い人や少年たちは、意味がわかんないし、長いし退屈だし、
福音派のプロテスタントからしたら、燃え盛るような異言は出てこないし、儀式的だし、、、

おまけに祈ってる最中に献金袋は回ってくるし。

何がありがたいんだかわからない。


……私もそう思っていた。

ミサのすごさは語り尽くせないし、極め尽くせないし、
どうにかして、伝えたいと思っているが、
当のカトリック教会においても、
「ミサはすごいんだ」ということを、真正面から語り、伝えられる機会が、
こういう1時間くらいの講座の時間をもらわないと、ない。

あるいは、あんまり教会に来ない「ミサって退屈なんすよね」という子に、ここぞとばかりに、
「神さまは本当に生きていて、あなたに出逢いたがっている。」
っていうことを、
まあ、3時間くらい話を聞き、1割くらいそういう宣言を、する。

相手の背後にいる守護天使に動いてもらうように働きかける。
(人にはみんな守護の天使がいるのだ)

ミサはキリスト自身が生きて働いているのは承前のこととして、


(晴佐久昌英『福音宣言』より。

「これは中学生には難しいよ」と言われた。)


神父さまがいうには、
ミサで食べるのは、キリストの身体のパン(御聖体)だけでなく、
聖書のみことばも「食べる」。(野獣が骨をしゃぶりつくすように)
その言葉に養われて私たちは心も身体も成長していく。

ミサでは、2000年の時空をこえて、
聖霊の働きによって、
キリストの十字架での贖いが「現在化」されている。
(「繰り返されて」いるわけではない。)


ミサで実際に起こっていること。
現代の、人もまばらな教会。
教会から遠ざかっていた若者がなんとなくふらりと訪れ
戸惑いながらその様子を見ている。

いつものミサの風景の中に、
本当に、天使たちや聖人がともにいて、
イエスキリストご自身が祭壇で自分を奉献され、
十字架の上で、私たちに自分の身体を差し出し、
血を流される。

若者は、自分が愛され、呼ばれ、主が自分のために命を捨て愛してくださっていることを知り、
「我が主よ」と言わずにはおれない。


一緒に講座を受けてくれた、フィリピンの女性が、泣くほどだった。
私も、泣いた。

キリストが本当にいるんだよ、ミサには。

御聖体からは離れられないんだよ。

ミサについて、
心の琴線に触れた書物をたくさん読んで、味わいを深めて
自分の実感、体験を伝えてきたつもりだったけれども、
まだまだ全然〈知らない〉喜ばしき神秘のことや、大きな喜び、
現存するキリスト、、、
全然知らないことが海のように多く深すぎて、
もっと深めたいし、

もっともっと伝えたい、

と思うわけですよ。







「先生は日曜日何してるんですか」
と聞かれる。

「ミサ」

「ミサって誰ですか」

「神さまとの一緒ご飯だよ

で、その後子供達にイエス•キリストのことを伝えている。」

「じゃあ、豚肉とか食べちゃダメなんですか?」

「そりゃ、イスラムやユダヤ教だよ。
イエスは、あれ食っちゃダメとかこれ食っちゃダメっていうよりも、
食べるものじゃなくて、人のうちから出てくるものが人を汚すって考えていた。
どんな戒律よりも、愛こそが大事なんだ。
愛が一番大切な戒めなんだ。」



「先生、イエス•キリストって本当に生き返ったんですか?」

「本当だよ。
生き返ったっていうか、
復活。
つまり、蛹が蝶になるように死を超えた全く新しいいのちの姿で、
心を閉ざして絶望していた弟子たちの間に現れたし、本当に出会った証言がたくさんあるんだ。
ある学者が復活なんかでっち上げだっていう証拠を集めようと何年も躍起になって、結局、最終的に復活を受け入れてクリスチャンになったんだ。

これは、最先端の量子力学なんかでも言われているけれど、
人は死なない、っていうこと。
肉体は見えなくなるけれど、
このうちっ側の生命は、決して死ぬことはない。

僕たちの今生きているのは、
胎内みたいなもので、
死は誕生。

てなことを考えると、
人生どう生きるかっていうことは大きく変わってくるよね。

どうせなら愛を持って、
自分自身を最高に喜んで生きていきたいよね。」

「じゃあザビエルも復活したんですか?」

「まだだけど、
聖人だから遺体は腐らないで、インドにまだ安置されているよ。
彼が日本にいたのは2年くらいで、インドに戻って熱病で亡くなった、はず。」

授業が終わって、1時間くらい居残りをする彼ら。
こんなことに付き合っていたら終電だ。

僕は、いつも締める時には隠れた部屋で一人で祈るのだが、
早く締めたいので、こっそり1日の感謝や、来週も一緒にいて守ってくださいということを祈ったら、
何人かが一緒に手をあわせて祈って、
「アーメン」
とあわせてくれた。

「アーメンってどういう意味か知ってる?」

「知らないっす」

砕けた言葉で言うと、
「ほんまそれ‼️」
「激しく同意」
っていう意味 笑

神さまが本気で僕らに伝えていることに、ハート全体で受け入れますよってこと。

「じゃあ、彼女口説く時も使えますね。」
「どういう意味や 笑」

そんな話を、する。
ぽろっとそんな話をできる時が、一番幸せである。

子どもたちは、永遠の生命や、幸福について語ってくれる大人を、
ことのほか喜んでいる。

大人、、、というか、単なる年長の仲間と、感じている。

帰りの電車待ちの駅でも、
天のお父さま、天のお父さま、と嬉しくて、親しく呼びかけてしまう。

イエス•キリストは、
こんな僕のような、かなり変わっているものを「別のものになる必要はない」と愛して、
そのまんまで深くハートでつながらせようと、恵みを与えてくださっているように思う。




「誰でも、疲れた人や重荷をおった人は私のところに来なさい、休ませてあげよう」という言葉。

重荷や疲れが軽くなって安心する時ってどんな時だろう。

一人っきりで、100キロのおもりを背中に背負ったまま、暗闇を一歩一歩歩いている感じで呼吸もしんどいっていう状況は、きっと多かれ少なかれ誰しもそんな状況になることはあると思います。
資本主義の社会の中で、「しっかりしなきゃいけない」「結果を出さなきゃ無価値」「どれだけ頑張っても満たされない」という重圧はいつもあり続けます。
ですが、100キロのものでも、数人で運べば、負担は軽くなります。
共感してくれる人、分かってくれる人がいて、いろいろ手配してくれるだけでだいぶ楽になります。
あとは、心の奥底の本音、「死にたい」でも「生きているのが辛い」でも安心して出せて、「よく生きてくれたね」と言われて、
「生きててよかった」と心から思えたら、それは人生が変わることです。

「効果があった」と思うことをあげてみます。
•一番が、休む、何もしない勇気を持つこと。
•寝る前に、「できたこと」「感謝」をたくさん、それこそ思いっきりハードルを下げていいので箇条書きにすること。
•いろいろ話せる場に行く。
すぐ問題の解決が見つかるわけではないのですが、ずいぶん違います。
共感できる人たちとの話があるだけで、ぜんぜん違います。
方向性が見えてきます。
•「本音」を伝えられる瞬間があると流れが大きく変わります。
•また関わっている人から、一番深い「本音」の蓋がパカっと開く音が聞こえた時、「この瞬間があったら、もう大成功だ」とすら思えました。
•思い出があるけれどももう使わないものや、いつか使うかもしれないけれども取っておいているものの断捨離
•食事に気をつかう。特に、糖類、小麦、植物脂の入ったものは摂らない。これで、肩こりや呼吸の苦しさはかなり取れました。
•SNSのアプリを削除。22時以降はスマホをオフにして、画面も白黒にする。
•深呼吸を意識的に取り入れること。
•悩みや考えていることをノートに書き出す。
•朝、朝日を浴びて、散歩する。
•自然に触れる。自然に正対する。
でも一番は、心の根っこの根っこ、本音の部分で、
「だいじょうぶ」って一緒にそれを背負って、
本当に自由にしてくれる絶対的な愛をどこかでみんな求めていると思うんです。
土星が空に現れているのを見た。
大きくて、驚いた。
もちろん夢の話だ。

こんな夢を見たのは、
寝る前に村上春樹のIQ84を読んでいて、
そこに「二つの月」が現れた、とかそんな話があったからなのだろうけれども、
僕の脳裏には、
巨大な土星が現れた🪐



驚いた。

夢の中で、なぜ、と思った。
なぜよりによって土星なんだ。

こんなに土星が地球に接近することって、あるのか?
月が綺麗に大きく見える夜はあるけれども、
あれは実際に月が近づいているのではなくて、幻影でそう見えているだけなのだそうだ。

そんな存在感で、土星が、あまりにも巨大な形で、アパートの窓の外に見えていた。

土星って、固形じゃなくて、ほぼ巨大なガスのかたまりだったよな、
なんてことを思う。

人は住めないし、地表そのものが存在せず、もし降り立ったら無限に下降して一生そこから出ることはできないだろう。

なにが「どせいさん」(MOTHERシリーズ)だ。
「ぽえーん」だ。

ゾッとする。

水星も金星も火星も土星も木星も冥王星も海王星も人は住めない。

しかもそれらの惑星の間には、絶望的な距離がある。

宇宙という海よりも広い寒々とするような巨大な空間(?)の中に、
全てのものが恐ろしいまでの秩序で回転していて、
それらの一切が生命がなく、無人の星。

ポツンと地球だけが無限の虚空の中にちょうどいい塩梅でビー玉のように置かれてその中にだけ、
夥しい生命と、
そしてごくごく最近になって知性などを有したホモ・サピエンス種がいて、
一種の「概念」を扱うことに長け、広範囲での共同体を作り出すことに成功し、文明を何とかして築き上げている。

なぜ、「ぼく」はいるんだ。

そして、
「ここ」は「どこ」なんだ?

ぼくはどこに来たんだ?

推測される場所としては、
土星の衛星である「タイタン」あたりの可能性が高い。

そういえば、
タイタンには水があり、地球と近い環境で、
生命らしきものが存在してもおかしくないとかなんとか、
いっていたような気がする。

ああ、そうか。
そこにも地球と同じような、「普通の文明」とか「退屈な日常」ができて、
巨大な土星が空に映ることなんて日常の光景なんだ。

静岡県民にとっての富士山みたいなものなのだろうか。

でかい。
それにしてもでかい。

圧迫感がすごくてこの星が重力に飲み込まれないか心配になった。
いよいよ、太陽系の秩序も崩壊して、いろいろ太陽に飲み込まれたりして、
虚空の宇宙にバラバラになっていくんじゃないかと。

そんな予兆なんじゃないかとすら思った。

でもじゃあ待てよ。

宇宙に地球に生命を生み出す力や秩序があるんだとしたら、
地球に見えるカタチをとって現れては消えを繰り返している生命なんてのは、その宇宙の生命の一つのあらわれに過ぎないんじゃないだろうか。

知性を持った、だけど儚いニンゲンの存在も、この宇宙が生み出して、
前頭葉の小さな、理解できる範囲の器官でなんとか世界を、「人間モデル」から離れることは決してないだろうけれど理解しようとしている。

自己保存の欲にまみれこの地球の形を大きく変えながらも、
ちょっとだけ、世界を良くしようと足掻いている。

小学校や中学校の頃、
授業中に、ふっとそんな考えが頭に浮かんで、
お腹の奥から寂しさが込み上げてきて、
日常から一人だけ切り離された気持ちになることがあった。

みんなはそんな気持ちにならないのだろうか。

教壇に立って大人になって社会人になったらそんなことは思わなくなるのかと思ったが、授業中でも、試験監督中でも、いっせいに机に向かってカリカリやっている子たちを見て、ふっと、なることがある。

たまに気になって、そんなことを聞いてみる。
「ない」っていう子もいれば、
「ああ、あります!」っていう子もいる。

でもそんなことは役に立たない。
試験に出ないし、社会から考察を問われることなんて人生にはない。

何百人と子どもを見てきて、
この国にいるほぼ全ての子どもは、ただ関係なくすれ違うだけの存在。

出会いは偶然。
しかし、運命を変えることなんて、偶然の積み重ねなのだ。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーが偶然教会で出逢って、ビートルズが結成されたように、
松下村塾で、地元の子らが吉田松陰という男に出会って、維新の原動力となって行ったように。

「計算し尽くされたかのような見事な偶然」というものが、
私たちの人生や歴史には存在する。

地球に生命が生まれたのも、人と人が出会い、存在するのも、
恐るべき偶然。
驚愕すべき偶然。

存在の偶然の意味もわからないし、
不条理や苦悩の意味もわからない。
だけど、後になって、「ああ!」と思い、ゾッとする感動を覚えることがある。
あの時、あの出来事がなければ、
あの時、あの偶然がなかったら、
あの時、あの友人の呼びかけに答えてなかったら、、、。

思うことは、
私やこの場所との出会いが、
「素晴らしい偶然」の出会いであれるよう、できる限り誠実でありたいということ。
「時」に備えておけるようにしていたい、ということ。








胃がキリキリしましたが、

ちゃんと正面から伝えるべきことを伝えられた、と思います😅

思春期男子の「性」の扱い方や話題について。

時にそれが、公の場で、軽薄に語られることに関して、
私は非常強い危機感や悲しさを覚えております。

「何か」がすごく嫌だ、不快だ。
一人だけ自分の感受性が敏感すぎるんだろうか。
だけどその「甚だしく不快」な感じを、
正確に言語化して、想いとして伝えるのをグッと堪えたまま、
内心さまざまな思惑を抱えながら、
多分、多くの人が目を細めつつ、
自分も身に覚えの一つや二つあるものだから、
笑ってやり過ごして、
「むっずかしいですよね」
「そんなもんですよ」でやり過ごすんだと思う。

そこにある凄まじいまでの「暴力」を看過して。

もちろん、法的には「セクシャルハラスメント」でアウトっていうのもあるんだけれど、、、
ただそれだけでいいのかな。

TPOをわきまえるとか、
「恥」の感覚を持て、
それも、ある。

ただ、社会的な外堀の文脈のみでやり過ごして、
バシッと、有無を言わさず、
「やめなさい!」
で、
そのまま、終わり、
でいいのかな。

性の話題を、全く「タブー」にするべきではない、と思うし、
「悪いもの」「恥ずべきもの」として抑圧すべきでもない。
かといって、
「やらしいものではありません!すばらしいものです」
とオープンに話すのもなんだか、嘘くさい。

まあ、本音、人間を根源から動かす深いエネルギーであり、
倫理や規範や理性の奥にはまりきらず常に重力のように蠢いているパワーで、
それは時に「暴力」と紙一重だし、
奥深い優しさや神聖なものとも近い。

この二つは、
まるで二匹の馬がいる馬車を操るような感覚だ。
どちらかが欠けて、
プラトニックなものになっても、
あるいは獣のようなものになっても、
人は満たされることがない。

「正しい方向に秩序づけられる」ことが重要だ。

ちょっと、授業後に生徒を呼び出す。

「まじかぁ、、、」と気まずそうな顔。
まっすぐに顔を見た。
「今日の発言、どう思う」
と問いかけ次第、
彼は、まっすぐに
「周りを不快にさせてしまったと申し訳なかったです。」

私が率直に、嫌だった、ということを伝え、
それは社会的にも法的にもアウトだよ、
ということも伝えつつ、
理由を聞いたところ、
「だって、みんな友だちがそういうことを話してて、先生も笑って許容しているから」。

まあ、そういう年頃だから、わかる。

ただ、それだけではない、ということも。

あなたを尊重して幸せに生きてほしいということを伝える。


性は、
「りっしんべん」に「生きる」。

いちばん深いところの人格的な交わり。


いちばん、
深くて
弱くて、
センシティブで、
さらけ出されたところを、
優しさや愛で包み込むものであってほしい。

その人の人格は、その人が性をどう扱うかによって、見えてくる。

だから、軽々しく扱っていいものではないし、
あなたにいちばんすばらしい、幸せに向かう愛に向かってほしいから、
たとえ周りがみんなそうしているから、といっても、そういう扱いをされることは悲しい。

いちばん大切にすべきものをいちばん大切にあつかえる人間になってほしい。

ていう想いを伝えたら、
こっちの目を見て、まっすぐに聞いてくれた。

10代の頃って、
「正しさ」「ルール」
以上に
「仲間と盛り上がる、つながる」
ことの方が重要で、個人個人は素直なのだが、
その重力の中で安易に、流されてしまう。

だけど、
その中で、
「本当の自分の心」「幸せ、自由の選択をする」「自分自身であること」
から、薄々自覚しながらも、ズレた方向に向かってしまう。

そこには歪んだ「楽しさ」はあるだろうけれども、
それは虚しさしかない。


こうしたことを、
ちゃんと伝えられる大人って、
どれくらいいるんだろうか。



悩んでいた時にふと思い出したのが、
中学一年生の時に、校長先生から受けた話と、
大学時代に竹内修一教授から受けた「性の倫理」の対話。
そして、池田晶子さんの「14歳からの哲学」。

校長は中1の私たちに、
「将来の伴侶となる女性が今この世に存在しているから、今日から毎日のその女の子のために祈れ。
そしてプロポーズした時に、中1の時から君のために毎日祈っていたよ、と伝えるんだ。」
という話。
(私は、毎日、、、ではなかったけれども、やっていた、と思う。
そして、そんなことを伝えた、と思う)

性とは、全人格的なもので、
その人がどういう人であるかは、
その人が自分の性をどういう扱いをしているかでわかる、
ということ。

この頃つくづく思うのが、
人間存在そのものが根っこを失って、どんどん軽薄になりつつあって、
「存在」を見失っているのではないかということ。

この文明の流れに、ささやかながら抵抗して、警鐘を鳴らし続けられたら、ということを思う次第。




実は、
オンライン家庭教師をさせていただいております☺️
「親子コーチング」でやってます。
ご紹介心から感謝です🥲

卒業式練習で、椅子を蹴っ飛ばしちゃってそのまま帰ってしまうような男の子😂
、、、なのですが、私と一対一の時は、すごく真面目で、礼儀正しくて、言われたことはちゃんとやる。

わからなかった問題も、ちょっとやればガンガンできるようになって、
私もそういうのを見るのが嬉しいので喜びます😊

去年は、、、いや去年だけでなく、5本の指以上、完膚なきまでの挫折を繰り返し、絶望しかしていない私にとって、
嬉しいことはもちろんですが、
「これはどういうことか」と思っています。

お母様からは、感謝され、ひとえに私の人格と人柄だというのですが、、、
そうなのか?
決してそれだけではない。

もちろん、目の前の子の心理検査をやって、タイプ、特性を把握し、理解しようと心がけ、
自分が味方であり、伴走者であり、勇気づけをし、信じていることを繰り返し伝え、
成長のために適切なハードルを与え続けるわけですが、
「すべての人にとってベスト」という指導は存在しないことを自覚しておくことは非常に重要です。

ですが、
教育を
教師の「心」「人格」【だけ】の問題にしてしまうと、
逆に言えば、疲弊し、潰れる教師がもっと増える。

熱意も技術も志も大切です。
ですが、全部をそれに担わせるのはおっそろしく危険なことだと言いたい。

構造的な問題だと思うのです。

もし、私が彼(とそのつるんでいる友人)の担任、その役割を与えられている立場だったら、
「やんわりと信頼関係を結び対話」なんていう手段が焼け石に水であることを悟り、
思いっきり嫌われうざがられ反抗されながらも、逐一うるさく注意し、怒鳴り、恐れられる側に立ち続け、そしてそれが信頼関係を崩していくのを自覚し、自己嫌悪に陥りながらも、その感覚を麻痺させ、
かつての「お花畑」のような自己の思想を激しく憎んでいるでしょう。

徹底的に恐れられ嫌われ役に徹する鬼のような教師がいますが、
あれは素で生まれつきそうなのではなく、必要に駆られ、どこかで「いい先生」であることを切り捨てて、その役割に徹して、「秩序」を保ち、しかもそれなりの成果をあげている。

しかし、もう現代ではそういう昭和なやり方は通用しない、
その代わりにソフトで真綿を閉められるような管理に服さなければいけない。

まず、正直、
「悪い子なんて一人もいない」「問題児なんていない」
は、私の口からは、どうしても言えない。

【状況によって】体罰は絶対に必要だし、スクールポリスの介入は喫緊の課題です。

地獄は存在するべきであるし、それによって必要な報いが刈り取られ、正義が保たれなければ、私たちの善を希求する精神は報われることはない。ーーーと無限の赦しも愛の精神にもなり得ない、エゴイズムを抱えた人間である私は、かくの如く想うのであるが、その心こそが地獄なのであろうか。

なぜかというと、教師の安全、安心が喫緊の課題だからです。
ともかく、正義が守られないと、個人だけでなく社会全体が崩壊することを直観している。

で、想いや人格や評価も、
社会、構造の立場や役割によって、まーーーったく変わってくる。

私の思想や正義は
私の置かれている状況と利害関係、人間関係によって変わってくる。

ある状況で、非常に効果的な正しさが、
別の状況では、ひどいものになる。

だけど、人は、状況の圧力に応じて、
「正しさ」を選択しなければならない。

状況や構造を変えれば全てがうまく回る、
とは言えませんが、
それでも、
構造や環境を変えるだけで、劇的に変化するものがあることは、確かです。

ある状況で、問題を起こす人が、
別の状況に置かれたら、それを起こす「必要」がなくなる、
ということはよくある。

個人が、個人として比較や対立することなく、存在をそのまま認められる空間を作ってあげるだけで十分です。
個々人が学びや成長を楽しみ、
互いに自由を承認しあえる合意があればいい。
それはだらだらした関係でなく、ある程度の、自己に対する節制や努力を必要とする。

理想を言えば、学校のみならず家庭も会社も社会全体もそのようなものになれば、文明由来の精神病のほとんどはなくなるはずです。

カントという哲学者は、
みんなが単なる手段じゃなくて、大切な人格として尊重されたら最高だよねっていう国を「目的の王国」として想定しましたが、
現代、この社会全体で言うなら、
資本主義の構造自体が、他者を単なる手段とし、お互いに手段として扱うことを強制させられているため、
そんなもの単なる寝言の理想論としか思えませんが、
しかし、こういう人類や人間のあるべき姿のすごく幸せなビジョンが人間の心の中のあるからこそ、それが決して生きている限り実現しないからこそ、人間は無限に苦しみ、そして絶望する。
絶望は、理想への無限の欲望があり、かつそれゆえにその欲望が生涯叶わない構造になっているから起こる。
おおよそ絶望は悪で忌避すべきものと思われがちですが、
絶望していない人間は、精神的存在者ではありません。

ですが、
全体を変革することは実に困難な作業であるにせよ、
私たちが、自らそのような環境を創り出していく、ということに対しては、
常に「可能性」は開かれています。
また、それを私たちは実現し続ける実例も有します。
(「可能」とは表現しません。
もし「可能」と表現していたら、もしそれが不可能であった場合、
それは全て個人の意志の責任にきせられるからです。)

人類の無限の苦しみと絶望は、裏を返せば、
人間の精神のうちに無限の自由と永遠なるものが埋め込まれ、またそれを欲している所作でもある、、と敢えて形而上学的に言わせてもらいたい。
人間は、とりわけ精神は神によって作られ、神に向かって造られているため、神自身を知り、有し、一つになること以外に、それ以外のことで満たされることは決してない。

人間とは基本的に精神であり、そして精神は自由なのですが、それが人間存在の最も優れており、また人間たる所以だと想うのですが、
それは、決して状況から独立してはいないということです。
精神がいつも置かれているのは身の具体的状況です。
もし、現代のスピリチュアルが言うように、一切の事物が自我の顕れであるとするのであれば、人間の精神は一切の悲惨さの責をその個人の咎に負わされ、またそれを脱するの途もなく、そればかりでなく、責任を負わず、それを信者に負わせるカルト教祖にとって都合のいいカモでしかありません。
夢だとか、自主性だとか、内発的動機は立派なものですが、これはうまいこと、報酬なき搾取のために利用されがちなのです。

精神の誇りは自由であることですが、
その自由こそが、精神に最も屈辱的な服従を負わせることにもなりかねません。

他方、精神の起源が環境にある、というわけでは決してなく、
環境さえ整えれば、精神は自由になる、と言うわけではありません。
(環境が自由を生み出すとはなんという矛盾)

自由が自己を発揮できるための「環境」が必要なのですが、
最も良き環境は教師であり大人でありますが、その精神が自由を希求し、また自由を実現しようとしていることが望ましい。

精神は状況と構造に働きかけることができます。
かつ、精神自身も最も大いなる環境と状況になり得ますし、またなるべきなのです。

精神自らが、最も善く自由であれる状況を作りだしていくためには、、、。

さて、
講師とは、学習を中心とした教育の課題において、
親と子どもの間の間に割って入る役割ですが、
たいがい、100パーセントの親は子どものことが不安で、何かしら足りない点、伸ばすべき点があると思っています。
そのニーズを満たし問題解決をするために講師というサービス業は存在します。
また、そうでなければ、教育は親子間で完結すべきものです。

多少問題があっても、
自分らしく伸び、成長していく子がいます。
これはもう長期スパンでじっくりじわじわ、3〜12ヶ月くらい見る必要がある。
ちゃんと待てるか、信じられるかどうかが重要です。

また、伸びない子、自己肯定感が欠乏し、逃避する子の特徴なのですが、
これほぼ例外なく、
親が子の能力や頑張りをこえて「もっともっと」を望むこと、です。

まあ多少あるくらいだったらいいのですが、
それが常態化し、常に毎回のように、頑張りを認めず、不平不満をたらし、もっと頑張って、を言われ続けると、
子どもにとっては存在を否定されているようなものです。

しかも、それが「愛」でなされているからこそ、厄介。

で、その親自身も、そういう人生観を持っていて、自分の心の中の空っぽ。

精神としての自己であることは、すぐさまではないにせよ、人間的生命に関わることです。
現代の教育も家庭も社会も、心の存在や働きは認め、脳科学や心理学も発展し多くのことがわかるようになってきましたが、精神としての自己は決して何を持ってしても満たし得ません。
そのための伝統的環境や固定されていた状況は崩壊し息の根を止められました。
精神について知ることは精神ではありません。

精神が自己であり、呼吸をできるための環境と状況が必要ですが、
幾何学、人文科学によってデータ化され計算されたものと、
まさに、繊細の精神によって、自己が精神の呼吸を取り戻す活動がなければいけない。

教育者であるためには、結局のところ、自己が自己でなければいけないと思うのですが、
精神としての自己は、常に死の陰の谷を歩まされています。
自己の周りに精神はまとわりつくのですが、自己が精神になるためには、精神として生きるためには、一つの飛躍が必要なのです。
先月の給料だーい🥰✨




豊かな豊かな恵みに感謝いたします。

どうやって食っていけと😂

なんですか?

あるものに感謝したらその波動で、豊かになるんですか?

そう、、、思えますか?
すごく思おうとしているけれど、、、

無茶じゃないすか。



SNSを見たみなさんが仕事をくれ、応援のおかげで、なんとか飢え死にしないで済んでいます☺️✨

日毎の糧を

本当に本当にありがとうございます😭

いや、本当に会社組織に頼らない働き方を自分で考えないと、
人生詰みます。

厄介な顧客を会社は追い払ってはくれないよ。
3年かかる対応を、一年未満の人員に背負わせるよ。
厄介な顧客はお引き取り願えないし、
もちろん、手を出したらダメだよ😂
配置転換も無理だよ。
それで社員が鬱になっても保障なんて何もないよ。
能力不足、自己責任だよ。

人は好きなんです。システムも素晴らしい。
ただ、これ、人格とかの問題でなく、構造の問題なんすわ。
環境と人とを愛しておりますので、さらなる発展と繁栄を願います。

誰を責めるつもりもないのですが、

ええ、
正直、
繰り返し繰り返し、
呪いと憎しみが波のように襲いかかり、

悪人の末路を、この目で見て、嘲笑ってやりたいという、
いや、完全犯罪で復讐を成し遂げられたらと思っておりますが、
悪魔的な心情が私を支配しようと激しく誘惑をかけてきております。

しかし、
世界はどう見ても公平ではない。
善人は報われず、踏み躙られ、
悪人が徳をし、守られる。


毎日、祈って出勤し、
道端のゴミを拾って、徳を積んで、
トイレはピカピカにし、
まっすぐにいいことを伝え、
感謝を分かち合い、
波動をあげ、
一人一人全員のために祈り、
仕事が終われば山々と天を仰いで、天の父に一日を報告し、
全てのよきことをイメージし、口に出し、感謝し、
寝る前にいいこと日記をつけ、


しんどいことがあったら、
詩篇を読んで祈り、

神に大声で訴え、


何ヶ月もやり続け、

神は
応えたまいませんでした。

霊がいささか満たされることは感じますが、
肉体の、神経は癒えることなく、
現象が変わることはなく、


奇跡は何も起こりませんでした!

残ったものは何もありませんでした!

ただ、ボロボロになり、顧みられず捨てられた抜け殻のみです!

負けた。
完全に負けました。


全く意味がわかりません。

人生には、永遠に回収されないフラグに別れが存在しますが、
それらは、満ち満ちている。

このことに何か意味があるのだと思おうと、信じようとすればするほど、その深きのりを悟らしめたまえと願うほど、
そして希望を持とうとすればするほど、
虚無と不条理と支払いの催促が全く重くのしかかり、

もはや、
私の心は石のように固くなり、凍てつき、
感動も消え失せ、
優しさも染みず、
ただ目に見える一切のもの、話される話題の全てが心に触れず通り過ぎていき、
全てを分かち合うことができない、
ただ一切のことに虚しさと虚無しか感じないのです。

他の人間と何か言葉を交わすにも、
とてもではないですが事務的なこと以上のことを語ることはできず、
自分の存在は害悪なのではないかとすら思うのですが、
仮面をつけて明るく演技をして振る舞うことは自然にできてしまうのです。
その時、ふと、電灯がついたようになり、自分はまともで、ああ、思い過ごしだったんだと気がつくのですが、
全てが終わると、ただひたすら疲れ果て怯えて動かなくなっている自分がいるのです。

楽しいことも喜びもなく、
痛み、耐えざる痛みと苦悩のみが、ただ永続し、
何をしても消えることはありません。

神は今や、私にとって痛みでしかありません。
苦痛でしかありません。
恐れであり、罪であり、
救いは脅迫です。
責められるべきは只に私の信仰だとか態度だとか、そうした熱情の無さなのです。


神を呪うつもりはございません。

無神論者にもなり得ません。

「私はもう神を信じない」と棄教するつもりもございません。

神が義を為したまわないことに、私は激しく怒っているのです。
神が訴えをひねもす呼び求める私を、
聞くだけ聞いて、護りたまわないことに対して、不平不満を述べ立てているのであります。

そして、呼びかけることにも祈ることにも良きことであろうとすることにも私は疲れ果てて、もう一切がどうでもよくなってしまったのであります。

とにかく、これは、信頼関係の問題であります。

神が愛であるならば、
我が子をなぜこんな鞭打たれるのか。


絶望

絶望

徒労

口に出そうとするのも
どうしていいかわからない

ただ全てが煩わしい。














なんで、自分で自分の命を終わらせることはいけないのか、、、っていうことはよく考えます。

正直、かける言葉や救いの言葉の一切が見つからないというか。

死なないでとか
生きてりゃいいことある
とか本当に言えない。

絶望した結果、自由意志でっていうのもあるかもしれないけれど、

社会が、周りが、
一番親しい人、大切にしなきゃいけないべき人が、
そいつを、そこまで痛めつけてきたんだろうし、
そして誰も救えなかったんだろう、と。

そして、誰も救えない。
ちょっとした優しさとか
ちょっとしたお金とか
社会機構、セーフティネットが
全部全部その重みに耐えれずに、破れていく。

何より本人の中の絶えざる心身の癒えることのない永続する痛みの前で、
いかなる外的なアクションも焼石に水ということがある。

っていう現実の中で、

いや、よくそこまで生きてきたなって。

風邪を引いたら学校を休むように、
マラソンで限界が来たら歩くように、
生きるのに限界が来て、かつどれだけ希望を待ち望んで求めても、全くそれが得られないことを繰り返し学習したら
生存から降りる、降りざるを得ない、
その選択肢しか残されていないと思うんだよな。

だけど
「そこまで辛いんだったら生存降りても〈いい〉」っていうのは絶対に言えない。

神がいるんだったら、
なぜ、わざわざ、そうした実存存在をこの世に生み出したのか。
放置されるのか?
後になって救済があっても、それはちょっと、そこまでする意味があるんですか、と。

そういう問いはごく自然な呻きだ。

そういう、人間の力でどうしようもない絶望を持った人を前にして、
キリストの十字架を見せる。

「神がいるんだったらなぜこんな不条理と沈黙があるのか」
という綺麗事抜きの現実に対して、
その神自身も同じ苦しみを経験し、あなたと共に十字架につけられておられる、
それほどまでに愛しておられる、
ということを伝える。

これは外の象徴や遠くのありがたいものではなく、
私たちの生命の本質を蘇らせてしまう「現実」の出会いだ。

基本的に、十字架なんてものは見たくないし、できれば横にどけて、
神には自分を富ましてほしい、成功させてほしい、健康と安寧を、と祈り、感謝していたい。

しかし、十字架なくしては「救い」はないのだ。
絶望する人間存在を責任もって救えるのは、責任もって世界と人間を愛するものとしてつくった神だけで、
それも、どこか宇宙の彼方にいる観念としての存在でなく、
ちゃんと人間と全ての全てを分かち合い共感し、どこまでも「大丈夫」を宣言してくれる愛。

そして、
「あなたは信じられないかもしれませんけれど、
私があなたの分まで信じて祈りますんで」
とちゃんと伝えて、
毎日祈ることにした。

そういう仲間の存在がすっごく大事だし、
とりわけ人が一番求めているのって
「お母さん」だと思うのです。

これはもう、絶対男性がいくら頑張っても無理だろうと思う。
ジョン•レノンが「ウーマン」で歌うように、全ての人は無条件で愛して、そして叱ってくれる母体と母性の土台が根底にあると思うのよ。

2歳くらいまでに母子関係がなってないと、
幼児は亡くなっちゃうか、その後も愛着不安を生涯抱えて生きる。

ほんと、
今の日本には「祈り」が足りない、
圧倒的にない。

本当にこんな心を病みおかしくなっちゃう人が増えたのは、
祈る心を忘れたから
「いのち」に対するセンスがもはや取り返しのところにまで来ちゃっていると思うのです。

祈るところから始めなければいかんと思うのです。