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救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

E今日はインターナショナルデイでした。
国際色豊かなお祭り。
前田万葉枢機卿にもすっかり覚えられてしまい🥰



上智大学のことなど話しました、、、
が後になって「罪深い私のために祈ってください」とお願いすりゃよ良かった。
カリスマ指導者に見られる激しい祈りもなく、逆説的なキラーフレーズもなく、鋭いオーラもなく、
高校生のバンドを孫のように見守る「みんなのおじいちゃん」感が😇

異質な他者や外国人との共生ということについて考えます。

さて、
おりしも、前日の夜、我が家の近くに越して来たミャンマー人たちが夜遅くまで集まってさわいでいました😅
技能実習生でしょうか、留学生でしょうか。
夜の22時、23時、0時を回っても、騒ぐ声が聞こえてくる。
家の窓は開けっぱなしで周りにも聞こえてくる。

うるせーーー」
私はそう思いました。
「集まって楽しむのはいいけれど、いつになったら解散するんだ😡」
「こっちは子供が寝てんだ。
あと、おじいちゃんおばあちゃんたちも寝てんだ。」
そのうち、私の脳内でイライラや恐怖が芽生えてくる。
こんな思想がムラムラと湧いてくる。
「ここは日本だ!
外人はなんでもかんでも無作為に入れるべきじゃない!」
ついに、0時半になっても、彼らは騒いで、路上で喫煙までしているので、
いつも教室で私語のうるさい生徒を注意するノリで、
勇気を出して、、、


「オイコラァ!な何時や思っとんねん!近所迷惑や!いい加減にせい!」

と怒鳴り込んだところ、





ヘラヘラ笑いながら、

「ニホンゴワカリマセーーン」とそのまま叫び続けられた、、、









、、という妄想が出て来て、
ドキドキしていましたが、

「こんばんわー。
すみません、お楽しみのところ申し訳ないですが、
ちょっと夜も遅いので、お静かにお願いできますか?
引き続き楽しんで😅」
と腰を低くして、控えめに伝えたところ、
タバコを吸っていた彼らはハッとして、
「すみません」
そして中にいる仲間に声をかけ、
それからスッと静かになってくれました。

まあ、かくいう私たちも淡路島でBBQして騒いでいたら、怒鳴られたこともあって、
(いきなりああいうキレ方しなくてもいいよね)
と凹んだこともあったし、
毎月、自宅では大声で祈っているし、
大きめの音量でオーディオはかけているし、
寮の時代般若心経練習してたら(笑)隣からドンドン壁を蹴られて「うるさい」と言われるし、、、😅

我々の性質として、
身近にいる交流のない異質な他者を恐れ、排除しようとする傾向があるようです。
そしてそれは私も例外ではない。

交流仮説といって、
実際交わってたり対話を深めると友好的な関係になるそうで。

第一次世界大戦中も恨み憎しみあっていた国同士、前線の兵士同士でクリスマスに友情が芽生えサッカーをして楽しんだことがある。

ふと、
「ああ、今日のインターナショナルデイに彼らを誘えば良かった」
と思いました。
身寄りのない日本で、暖かく受け入れて、
日本の心に感動してもらえたら嬉しいとか思っているよ。

屋台で、ミャンマーのご飯を買いました。
美味しかった🥰


さらに余談ですが、仕事の話。
これはちょっとしたことかもしれませんが、紛れもなく私にとっては奇跡でした。
授業中の私語がうるさくて注意しても反抗されるのが病むほどストレスで、
「本当に地獄に堕ちろ」「消えていなくなれ」というくらい怒り浸透な毎日で、だけど、うっかり表でそんなことを口にしたらとんでもない 笑
そんなことを内心思わずにはいられない人間なのだ
という本音を家の集会で告白したところ、
仲間の皆さんから本気で祈っていただき、
こんな自分でも許され愛されている」
「こんな自分を本気で受け入れ、許そう」
と思えたわけです。

まあ、いいやと授業に臨み、
管理できなきゃ失格という想いを放棄し、
彼らのおしゃべりに付き合い、
自分の四国遍路の話や毒親の話やそういうことを喋っているうちに、
やたら興味を持たれ、質問責め。
その日の授業は進まずでしたが、
正直に申し上げますと、
楽しかった」‼️
彼女ら、彼らと、ラポール(信頼?)の手応えが、初めて感じられた、のでした。

でねー
わかってるのよ。
多分本人が骨の髄まで。
人間って圧倒的に不平等で、
生まれ、育ち、頭脳、性格にも、如何ともし難い差があって、
「努力できない」人とかいるのよ。
どう頑張っても頑張れない子とかいるのよ。
遅い足が速くならないように、
頭が悪い子は頭が良くならないの。
容姿もそうだし、
性格もそうなんだよ。
だけど、全部「本人の責任」にされてしまう。
俺もそうしちゃう。
このまま進んだら、社会から合法的にドロップアウトしちゃって夜の世界に消えていくことがわかっているけれど、
俺たちは、「いい子」「できる子」を守るために、
「正しさ」を押し付けるし、
できない子がドロップアウトしないように、
正しさを押し付ける。
わかってるけれど、
「頑張れ」って言うしかない。
その子のありのままを受け入れる、なんてできるか。迷惑だから。
水を飲もうとしない馬に水を飲ませるのも、教師の仕事。

彼ら彼女らが自分の存在を示せることは、
自分を認めてくれない大人社会への
反抗と挑発、だけ。
心の中では、どれだけ大人がイライラして苦しむか、
ポイントを知っていて、
隙あらばそこを抉ろうとする。
復讐。
もう、社会にポジションなんかいらないから、
悪いとわかっていても引き摺り落とすことしか心のベクトルが向かない。
恨まれれば恨まれるほど、彼女らの目論見は成功する。
で、これ、怒られても叱られても裁かれても辞められないんだよ。
本当に満たされるべきもので心が満たされない限りは。

わかってるからこそ、
辛い。
なんでこんなことしなきゃいけないんだと思う。

特に、母親の愛を受けなかった子は、
その上にどんな自己啓発や社会性を積み重ねてもガラガラと崩れ落ちる。

そうねー
一番伝えたいと思っていることは、
私自身が、社会不適応人間で、
人間存在はクソで、自分もクソで、傲慢と保身の権化で、
人はみんな偽善者で保身的で、そういう自分もどれだけ理想を語っても、やっぱり本質的にはエゴイストで、
こういうことを全員誤魔化して社会的に立派なフリをして認め合っているだけ。
これって、自分でいくら頑張っても祈っても残滓は心の奥底の残り続けていて自分じゃ根本的にはどうしようもないっていう現実。

俺自身が努力してもダメな人間なんだ。
ていうか努力すらできないんだ。

だけど、
そこも含めて、
たくさん愛されて、許されて、支えられて、
いつもいろんな人が本気で背後で祈っていて、ついていてくれる、
それこそお母さんのような人たちに罪深い私が今も死を迎える時も祈られている
っていう経験を重ねていくうちに、
まあまあ、罪を告白して、謝ったり、改善したりして、
人と信頼関係結んで行ったり、
こういう気持ちは消えていったかな、ということ。

まだまだ怖いことはたくさんあるし、
自分を責めてばっかり。

あるときゃあるし、消えないこともあるけれど、
神さまはそれでも大丈夫ともう一度立たせてくれる。
自分を許していこうと思うよ。

そうだな、
ああ、祈られているんだなって思うと、
俺も、みんなにとって、
取り次の祈りをできる存在でありたいと思っている。

人は愛でしか変わらない。
今日は、授業の時間でこれを読みました🥰





めっちゃ響いてた🤣✨

そして、
すごくいい感じの雰囲気ができてきて、
「そうそう!この感じ」!

上から管理から、
「そっちの方がハッピーだからこれ選ぼう」
って自然になる流れ。

この絵本のすごいところは、
「天国言葉を使っている
こうていペンギン君が、
モテモテになって美人の彼女ができて、
奥さんも子どももいっぱいできて」
という、

その、

道徳的な、社会的な、真面目なアプローチじゃなくて、
やると超嬉しいことが起こるよ、
という言い方。笑

否定ペンギンくん、
「そういうことはいけませんよ」
じゃなくて、
「彼女もできず、
絶滅してしまいました」
っつーーー結末をさくっと書いて、

「さてあなたはどっち派ですか」
っつって選ばせているところ 笑

いや、
これはいい☺️✨




まさに、詩篇一編にも同じことが書かれていますね。

「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 神に逆らう者はそうではない。 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。」
‭‭詩編‬ ‭1‬:‭1‬-‭6‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/psa.1.1-6.新共同訳

イエス・キリストが、十字架に至るまで、至誠を尽くして、真っ直ぐに見ていた「人間」とはなんだったのか。
まっすぐに。どこまでもどこまでもまっすぐに。ただ、それだけしか見ていなかった。
神のまなざし。神へのまなざし。

私たちが一度そのまなざしに目をあわせられた時、
平伏す以外ない。

罪におののく。
喜びながらも。

いかに自分が愛されていたか、
その恩寵を拒み、
人間の自我を中心に生きてきたか。

そして、
それは、自分で救うことができないことを知る。

神の愛にのみ生きていきたい、
と、
そのまなざしは私たちを駆り立てる。



中世ヨーロッパについて調べ始めたら興味がとまらなくなっています。

私は「コーチング」を一つの仕事として持っていますが、
これはつまり、官僚主導型資本主義の相互監視システムが個人の主体を支配しているパワーの系から出たところで、
本当の自由な自分を見出していこうとする営み、と言えますが、
じゃあ、その「本当の自己」とはなにか、「真我」とはなんぞ、、、というと、
それは宇宙万物の根源と繋がってくる。
夢とか目標をこえて、
使命とか天命と言われるものを人生の中に見出し、それを生き切ろうという「あり方」の話になってくる。

では、その自己は自分が自分で創り出したかというとそうではない。
あらゆるものに先立ちて、私の存在を望んだ、大いなる意志の声をまずは第一に聞き、繋がっていなければならない。

その声を人生の中心に据えることが、本当に自由な、本当の私を生きることになってくる。

それは、「外的な」強制に思えて、実はそうではない。
本当の望みと、神の望みは一致し、
大いなる力は、私をはるかにこえて、私にその使命を果たさせようとする。

そして、全人類一人一人の魂が、世界史の中において、固有の大きな使命を持っている。

ーーーそういうプログラムをぎゅっとまとめた古典が、
イグナチオ•ロヨラの「霊操」(スピリチュアル•エクササイズ)。

この世での騎士としての成功者を目指していた彼は負傷し死にかけていたところ、暇つぶしで読んだ、聖人伝に涙し、
人生をすっかり変えられてしまう。
聖フランシスコや、ドミニコのような人生を送りたいと願う。

彼が設立したイエズス会は近代的自由な個人の概念を推し進めた。
その学校から、近代哲学を切り開いたデカルトが現れた。

ーーー私が出た上智大学も、その理念のうちにある。

では、その時代に何があったか?
彼が触れた素晴らしい遺産は何で、そして腐敗は何だったか?

ーーー中世ヨーロッパ。

神の霊がリアルに文明全体を覆い、全ての価値観が神とその栄光のために捧げられていた時代。
一つの憧憬を抱かずにはいられない反面、
それはもう地上においては二度と戻らない永遠の中にのみ現存するノスタルジア。

多かれ少なかれ、遠い地域のあんまり関係ないような発想やスタイル思えて、実のところ、それは私たち日本人の物事の発想の枠組みに大きく影響を与えておりーーーそれもアンチテーゼとしてーーー「根っこ」としての中世を振り返って対話することで、現代の意義も見えてくるかもしれません。
同時に、日本人として、先人たちの歩んできた精神性に身を置くことも大切です。

「もし自分が中世に農民や都市部に生まれていたらどんな生活をしてどんな一生を送っていたか」
「十字軍時代のムスリムやキリスト教徒として生まれていたら」
などと想像すると「何であんな愚かなことをするの」という現代からの「断罪」とは別の切実な「力学」が見えてくる。

現代社会の「苦しさ」について思うと、
それは私たちの精神や心が根っこや共同体から切り離され、
至る所で鉄鎖と相互監視と生産性に繋がれた「自由」だけを与えられている、からという気がします。

中世が「暗黒時代」というのはこれは一面的な見方かもしれません。
カロリングルネサンスや大学の設立などの文化発展があったわけです。
また、公には古代ローマの奴隷制度も廃止。(農奴は存在した)

「キリスト教」は現代的な特殊な「宗教」というよりも、
世界の前提で、生活の全てに入り組んでいた文化形態で「そういうもの」だったようです。
政治から生活の全てが、慈しみ深い神のみ手の中で営まれ、
人生は、神のもとからきて、神のもとに栄光を期す。

見えない神の目に見える形で現れ、一人一人に神の愛が触れる現場である
「秘蹟」は日々の生活に安心と活力をもたらした。

共に祈り、支え合い、旅人をもてなし、貧しい人を助けるそういうあたたかな風土が醸成されていった。

人間の有限な理性も、それらを包括し、それらをはるかに超えた大いなる存在の前にこうべを垂れる。

文化や教育や福祉の担い手となったのが修道士たちでした。

他方で、政治権力との間で癒着が進み、腐敗が生じる。
聖職は売買され、
聖なる秘蹟や贖宥は、信仰を伴わない、単なる外面の偶像となってゆく。
それらの腐敗に対して、クリューニなどの修道会が改革や引き締めを何度もはかり、清貧を旨とした。
(ルターの叫びは、何百年続いてきたものの大きな出口、だったのです。)

十字軍の蛮行については、今更いうまでもありませんが、
その対立の中でも、
アシジの聖フランシスコがスルタンと対話し、スルタンが彼を護って送り返してくれたことも、
イスラム側のサラディンもキリスト教を尊敬し、対話をはかったようです。

さらに、イスラムを通して、古代ギリシャの哲学や学問がもたらされました。

宗教とその世界観が人生の隅々まで行き渡って調和と安心、安全を保っている構造下では、
「異物」、、、すなわち、
異教であるとか異端的な思想というものは、
「世界に亀裂や破壊を生み出す」とんでもない脅威に映ったに違いありません。

現代では、思想や個人の考えは自由で、いかに考えが異なっていたとしても、誰もそこに手を出すべきではない、
という考えは当然ですが、
ーーーというよりも、そうした凄惨な暴力を経て、内心の自由の観念が確立されたーーー
「完成された」調和は、時に自由を抑えつけた。

ワルドー派やカタリ派は腐敗した教会に対して、清貧を目指す運動でしたし、
ルターに先んじて、ウィクリフやフスが聖書に戻れと叫び、殉教。

ルターに至って、
神の前の自由な自己が世界史の中に生まれ、
これは現代私たちが自覚する自己意識にとっても重要なことです。

凄惨な宗教戦争を経て、
宗教と政治は切り離され、
宗教はどれだけ大きな勢力を持とうとも、
個人の魂のうちのこととされました。

カントは、
人間の理性が扱える範囲を明確に立証し、
「目に見えない究極の世界」を語ることに終止符を打ちました。
それは哲学において「禁じ手」となったのです。

民主主義の理念が発達し、
個々人の絶対的な自由が目覚めるも、
それぞれ相互に真理と自由を主張し合いながら、対立を永遠に繰り返していきます。
人間は不安と孤独の中に投げ出されながら、
それでも、つながりや共感を求めて、
そして自由を求めながら足掻きます。

現代に至って、「神は死に」ました。
宗教のうちに生きていた神が、
引き摺り降ろされ、理念となり、思想となりながらも
「それっぽいもの」として形を変えて生き延びてきたが、
人間によって息の根を止められてしまったのだ、
この状況をニーチェは見抜き、
「生きる意味が全くどこにも見つからない」
「それを積極的に受け入れきることから全てが始まる」
と。

他方、少し先の前のキルケゴール。
霊を無くした教会に対して執拗な攻撃をしますが、
彼は、永遠なる神の前、贖い主キリストの前にただ一人立たされ、
おそれ、慄き、絶望します。
そして、現代人は誰もが絶望しているが、それに気がついていない!
と叫びます。

ハイデガーも、この実存の不安の前に、
「そもそも、存在するとはどういうことか」「この世界にある」ってどういうことだ、という言葉にできない驚きの前に哲学を展開していきます。

現代人は、根無草になって、不安から逃れるために自己を喪失して生き、周りに流されて誤魔化しながら生きているのです。

私たちは「荒野」に生きています。
古代の修道士たちは荒野に隠遁し、
ルターやカルヴァンは世俗の仕事に荒野を見出し、神の栄光を表そうとした。
キルケゴールは実存という荒野で叫んだ。
無教会主義者たちは、神のものを神に奪還する運動を教会の外で展開します。

「本当の自分」、、、すなわち、愛、生命との交わりを妨げている自我。
この自我は自分の努力では容易に克服することはできない。

生命に至る選択は「狭き門」なのです。

無数の泡立ち続ける「自由」の中で、
「君たちはどう生きるか」。
共生と排除とか棲み分けということについて考えている。

どのような共生がどこまで認められ、
どのような排除がどこまで認められ、
どのような棲み分けがどこまで認められるのか。

いかなる共生も認められなければいけないのか。
いかなる排除も認めるべきではないのか。
いかなる棲み分けも善か?悪か?

ミスばっかりやらかし、集団にうまく馴染めない私は、
一定の性質を持つ集団組織においては扱いづらい異物、
なのだろうな、というのは感じている。
そうでありながらひどく排除を恐れている。

組織や集団に完全に同化せず、
安心できそうな居場所を選択したり、
あるいは自分でつくりだしていく。

同じような人たちが居場所や語り合える場所を求めて集まる。
そこでも、何割か、
「扱いづらい」、
ストレスになる人たちが出てくる。

自分がそういう存在だって、
自分を責めて悩んでしまう人もいれば、

自覚なく、自分の意志を無理して押し通そうとして、
人を傷つける人もいる。

授業を妨害したり邪魔したり、秩序を乱す生徒がいると、
そして、過度な要求を突きつけてくる顧客や上司に誠実に対応しようとすると、
眠れなくなり、食事が喉を通らなくなり、一日中神経がキリキリし、
このままだと全体が崩壊する、多くの人に迷惑がかかる、責任は自分にある、
自分が無能で価値がない無力な存在だと思ってしまう。
(一番認めたくないし気がつきたくない思いはそれだ。)
それに抵抗しようと、
排除したい排除したい排除したい、
この理論にとにかく正当性を持たせようと
と思う私がいる。
(それを正当だと思う人は多い。
私もそう思う。)
ルールを守らない人は、出ていって、と。
それが当然だ、と。
それは断行されるべきだ。

だけど、
と、ふと思う。

じゃあ、ルールの中でだったら何をしてもいいの?
ルールを守らない人間を「うちにいるやつら」が結束して合法的に貶めることは正義に叶っているのか?

それは容易に「異質なモノ」「劣ったもの」を叩き、
自らたちを、特別な価値のある存在として護ろうとする傾向性に傾く。

彼らは、良心ではなく、
外なる権力にうまく従って、
そういうゲームの勝者のポジションを手にしているだけなんだと、思う。

言われたから、やる、やらない。

いや、コントロールする権力の側にうまく従って、
安全と安心とを最上の目的にしているだけなのだ。

それを一方的に指示しながら、
私も違和感と気持ち悪さを感じる、
が、対話の隙を見せたら、
彼らは一方的に言いくるめて、自分のわがままな言い分を通そうとする、そういう性質を持つのだ。

自分の中にあるうちなる暴力を自覚する。
しかし、それを認められない。
認めながら、それしか仕方がない、と思う。
他者のせいにする。
環境のせいにする。
仲間を巻き込もうとする。
一人で抱え込む。

ーーーエデンの園で知恵の実をとって食べた人祖の性質は、
私の中にも深く根付いており、
否応にもそんな激しい反応を引き起こしてしまう。

(私のうちの悪霊は、救われないことを知ってか、
全ての人がエゴイズムの支配下にあることを知ってか、
それを告発し、全方面に皮肉をちらつかせようとする。)

「愛せよ」「深い心や事情を慮れ」と命じる良心に、
相互に存在を認め合える空間を、と命じる良心に

いや、
「どこから見てもいい人、誠実な人」として見られ、評価されていたいという保身的なエゴイズムが
心のうちで闘い、
神経をズタボロにしていく。

気持ち悪いけれど、ある程度仮面をつけなければいけない。

「暴力」を振るえない。

できることは、
「排除」や「見捨て」のみ。

あとで振り返って、
対話や、忍耐や、適切な距離や壁の作り方、力を分散させる知恵があったことに気がつくが、
その時は、
視野が狭くなって、過度の緊張や恐れの中、何も考えられなくなっている。

それを断行してしまったら、
ひどく放心状態になり、心が苛まれる。
だけど、日々の業務を効率よくこなしていかなければならない。
グルグル考えている暇はない、
しかし、それは何十年も心を苛ませ続ける。

「ごめん」でもなく、
「スッキリした」でもなく、
ひどく哀しく、残念な、絶望的な気持ちが、続く。

神と人とにひどく埋めがたい断絶したものを感じ、
その回復の可能性を自分の中に見出せず、
思い描く希望的空想の全てが籾殻のように吹き飛ばされていく。

tomorrow never knows
癒えることのない痛みを引き連れて、
勝利も敗北もない孤独なレースを、
果てしない闇の向こうに続けていく以外にない。

生きるということは、
断続的な、それの繰り返し、なのだと思う。

でも、
もちろんそういう絶望だけでなく、
様々な人、問題を抱えた人、価値観の人が、
ともに集まって、共感し合い、連帯し、何かを生み出していくことは喜びだ。

そしてそれは可能だ。

もっともっとそうした、殻を破っていくことにチャレンジしていきたい、
とも心から思う。

では、どうしたらそうした条件が可能なのか?

それを可能にしてきた姿勢はなんだったのか?

「相互の存在の承認のセンス」
というべきだろうか?

有機的な個人や小集団でできること、
倫理原則によってのみ動いておらず欲望の集合体として動く社会全体や国家の枠組みでやっていくべきことの間には、
差異もあるだろうし、
当然人間同士の営みで、情熱や誠実さこそが根本にあることもある。


しかし、恩寵の領域もある。

「人にはできないことも神にはできる」
イエスは言う。

ここまで述べてきた
全ての苦しみは、
自分を神の座に置こうとする人間の傲慢からきたものだ。

常に私たちは、偶像を礼拝し続け、苦しんでいる。

それらを神の前に差し出す。
そのままの自分を告白することで、
イエスは、私をそれらから解放してくださる。

覆うように罪を拭い、赦し、
生命へと立ち戻らせてくださる。

その悔い改めに、躊躇する必要はない。

それはとても穏やかで楽で、
素晴らしい平安。

私の魂が新しくされる時、
不思議なことが起こり始める。

敵が、いなくなるのだ。
いや、
もし完全なる幸福と愛と平安に満ち溢れていたら?
私を脅かすものが何一つないと知ったら?

私は、溢れんばかりに全てを愛さずにはおれないだろう。

このことは、繰り返し体験してきた本当のことだ。

これは、
そのまま、外的に何かの宗教を教育すれば世界は平和になるかというとまた別の話で、
愛の世界の完成には、まだ旅のプロセスがあると思うけれど、
時間や空間を超えた永遠の今の中でそれはなっていることだ。







教派問わず、仕事をしているクリスチャン向けに宣伝させてください!

蔡さんの紹介でこちらの「信仰と仕事の統合コース」。
「なんとなく」で申し込んだところ、
予想の十倍くらい素晴らしいものでした☺️✨
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くっそ悩む時期があったんです😅
仕事で福音の精神を生き切ることができるのか、って。

プライベートでは祈り全ての人の魂は神の似姿最高傑作だからそれに仕えよう風呂敷のように多様な人を受け入れよう、導いてください、教えてください、と思いながら、
仕事の前に隠れて祈り、仕事終わりの駅でも感謝し祈り、、、
でも、
仕事になると、生き馬の目を抜くようなシビアな競争の世界の中で仮面をつけて、無意識、いや意識的に自分を含め人間を篩にかけ、管理とコントロールしようとする自分。
他人の評価や人の目を気にしすぎる自分。
人を裁いて、ぐるぐるして苦しんでいる自分。
愛や生き方が大切なんだ、そのための学力という能力なんだ、全面に出したい、けれども、どうもそういうのは歓迎されないっぽくて注意される😅
思ってることと言ってることとやってることとが根っこでズレてくる。
愛と恐れと二つの本音がいつも交差しあう。
想いが伝わらない、分かち合えない、「わかってもらえない」。
なんのために、誰のためにがわかんない、、、
喜びが溢れているのに、それを押さえつけて殺すようなことを自分に科さなければいけない。
そんな虚しさを抱くけれど、悟られちゃいけない。
「俗」の世界の圧力ってやっぱり重い。
逃げられたらいいけれど、いつもそれは頭の片隅にこびりつく。

「お前らは地の塩だ!世の光だ!」
「主の律法は無学なものを賢くする」
って、
福音を教卓からシャウトした上で、
「うっし!
神の栄光のために、今日も最高の自分を発揮しようぜ!
ワクワク!夢中!」
ってできたら、
人生の目的もはっきりしてきて、
成績も爆上がりすること間違い無いんだけれど、(笑)
仕事でやっちゃダメなんだよな。
空気読まなくちゃいけないもんな。

今では、ミッションスクールでも、
お祈りはしない、(保護者からクレームがくる)
宗教の授業では人によるけれど、単なる人間論や社会問題にとどまるそうで。
(だけど、僕の6年間の宗教の授業は全て大好きで全部学んだことを覚えている)

生き生きとした
お祈りを伝えられるのは、
家庭とか志ある人の集まる小さな共同体だけになっていると思う。

もう、俺たちは絶滅危惧種なんだよ🤣
若者はいないし、一パーセント以下の特殊な人種なんだよ。

空気読まなきゃ死ぬし、
空気読んでたら窒息死するんだ。

だけど、生涯俺はこの火を消さないつもりでいる。

地の塩ってそういうことだよな。

だけど、
そういうことだけじゃないんだ。

仕事というのは本来、
神の創造の仕事に参与する素晴らしいもので喜びなんだ。

仕事そのものが祈りになるし、
汗水垂らす現場やデスクの上もそのまま聖堂になる。

罪はたくさんあるし、
心の中ではいつも偶像をつくりだしまくっている
ーーーつまり
神さまが、「お前最高!みんなも最高!互いに愛し合おうぜ」
つってんのに、
自分が無価値で、条件付きじゃないといけないって思って、
言い訳したり恐れたり反抗したり逃げようとしたりして、
根本のところに向き合わずに、的外れた地上の「いいもの」を最高価値として据えちゃって、それを手放せずに苦しんだり不安になったり絶望しちゃってるんだ。
けれど、十字架の愛と救いはもっと大きくなって、俺たちを掩う。

毎週講座を受けながら、
仕事がそのまま祈りになり、そして神の国のクリエーションへの参画になった。

神のスピリットに導かれるように講座は進み、
仕事でもドンピシャで悟らされるようなことばかりだった。

尿管結石で運ばれた時、罪と恵みが同時にやってきた。
俺は自分の中の大きな偶像に気がつかされ、
ちょっとだけ心が変わった。
生かされていることに深く感謝が溢れた。

クリスチャンかそうでないか、
っていうことも、二元的に捉えるべきじゃないんだ。

そうじゃないんだ。
福音というのは、全ての人を照らすまことの光で、
小さな枠組みに収まるものでなく、
素晴らしいものは全部神から出てるんだ。

満員電車の中にもキリストはいるし、
地下のロックコンサートで愛をシャウトしている時とかでも、
温泉入ってる時とか、飯を食ってる時とかでも、
彼は呼んだら、近づいてきてくれて
「大変だよな。わかるぜ、兄弟。
重荷を負って疲れたんだったらここで休めよ。
俺みたいに柔和でへりくだることを学んだら楽になるぜ。」
とか言ってくれるんだ。

神は俺たちを罪から解放させてくれるんだ。
自分ではどうしようもできない取り去れないものを本当に取り除いて自由にしてくれる。

俺たちは全員が等しく罪の中にあるし、等しく恵みの中にある。
信仰がこれで十分ということはないし、満たされるだけもっと飢え渇く。

毎週木曜日が本当に楽しみで、いつも満たされていました。

オススメしたい人は、
私みたいな悩みを抱えている人。
プロテスタントよりだけれど、カトリックの人が受けても、無教会の人が受けても話がツーカーで安心して通じて仲間が全員愛おしくなるよ。

お世話役の方もすごく優しい☺️❤️

救われたり贖いの体験があった方がいいので、クリスチャン向けだけれど、
信仰がわからない人が仕事という切り口を通して信仰に出会っていくのでも全然構わないとすら思っています。

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「発達障害」を公表し、本を出し、百倍を超える競争率のテレビ局で第一線の仕事を続け、夢を叶え続ける中村郁さん。

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🌟 郁さんの話を聞くと…
 • 「よっしゃ、自分もやるぞ!」と前向きな力が湧いてくる
 • 「こんな生き方があるんだ」と大切な人にも届けたくなる
 • 自分の中にあった新しい世界や可能性がひらける

🌟 こんな方に来てほしいです
 • 発達障害や生きづらさを抱えて、劣等感で自分を小さく閉じ込めてきた人
 • 「このままでいいのかな…」と立ち止まっている人
 • 自分らしく輝くための「あり方」「生き方」を見つめ直したい人

🌟 得られるもの
 • 郁さんのエネルギーそのものを浴びる体験
 • 人間として大切な本質に立ち戻る時間
 • 志を同じくする仲間との出会い
 • 今日からすぐ役立つ、成功した当事者のリアルな工夫やライフハック

💫 小さな一歩が、人生を変えるきっかけに。
ぜひ、この場で一緒に新しい扉を開きましょう!

詳細、申し込みは

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●中村郁 講演会●

発達障害でぐちゃぐちゃの私が

最高に輝く〈強みの育て方〉


【日時】

2025年7月6日(日)

13:00〜14:30(開場12:30)


【場所】

新大阪エブリグランデ

新大阪から徒歩1分


【参加費】

前売3500円

紹介3300円


【詳細・申込】

https://www.kokuchpro.com/event/9645c52c354df327948a4a40edd54308/

そこまで、真面目で知識があったり霊性のあるタイプなのではないのですが、
聖書の家庭集会やバイブルカフェを開くたびに、
人の力をこえた不思議な力が働いているということは、
「そんな気がする」からほぼ「確信」に変わっています。

私自身、当日まで誰がくるのか、どんな感じになるのかわからない 笑

ただ、神ご自身が、必要と思う人を、連れてくる。

宗教のことは疎いし、聖書なんか全然知らないし、イエス様は名前だけくらいは聞いたことあるけれど、
私がやってるからとかご飯食べれるっていうそういうノリで来たみんなが、
福音を宣言されて救いを経験し、心の底から喜びに触れて、
夜遅くまで帰るのが惜しいくらいに熱く語り合う。

とにかく福音を伝えたい。
「これすげーんだよ」
もともかくとして、
その人が一番何に悩み恐れ必要としているのか、
ストーリーを共感的に丁寧に受け止めつつ、
神さまの絶対的なだいじょうぶ、
をはっきり伝え、励ましたい。

これを保証するのは私じゃなくて神ご自身なんだけれど、
ちゃんとその口となって伝えなきゃいけないのは、
実際に救われ、だいじょうぶを確信した人間。

コーチやカウンセラーとしての私がいろんなセラピーをやるんじゃなくて、
本当に私を掴んでいる神が働くと信じきって、「あとは頼んだ」と
宣言する。

なんでとか、どうしてそうなるのか、
じゃなくて、
事実、そうなっていく。
不思議と。






自分で自分を支えられない、自分を責めることをやめられない人、
あなたは幸い。
そういうあなたのためにこそ天の国があるんだよ。

悲しい想いで満たされている人、
あなたは幸い。
だいじょうぶ。
ちゃんと慰めがあるから。

いばらないで穏やかで謙虚に人に接する人は幸い。
そういう人が本当のリーダーになっていく。

いじめられていたり虐待を受けていたりパワハラがあっても誰もわかってくれない、
助けてくれない、守ってくれない人、
あなたは幸い。
だいじょうぶ。
必ず守られるようになるし、満たされるようになる。

人のことを心から思いやることのできる人は幸い。
そうすることで、人から深く愛されている自分を知ることができる。

心の美しい人は幸い。
その人の目には神様が映っている。

学校や職場、社会や国、いろんなところで平和をつくっていける人は幸い。
そいつらマジ神の子って呼んでいい。

そういうことをマジでやろうとして、誤解されたり反対にあったりすることあるけれど、
これはマジでヘブン的に幸い。

お前らは、全員、
世界を輝かす光なんやで、
世の中を変えていけるんやで!

その素晴らしいところを押さえ込んだり、人と比べてどうせとかやってたらあかん。
せっかくのあかりを引き出しの中にかくしたらあかんやろ。

みんなの前であなたの良さを輝かせなさい。
そしたら、それ見た人が「神様すげーーー」ってなるで✨

次回7月の集会は、
基本初めてくる人優先で合わせます。
来たいという方、是非日程おしゃってくだされば、
そこでやりましょう。




高校、大学時代ずっとリストカットをしていた。

すぐにヒステリックにキレ散らかす親に、
発達障害で誰とも心を通じ合わせられない。
当時属していた宗教では「悪霊」や「地獄」のようなさらに追い詰められ、全く自分のことを理解してくれなさ、
想いを語れば、押さえつけられる、否定される。

「誰にもわかってもらえない」
そう思っていた。

だけど、絶対辛さを外に見せたらいけないと、
笑って、道化を演じていた。

真夜中に親がドンドンとドアを叩き、
「◯ね!」「産まなきゃ良かった」と叫ぶ。

「もっと頑張らなきゃ」
と思っていたが、
もうこれ以上頑張ることがしんどかった。

夜回り先生。

彼に相談を何回もしていた。

彼に憧れて
受験勉強を頑張り、夢叶って彼の母校の同じ学科に入学ができた。

大学生活も同じようにしんどかった。
大人になることがもっとしんどいなら、
なぜみんな生きていることができるんだろう、
と不思議でならなかった。

救いがない。
どこにも、ない。
っていうか、気がついていても、
誰もどうすることもできない。

この場を借りてあの時なんとか手を差し伸べてくれた友に先輩に心から感謝をします。

表面上は、
勉強もできて、スポーツも頑張って、
たくさんの仕事をこなして、
みんなで仲良く集まって楽しそうなキャンパスライフ。

でも、
誰とも繋がれない。

夢が叶ってせっかく出てきた東京に、一等地の下宿。
学校に行けなくなり、卒論の単位だけを落とし、
追いかけてくる親から逃げ回るように山手線をぐるぐる回り、
お巡りさんも助けてくれない。
一晩寒い夜を教会の門の階段で過ごす。

神様は本当にいるのだろうか?
なんで祈っても答えてくれないの?
なぜこんな酷いことを放置するのか?
いるかいないかわからない。
単なるそういう考えなのか?
でも、祈らざるを得ない。

全てが信じられない。
何を信じていいのかわからない。
あるのは、ただ「否定」「否定」「否定」。

なんとか、教職に就いた。

もし自分みたいに辛い子がいたら、
その子の力になるんだ、と。

こんな先生になるんだ、と。
だけど、現実は、伝わらない想いに、誰も話を聞いてくれない、踏み躙られる、空回りの言葉ばかり。

上からのパワハラに、イライラ。

たくさん理論を学んだつもりだったし、
いい言葉を集めた、つもりだった。
無力感。
虚無感。
人を裁く自分。
保身に走る傲慢な自分。
子どもの時、一番嫌と思うタイプの大人にそのまま自分がなっているのだ。
生きている意味すらわからなくなってきた。

情けないって思った。
一番救いが欲しいのは自分だった。

助けを求めて、何度も彼に連絡した。
「ぼちぼちでいいんだよ」
「考えるな。言葉を捨てて。」
落胆した。
なんのことかさっぱりわからなかった。

しまいに、心身ともに限界をきたし、
パワハラをしてきた上司に思い切り怒鳴りつけ、いうことを聞かない生徒を無視するという選択をしてしまった。
裏切り、見捨てた。

ことの顛末を正直に話した。

電話口の先生は、穏やかな声で、
「お前は自分を特別な存在だと思っている。だけど並以下の人間だ。
なぜ心で生きない。
考える?
言葉を捨てない?

電話を捨てて、野宿をして暮らせ。
人にためになしかしろ。
死にたくなったら、泣け。」

その場で、私は電話を水につけて、
翌日から、全てを捨てて、
寝袋を持って野宿の旅に出た。

絶望。
死んだ方がマシ。
どうしても
乗り越えられない壁。

飢えや寝る場所がないことよりも
自分自身の醜いあり方が誤魔化しようがないことが辛かった。

食事を差し出してくれたり、
話を聞いてくれた人のちょっとした優しさだけで、
涙が溢れて仕方がなかった。

ある時、ふと、
「こんな自分でも無条件に生かされて、望まれている」
ということに気がついて、
その瞬間、胸の内からわーーっと溢れ出るものが止まらなくなって、
何十分も泣き続けた。

その旅で出逢ったご縁が今の私を活かしている。

二年後、
恐る恐る元いた学校の卒業式の日、
校門の外で待っていた。

先生たちは、無視。

子どもたちが自分を見つけると、
先生、先生、と駆け寄ってきてくれて、
涙してくれた。
たくさんの思い出を伝えてくれた。

帰り道に、涙が溢れて止まらなかった。

真っ暗闇にボールを放り込むようなことを続けていたと思っていたけれど、
ちゃんと伝わっていたんだな、
祈りが届いていたんだな、
と思った。

子どもたちに、救われた。

先生に電話した。
話そうとすると
「感動がスポイルされるから話すのはよしなさい。
これから不安定かもしれないが、子どもたちに教われ。子どもが助けてくれる。
じゃあね。」
静かで、暖かかった。

もう、多分彼のところに行くことはないし、相談することも救いを求めることも、ない。

それから何度も、現場で、
つまづき、人を傷つけもしてきた。
けれど、ちゃんと想いを伝えてきた。
言葉にならない想いでただそこにいただけで、
子供達は勝手に満足して、
自分自身を取り戻していった。

何年越しに
伝わったことも少なくない。

収穫を僕が受け取ることはわずか。
僕の存在自体忘れられても構わない。

過ちは犯すだろう。
だけど、これからも、
あの、言葉を捨てて、心で何も言わずに、そこにいる、
そんな祈るように生きる姿勢は
持っていたい、と願う。

神様は、いる。
いる、というか、
愛だ。
愛が神だ。

神様はいて、一生懸命、働こうとしている。
だけどそれは、自分の殻に閉じこもっているうちはわからない。
心から人を愛する時そこに神がいる。




以下、引用

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「周りのみんなに優しさを配ってごらん」
 (「死にたい」「手首を切った」、そんな相談に水谷さんはどのように答えているのですか、の質問に)
 「水谷です。君が死ぬのは哀しいです」
それだけです。
すると大体
 「ごめんね、先生を哀しませて。でも死にます」
と返ってくる。
これでこの子は死にません。
 (なぜです?)
 意識が外へ向きます。
 彼らの意識構造は閉鎖的で内へ向いていますから、それを外に向けさせる。
それだけでとりあえずは助かります。
そして僕は一つのお願いをします。
 「周りのみんなに優しさを配ってごらん。何でもいいんだよ。お父さんの靴磨きでもいいし、洗濯物を畳むのでもいい」
 「そんなことして何になるの」
 「いいから、まずやってごらん」と。
 二、三日後には、心ある親なら子どもの変化に気づきます。
 「先生、お父さんが靴を磨いていたのを気づいてくれて、ケーキ買ってくれた。ありがとう」
というようなメールや電話がくる。
そこで今度は親と話します。
お母さんに毎晩一緒に寝て、触れ合ってください、とお願いするのです。
 日本の小児科医の父と呼ばれた内藤寿七郎先生は、「子どもは三歳までに決まる」と言いました。
 三歳までにどれだけ触れ合って、抱っこしたかで人生が決まると。
いま、子どもを全然抱いていないでしょう。
 保育園に預けても、数人の先生では子ども全員を十分に抱くことはできない。
 車ではチャイルドシートなんかに乗せて、全然抱いていないですよ。
たとえ十代になっても二十代になっても遅くはないから、お母さんに彼らと触れ合って、抱き締めてほしいとお願いするのです。
 抱き合えばいいんです。
 触れ合えばいいんです。
 言葉は要りません。
 大人たちは頭を使い過ぎますよ。
 子どもたちが待っているのは、考えてもらうことじゃない。
そばにいてくれることです。
それを頭で考えて、言葉でこね繰り回すから、むしろ言葉で子どもたちを傷つけて追い込んでいる。
いま世の中、ハリネズミだらけだ。
 教員と生徒も、親と子も、社会全体がそうです。
 愛し合って認め合いたいのに、針を出し合う。
 例えば、娘が深夜一時頃帰宅した。
 親はもう泣きたいくらい心配なんですよ。
 玄関のドアが開いた瞬間、本当は、「やっと帰ってきた。心配していたんだぞ」
と言いたいのに、「何やっていたんだ、こんなに遅くまで!?」と言ってしまう。
 一方、娘は家に帰ったら、「遅くなってごめんね」と言おうと思っていたのに、親に強く言われたものだから、「うざいんだよ!!」と言ってしまう。
 「何だ、その口の利き方は。おまえなんか帰ってくるな!」
 「分かったよ、出てけばいいんでしょ!!」……。
 素直になればいいんです。
そして、言葉を捨てればいい。
 教育に言葉は要らないのです。
 水谷修(元高校教諭)

社長の車の中で、
「夜回り先生」水谷修さんの講演会(2007年)を聞いていました。
その話ぶり、生き様、凄まじい貧困のなか、夜の街で非行に走り、薬物に溺れる青少年一人一人を大切な友とし、
罪を犯したり、亡くなってしまった一人一人の存在を、胸に刻みつけて、
その哀しみを語り、
伝え、
私たちの奥にある優しさの心を引き出させるような話は、
まるでキリストを思わせるようなものでした。

私は、彼に憧れ、彼のような教師になりたい、
と今の道に進みましたが、
突きつけられたのは「絶望」以外にありませんでした。

彼のように生きようとすれば「できない」自分に気がつき、
彼のしたようにしようとすれば、
職員室から、大人たちから「ダメだ」と四方八方から非難され、
子どもに寄り添えば寄り添おうとするほど、
背負いきれなくなり、
見捨てたり、
自分自身が潰れてしまう。

情けない、
というか、
無力感というか、
自分の存在意義が全くなく、
それを埋めることのできるものが本当に見つからないのです。

彼から電話口で言われた一言は、
「考えるな。心で生きろ。」
ということでした。
その一言で、私は、電話を捨て、仕事を捨て、
本当に真っ暗闇で救いの見えない中、ずっと野宿で祈りながら歩き続けておりました。

この時ばかりは、
本当にあらゆる運命、神からも見捨てられた、と感じました。

私のいた場所は、
決して「夜の街」「夜の学校」ではなかった。

中高大と、いわゆる「進学校」「エリート」と見られながら、
勉強に、部活に、サークルに、励んできた
ーーーように思えたけれど、

「普通の」「昼の」世界の中にも、
無数の気がつかれないし、認識されない「夜の世界」がある。

聴衆はみんな「別の世界の話」
彼を「すごい人だ」と称えて、
終わる。
そして、ちょっと涙を流し、心打たれて、
またいつもの日常に戻る。

一番、辛かったのは、
そのこと。

「わかりやすい」不幸や障害は「わかりやすい」。
だって、昼の世界と別の、隔絶された、「別の」世界だから、
「かわいそう」って思える。
ポストモダンの成熟して「みんな一緒」の檻に保護され囲まれてしまった社会機構の「外」に出ちゃったアウトサイダーのわかりやすい物語。
そこに「救い」を求めちゃう。

ちょっとだけ、思う。
「救い」は「目に見える夜の街」にだけ、でいいのか?
一見満たされたようでいても、昼の街で適応しようとして、それでも見えない苦しみを抱えて、
泣いて、絶望して、哀しみを抱え、
鬱やパニック障害になり、
眠れない夜を過ごしながら、
それでもそれを表に出さず、満員電車に乗って、笑顔を作り、
人並みに業務をこなしていきながら、
終わりのないラットレースを過ごす人々は、
「知るか、自分でなんとかしろ」ということなのか。

って思うことが、ある。

「さしあたり」昼の世界に戻れば、それはそのまま幸せなことなのだろうか?

「救い」のためには、そういう類の「わかりやすい」不幸な境遇や、壮絶な体験が必要なのか?

本当に「光」が必要なのは、、、。

、、、。

そんな僕たちの中に「優しさ」や「感動」を生むものって、
もっと言えば「救い」ってなんだろうか。

マザー•テレサは言った。
スラム街に来る必要はない。行って、家族に愛の行いをしなさい、と。

僕たちの社会のただなかに、
隣に、自分のうちに、
「夜の街」や「スラム」はあって、
それはきっと物理的な夜の街やスラムよりも、深いことだってある。

そして、僕たちは、その人たちを「対象者じゃない」「お前は流石に違う」って思っている。

「かっこいい自分」に酔いしれたいだけ。
あとは、自分自身が本当は救われたい、だけ。
神に嫉妬し自分が崇められたいルシファー。