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救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

18歳の頃、ゼミで読みはじめ、
数年前あたり再びゼミで読みはじめ、
一人でコツコツ読み進め、
20年かけてやっとアウグスティヌス『告白』を読み終えました。





354年ローマ帝国内北アフリカ生まれの哲学者。

私たちの欲望を突き詰めていく。
あなたは本当はどうなりたい?何を求めているの?

と問いかける。

お金が欲しい
すごいねと言われたい
人に必要とされたい
認められたい
楽しみたい
人の役に立ちたい
休みたい
寝たい
美味しいもの食べたい
有名になりたい
成功者になりたい

みたいな
ものが出てくる。

でも、それが永遠に続くか?
世界は間断なく移り変わって、
僕たちは草のように萎れて枯れて、
跡形もなく消えていき忘れ去られていく運命で、
生きることは絶えず競争。

そして、それらの多くは、
満たされることなく、
人生の多くが欠乏感に満たされ続け、
不安と苦悩は常に付きまとう。

何か落ち着かない。
それでも何か満たされない何かが、
ずっとずっと人生には付きまとう。

じゃああなたにとっての幸せって?
心から喜んでいるだろうか?
生きていることそれ自体が、満たされて、幸せで、
もうこれ以上には何もいらない、
と思える瞬間ってあるんだろうか?

それはきっと、
自分の存在の意味に関わってくる。

存在をこの上ない愛情を持って、呼び起こし、生み出した、
ペルソナ、心を持った「根源的な大いなるもの」のうちに戻っていくこと。

人が究極に求めるものは、
永遠と完全な愛とその交わり。
顔と顔をあわせて親しく語り合い、憩いたい。

それは、人間の理性や証明のようなものを遥かに超えていて
ある種の幻想やフィクションのようにも思える。

でも、その幸福と自由と永遠と愛への希望は、
いくら不可知論や証明に馴染まないという論拠を持ち出しても、
地上の分析的な諸学問がそれを封印したとしても、
私たちの心のうちに確かに消え去ることなく残り、
重力のように、
心を「本来あるべきところ」へと引っ張って行こうとする。

それを「神」という手垢に溢れたイメージのついたひとことで言っちゃうのは、なんだか気が引けるし、
それは特定の宗教の枠内に収まるものでは決してないし、
「こっち」と「あっち」に分けられるものでもない、
人類である限りの普遍的な憧れや永遠性。

存在への問い。
存在を形作っている時間の不思議さ。
なおも知覚できない根源的な大いなるものに対して、
わからないながらも語りかけ、聞き、対話をしながら、
その方自身を求める一つの魂。

ダメダメな自分を、
罪に塗れた情けない自分を、
ありのままに告白し、
それでも許され、遣わされることに感謝しながら
「あなた」を讃える魂。

若き日に、真理を求め、
間違った道にはまってしまい、真っ暗闇に陥るも、
本当に自分を自由にし、愛してくれる道に、
愛する母や、優れた友のおかげで戻り、
回心を経験して、絶えきれず突っ伏して号泣する魂。

彼の魂は、現代にもなお生き続け、
世界のために祈り続け、歴史のいく末を見守っている。
新教皇レオ14世が選出されましたが、
初の米国出身、ペルーで司牧をされていた方で、
さらにアウグスティノ会出身の方とのこと。






現代にもしアウグスティヌスがいたら、
果たしてどのようなことを言うのか、
いつも彼の著作と対話しながらおもいます。
彼は私の大好きな聖人であり、受洗名も彼の名をいただいております。
彼の生々しい「告白」は時代を超えて、まるで彼の息遣いが聞こえるように私の心に響き、涙し、賛美し、探求せずにはおれません。
大文学というものは、いつも心の奥底を神に語り、また神に聞きながら、対話することを通して生まれていくのです。
そしてそれは、人類共通の深みに触れ、本当に人の心を打つものとなるのです。
ニュースや情報などは表面的なことです。
大切なことは、みなさん一人ひとりが、神に聞き、対話し、生きる生命に示されながら愛をもって人生を生きる、生き切ることです。

彼の霊的な遺産は、のちのアウグスティノ会出身のルター、
そして、プロテスタンティズムを徹底して神の前に一人立つ実存者キルケゴール、また無教会主義を提唱した内村鑑三にも継がれていきます。

つまり、カトリック、プロテスタント、そして無教会主義共通の霊脈が彼から流れ出ているわけです。

アウグスティヌスは、ローマ帝国の古代末期、
つまりキリスト教がローマ帝国内に広がっていき、ゲルマン人がローマを滅ぼしていく最中にアフリカで活躍した司祭でした。
彼は、母モニカのもと、カトリック教徒として生まれましたが、「非科学的な」古臭いカトリックに辟易して、
十代の頃親元を離れ、当時世界を席巻していた新興宗教であるマニ教に入れ込みます。今でいう統◯教会とか、幸◯の科学のように、諸宗教をオリジナルの霊的解釈によって統合しようとし、禁欲的な教義や修行によって救いを得ようとしていたわけです。
また、キケロといったストア派の哲学や修辞学も極める一方、
付き合っていた彼女を孕ませ、私生児を育てながら生活します。

しかし、心の中の虚しさや絶望感は癒えることなく、
友人の死を目の当たりにし、激しく悲しみます。

マニ教も彼の疑問に応えることなく、また教団内での腐敗を目の当たりにします。
そんな折、ミラノ司教のアンブロシウスに出会い、
彼は再びカトリックの教えに正面から触れるようになり、
ついに回心を経験し、喜びのあまり号泣し、受洗に至ったのでした。
(当時は幼児洗礼ではなかった。それは彼の時代のあとから取り入れられることになった。)

そして、愛していた妻と子と涙の別れをし、修道者の道に入ろうとするも、
別の女性と関係を持ってしまったことを、手を振るわせ、嫌な汗をかきながら、『告白』に書き記します。

司教になってからも、彼は自分の弱さをそのままさらけ出し、そのまま神に愛され、贖われているのだと感謝を伝えます。

彼の主な論敵は、
「救いは、自分の努力によって成し遂げられる」と主張する、すごく立派な修道士ペラギウスに、
腐敗した司教の授けた洗礼を有効としないドナティスト派の人々でした。
つまり、マニ教との戦いだけでなく、カトリック内での原理主義や腐敗(別に今に始まったわけではない)を乗り越え、
全ての人が必ず救われる、いや、救われていると言う普遍主義のベクトルを示したのでした。
彼は自分の著作を後世に残るよう、詳細な指示を出しています。
彼は、ヒッポの街がゲルマン人に包囲され落城せんとする中息を引き取りました。

聖アウグスティヌスの霊が今も生きて、天から教会と、そして全世界の歴史の歩みのために取り継いでくださっているように思われます。

前教皇のフランシスコも、
教会内の腐敗や原理主義と戦いました。
閉鎖的な教会を博物館だと非難し、
町はずれに出ていく教会であれ、
野戦病院であれ、と檄を飛ばし、
諸宗教の指導者とも対話をし、
罪人や虐げられた人々に跪き、足を丁寧に洗いました。
亡くなった時に残された財産は一万円ちょっと。

さて、

私自身の生きている現場ーーーそしてそれは同時に現代の課題でもありますが、
教派や組織のこれまでのスタイルを踏襲したり、その枠組みにこだわるだけでは未来は確実にないでしょう。
ーー無論、いつもいつも伝統が保ってきた本物の霊性に立ち戻ることは不可欠であり、
新しい時代はいつも古典を熟読していくことから生まれます。
「新しい動き」を、ただ待つのではなく、小さくてもいいので、草莽崛起で個々人が起こしていく以外に道はないように思われます。
心の中の聖霊のか細い声を押さえ込まないでください。
教えられたこと、示されたことは小さなことでも、
恐れずに網を投げてみることです。
これをまず、自分から自分からやっていくことです。
キリストと共にいつもいることです。
行って、神の国を述べ伝える。そこに天が開ける現場が現れます。

まだまだ、世界は完成せず、課題も罪も山ほど残されています。
あと何百年、何千年かかるかわかりません。
しかし、私たちには一人一人、世界のために生き切るべき天命を与えられています。
それを忘却して、取り替え可能なコンテンツの一部になり、またなろうとしているのが実存を失った現代人です。
生命に戻ってつながっていたい。
まだまだ私たちは旅の途中。

恐れに流され、負けてはいけません。
愛の選択をいつもしていきたい。
どうやって死にたいか。

ユダヤの家庭教育では、
言葉を覚え始めた時から、
「葬式ベース」の教えを叩き込まれる、
という。

人生の通信簿は二種類あり、
一つ目が学校でもらうもので、
二つ目が、葬式の時にもらう通信簿。

どれだけの人があなたの死を悼み、ありがとうと言ってくれるか。
その成績を上げるためには、与えること、貢献すること。
待つのではなく、チャンスをつくってでも与えること、
と親は子に教える。

こんなことを日本の学校や塾で伝えたら、どうだろうか?
ーーー伝えているけれど。

ちょっとだけ、波風が立ったらどうしようか、
と恐れていることもあるけれど。

それ抜きの教育なんて、虚しい抜け殻みたいなものだなって、思う。
なぜ人は、絶望せずに平気で生きていられるのか。

ただ一人で、そんなことを考えている自分の存在も抜け殻に思う時がある。

人は、死をこえた永遠の生命のためにつくられており、
また、地上においてその天命を果たすよう永遠の側から呼びかけられているからだ。

現代の危機は、この声、このアンテナが、閉ざされ、魂が窒息してしまう、ただそのことにある。

教皇フランシスコが亡くなったロスは、まだ続いている。
しかし、
それは、私たちに託されたバトンである。

彼のインパクト、、、
ーーー世界に、何よりもこの私の魂に与えた影響は、
まるで全てを新しくするものだった。

「この教皇じゃないとダメだ」というか、
こんな教皇は後にも先にもいない、唯一無二の人だった、
というに相応しい、
大好きな大好きな人だった。

ヨハネ•パウロ二世も、おそらく千年単位で歴史に残る偉大な教皇であったが、当時キリスト教などに全く興味のなかった私には伝聞と書籍でしかその魂を窺い知ることはできない。
フランシスコがいかなる事業を成し遂げたか、
というよりも、彼の命そのものをかけて世界に示した「生き方」に、
あのイエス•キリストの似姿を感ぜずにはいられない。

そしてその奥に、
「聖徒の交わり」、
二千年の間、一つの聖なる霊に導かれてきた、時空を超えたあの愛の交わり、
同じ一つの生命が
あの教皇を選び、新しい世界、新しい時代を開いたのだという、
天の意志、呼びかけを聴かずにはおられない。

彼の言葉は、膨大なものがあるが、
どこを切り取っても、
「単なる言葉」ではなく、
本当に、魂の奥底から、祈りが透けて見えるほど、
神ーキリストに接木され、
そして、第一の僕として、全世界に仕え切った者のそれであった。

史上初の南米出身の教皇、
枢機卿になってもリムジンや宮殿に住まず、
小さなアパートで、地下鉄で出勤、
教皇になっても、バチカン宮殿でなく、仮住まいの「マルタの家」に住み、
そこらへんでメガネを買い、ホームレスを食事に招待した。

自分を教皇とは呼ばず、
ずっと「ローマ司教」と呼んでいた。

彼は若者たちに、
人生は「何のため」ではなく、「誰のために、誰とともに分かち合うか」と伝えた。

楽園を彼岸に、ではなく、
天が透けて見えるほどに、この社会の中で、聖霊の通気口となるような生き方、在り方をしろ、と呼びかけた。

「現代において革命家でないものはキリスト者でない!」
「外に出て行かない教会、内向きな教会は、博物館であって教会ではない!」
と檄を飛ばし続け、
自らもそう、行動し、生き切った。

私自身の「祈り」も、彼のことばに触れて、大きく変わった。
祈りにもさまざまなものがある。
私自身も、「どうやって祈ったらいいか」、
そればかりを貪欲に求め続けている。

黙想の祈り。
自分の魂を神の掌に置き、使ってもらうこと。
シェマーの祈り。神の声に耳を傾ける祈り。
雄叫びの祈り。腹の底から神の名を叫び、溢れんばかりの情動、エクスタシスの中で、霊に満たされ、不思議な言葉が噴出する祈り。
定型文をひたすら繰り返す祈りもあれば、
自由に心から溢れ出てくるものを語る祈りもある。

書く祈りもあれば、
踊る祈りもある。
歌そのものが祈り。
呼吸も祈りになる。

フランシスコの祈りは、
「ただそこにいるだけ」。
それ自体が全き祈りだった。
神がいて、私が、ただそこにいる。

哲学者ハイデガーは、
「現代は、存在を忘却した時代である」を警鐘を鳴らしたが、
beingで「ある」ことの底知れぬ静けさと平安は、
そのまま最も名状し尽くし難い「祈り」。

あまりにも透明で、あまりにも素朴な、祈り。

長崎に訪れた際には、
土砂降りの大雨が、嘘のようにかんかん照りになり、
ファティマで聖母が出現した時と同じようだった。

それにしても、あまりにも美しすぎ、祝福された死だった。
復活祭の日に、彼は、
「人は死ぬためでなく、生きるために生まれるのです。」とツイートし、
まるで、その日が定められ、
待っていたかのように、
周りに
「ありがとう」と伝えて、昏睡状態に陥った。

彼の棺に眠る遺体はあまりにも柔和で、
「生き切った」「使命を果たした」という顔をしている。

彼の魂が、イエス、聖母、そして天で働く無数の聖人の群れに迎え入れられ、
彼はまた、私たちの時代のために、すべての時代の聖人とともに、働き続けるであろう。

常福なる魂の群れ、
地上からではわずかにしか直観できないあの愛の交わり!

日本のために祈り給え。

フランシスコにはただ感謝しかない。
彼は本当に人生そのものを、貧しい人と「分かち合った」人だった。
そして天の国には、私たちなどより、真っ先に、罪人や貧しい人が入るだろう。

次の教皇が、
今もとこしえに生きて働く聖なる神のスピリットによって、
世界を照らし、世界に仕える人格を呼び出し、立てられることを祈ります。
【発達障害者、精神障害者、愛着障害は「厄介な人」?】
ある本が非常に炎上しているのを目にしました。

職場の「困った人」「厄介な人」を
「うまく動かす」
ために心理学を使うという趣旨の本。

帯には、
「なぜ私ばっかりあの人の尻拭いをしなきゃいけないの」

そして、槍玉に挙げられるのは、

発達障害者や、愛着障害を持った人、
鬱などの精神疾患ですぐに休んだり早退を繰り返す人。

大手出版社さんから出され、
プロの編集の人たちが何重にもチェックした上で、
きっと「計算尽く」で出されたに違いないだろうなあと思う。

それは、ちゃんと「売れる」見込みがあるっていうこと。

これが、苦しんでいる当事者から
のみならず、
専門家からも、
「差別だ」
「優生思想だ」
「コンプライアンスをこえて人権侵害だ」
という意見で、
大炎上して、
出版の差し止め騒ぎになっているわけですが、、、

うん。

それらの意見の全てに非常に共感し、同意する。
素直に、
すごく、悲しい。
すごく残念。
「センセーショナルにせよその言い方は、当事者たちを傷つけ、追い込み、人権を踏み躙るものだ」と、
反面、
「そう思う管理者側の立場」を考えると、
さらに共感してしまうわけです。
残念ながら。

顰蹙を買いながらも、
アンチをつくり、恨まれながらも、
ちゃんと「共感する人がいる」「売れる見込みがある」ということで、
逆にいうと、
「本音」を「代弁」しているんだっていうこと。

戦争、いじめ、差別は、
自然の摂理です。

「そんなものあってはならない」「おかしい」「なくそう」
それは確かであり、全人類に課された責務です。
しかし、現実として、
「困った人」もそのまんま受け入れよう、
クレーマーも、遅刻を繰り返す人も、私語をする人も、すぐキレる人も、
人を利用する人も、
「それはお前が受け入れられないのが悪いんだ」
となれますかって話。

私も、
全部当てはまるわけで、
学生時代から、社会人に至るまで、
迷惑かけ続けてきている人間であり、
差別され排除され続けてきた側ですが、
ある意味、運だけはやたらとよくて、
ご縁に恵まれ、生かされているわけですが。

営利組織において、
一人の
「困った人」「厄介な人」を放置しておくと、
組織全体が崩壊したり、
同僚のメンタルが病む、
信用に関わる、
というのが現場なのです。

その人の裏に、
どんな悲劇や不幸な生い立ちや、助けたい事情があり、同情を誘おうとも、
会社組織は、その人を救う機能は有していない、
というのが現実です。

鬱になろうが、ガンになろうが、障害があろうが、家庭で虐待があろうが、
それは当為として「配慮や支援がなされなければならない」ですし、
「しっかり人間らしく生き生きと働けるよう尊重されるべき」なのですが、
基本、会社はその人を助ける「ために」存在するわけではない。

経営者側も社員もそれをわかりつつ、いつも引き裂かれる。
枠組みをこえて、その人を助けようとしたら、クビになんのよ。
というか、なってきたのよ。

絶望的かも知れないけれど、そうなのよ。

私は、私自身のことを、
「困った人間」「迷惑な人間」だと思っていますが、
そこらへん、
自分の弱みや弱点を知った上で、解像度を上げて、
「ここが弱いんで、こうしてもらえると、めっちゃ助かります」
と伝え、
「組織は軍隊」自分は「駒」だと割り切って、
組織の理念とルールを熟知し、
苦手なことはやんない、得意なことで貢献し、
全体にために、どういう動きができるか、
考えます。

なんなら、
「私こんな厄介な人間なんで、取扱注意してください!」
と本書を渡してもいいかも知れない。

いや、
本当に厄介な人間は、
発達障害や精神障害とカミングアウトして知りつつ、パワハラや差別をして退職まで追い込む上司や同僚だったりする。

言っちゃいけないけれど、マジしねと思う。
呪われよ、と思う。
まあ逆に言えば、
向こう側も、こっちをマジで社会から抹殺したいほど憎んでいる、と思う。
いや、とっくに忘れていびきかいて寝てるかも知れんけど。

ものすごく身勝手かも知れないけれど、
「それパワハラだ!差別だ」
とコンプライアンスデスクに言って、
ちゃんと告発もしたけれど。

こんな本でも読んで、
うまいこと、「動かしてくれる」テクニックを持ってくれる人は、
確信犯であっても、ある意味「ありがたい」。

部下に、発達障害や精神障害を抱えている上司は、
ほぼ多くの確率で、
「めんどくさい」と思っている。
口に出した瞬間、コンプラ違反、パワハラなので、
グッと口から溢れそうなのを厳しくチャックをして抑えているが、
裏では、胃をキリキリさせ、眠れなくなるほど悩んでいる。
助けようと思っているが、逆ギレされて、逆に加害者扱いされる。

もちろん、すべての障害者がそうではない、
わけで、
「困った人間」に「障害者」「症候群」のレッテルを貼るのは、
かなーーり危険なので、
そこは訂正が必要な次第ですが。

ただ、「厄介な人」「困った人」の対処法に悩まされている管理職からは、
「どれもこれもわかりすぎる」くらい共感できるワードが表紙と帯に散りばめられていた、

…とか、思ってしまう、自分がいたりします。

炎上中にこういうことを書いたら、
さらに炎上するのでしょうか😅

私の知る限り、
もう十年くらい発達界隈にいて、
そこで飯も食ってきました。

ずっとご縁の続いている発達さんもいれば、
しんどいなっていう人もいますし、
頑張ってる人もいれば、
大変な人もいましたし、
これ、ほんと、
人それぞれ、なんですよ。

それをちょっと一括りにするのは、
ある意味認知的にはわかりやすい、
反面、
危険でもあるかな、と。

そもそも、
私たちは、
「めんどくさい」。

というよりも、
そもそも、
生きることそのものが、面倒くさい。
矛盾に満ち溢れている。

不幸な生まれの人はもっと不幸になり、
幸せな生まれの人はそのアドバンテージで幸せになっていける。
無論、意志の力で宿命を変えていくことも可能ですが。

もっと言えば、
人間存在は、倫理的にも根本的に全員が悪です。
普通に生きているということは、
要するに、別の何かを奪って活かされているわけであり、
我々は自分の存在に関する底知れぬ傲慢さを自覚しきれずに、
苦悩し続けるわけです。

結局全員が死にます。
成功者も不遇な人生を送った人も、お金持ちも有名人も不幸な人も、、結局、いろんなことがあってこの世をさる。

これは、多くの哲学者宗教者が口を揃えて言っています。

「まあまあまあまあ」と、多くの人はそれをうまく誤魔化そうとします、
何かと前向きに捉えようとしますが、
義人一人だになし、です。

そして、この問題、
「出口なし」で、
ほとんどの人が、ーーー私も含めてですが、ーーー
うまく社会機構に適応し、良好な人間関係を構築することによって、
忘却しようとしているように思われる次第であります。

キリストを十字架につけて「ない」ものは、キリスト者でありません。
いっちばんたいせつなものをいっちばんたいせつにする。

それを自覚しながら、
いつもその選択をし続ける人は、美しい。

それができない人は、
「自由」を求めながらも結局、
「他人の都合」や「権力」や「見栄」の奴隷になっちゃう。

あなたの一番大切なものは何ですか?
イエスは、私たちをつくっている「大いなる意志」を「パパ」と呼ぶんだよ、と私たち人間に教えた。

目に見えない大きな愛の意志が、本当に目に見える形となって、完全に人間となって、僕たちの友達になってくれたのだ。

イエスの中に丸ごと「パパ」がおり、親しく自分の愛を示そうとしている。
家族で一緒に行ってきました。



テゼの曲は、CDで聴いているだけで、涙が出るほど美しいのですが、
その場にいる人が集まって、ハーモニーを重ねて、祈りを込めて歌うと、
その場の全体が一つの愛の響きに深く満たされていきます。

歌とは祈りで、
その祈りは、歌が終わった後も、見えないところ、深いところで、響き続けます。

歌を歌っているのは「私」のようでいて、
「祈り」そのものが、私たちにその調べを奏でさせ、
また曲をつくらせます。

ただ、シンプルな同じフレーズが繰り返されるだけであり、
あまりにも単純素朴な祈り。

しかし、それで十分です。

私たちがそれぞれバラバラであるようでありながら、
固有のかけがえのないものでありながら、
同じ秩序のうちに、同じ一つの生命を生かされていることを知ります。

生きている人だけでなく、今まで亡くなった全ての聖なる人々と今、ここで、私たちは交わっており、私たちは決して一人ではなく、孤独ではないことを私は信じます。
完全な愛の交わりを取り除く、恐れや自己中心性や傲慢さや絶望などといった人間ではどうしようもできない罪も許されないものは決してないことを私は信じます。
一度きりしかない地上の人生が儚く終わったとしても、私たちの存在全体が再び完全なあり方でまみえることを私は信じます。
私たちは皆、同じ一つの永遠の生命を生きていることを信じます。
それゆえに私たちは、悲しみ、苦しみ、絶望するのですが、
それは愛と生命の裏側であり、
生命そのものの呻きや叫びなのです。

死の向こう側は、深淵であり、いかなる解釈もそれを拒み、その意味は謎のままです。
しかし、ただ生命のみが真に存在します。
生命の側からの希望を私たちは確かに現実に歴史のうちに目撃し体験し、
そこに希望することができます。




友を亡くしたアウグスティヌスのこの『告白』ほど身に染みるものはない。




友の死を前にして、
最大の謎は「自分自身」なのだ、
と彼は言う。

人の死がなぜ悲しいのか。

震災で、家族を失った人は、
それを語る言葉を持ち得ない。

「なぜ」ばかりがぐるぐると回るが、
決して答えは出ない。

しかし、それをなんとか外に出し、
それを受け止め、消化していく作業が必要なのだ。

アウグスティヌスは、クリスチャンであり大神学者であったので、
「神に希望せよ」
と自分の魂に言い聞かせるが、
魂はそれに従うことができない。
そう、素直に告白します。

下手な、「信仰の押し付け」は、むしろ彼を苦しめるのです。

私自身も、
霊魂の不滅、
神の全能と摂理を信じ、救いを信じ、一切が完全であり、
全てには大きな意味があるのだと確信します。
全てのことは、これ以上にない大きな祝福と栄光になるのだと、希望します。
一才の涙や苦しみや死が拭い去られ、ただ喜びと愛のみが勝利することを信じてやみません。
しかし、
まだ、それをすんなり受け入れ乗り越えるところには至っていません。
というのも私自身がそれを作り出すことはできず、
その「体験」を有することも、思考や解釈によって作り出すこともできないからです。

それでも、彼は、神に向かって、問い、叫びをあげます。
このことは、
彼の魂の神ご自身への親しさそのもののような気がします。
彼の生命の根底において、
全ての生命、失ったいっさいのものは永遠の相において繋がっているのです。

最も、言葉にできない深い部分、
生命の根源における呻き、
そのギリギリのところにおいて、
矛盾しかない現場において、
それでも私たちは神に触れられる。

十字架上で、「父よなぜ我を見捨てたまいしか」と叫んで絶命したキリスト自身が、そのとき神の栄光を最もあらわしました。

彼は、
ただ泣くことだけが、甘美なこと、喜悦であると言います。
無理に元気になろうとしなくても良い。

嘆きや呻きを、受け止めてくれる人がいることが、
「答え」よりも大切です。

アウグスティヌスにとって、それは、
彼の生命の根底に確かに生きている方でありました。

疲れた人が布団の上に倒れ込むように、
彼の魂のまた、絶対的に委ねられる生命の源のもとに倒れ込み、その方に向かって、心のうちの一切を打ち明ける。
友人が亡くなったことを知った。
ショック。
受け止められない。
自分で命を絶ったと。

辛くて孤独だったんだろうな。

自分の意志で、っていうよりも、
病気と戦って戦って、
生き延びるための全てを試みて、
ついに力尽きたんだろうな。

一緒に歌ったこともあったし、
血だらけになった腕を見て、
背中に手を当てて、懸命に祈ったこともあった。

「何ができたのか」
って、
グルグル考える、
考えてしまう。

きっと何もできなかったのかもしれないけれど。

同時に、
こんな言葉が返ってきそうだ。
「なぜ生きている時に何もしなかったんだ」
と。

世界が半分灰色になるって、
こういうことなんだって、思う。

悲しい。
ひたすら悲しい。

「悲しまないで」と言われるかもしれないけれど。

でも、このことはすごく大事なことだと思うから、
ちゃんと痛むことを許可してあげたい、と思う。

明日から平気な顔で、普通に毎日の業務をこなしていく日々が続くんだろうけれども。

もう、この世界にはいない。

どう言えばいいのか。

そこで、人生のこれからの可能性が、まったくなくなってしまったということ。
それは再び戻らない、ということ。

ありとあらゆる、可能性が、根っこからガラガラと崩れ去り、
足場がなくなる。

事実を
受け止めきれていない。

どう扱っていいのかわからない。

ただ、悲しい。

私たちの生の現実は、
真空に浮いているような気がする。

生きていることは、
現実のようでいて、
そのこと自体を誰も知らない。

生命の叫び。

世界全体に投げかけられた、生命の訴え。

それに対して、答えうるべきは人間。
だけど、人間はどこまでも不完全で、その痛みや叫びの全てを受け止めきれない。

生きなきゃ、と思う。

意味はわからないが、
根源的な意味そのものが問いを投げかけてきている。

活かしていかねば、と思う。

敵を愛せ。

こんな話がなきゃ、どんなに楽か、と思う、
こんなの無理だ。絶対無理だ。なんでこんなこと言うんだ。
この話だけは、なかったことにしたい、読み飛ばしたい、と思う。
無理無理で終わりにしたい、と思う。

いや、違う。
難しい、無理だとかごたくを述べずに、
えいやとやってみたらいいんです。

敵と思う奴がいたら愛してみよう。
自分を憎んでいる奴がいたら、親切にしてあげよう。
自分の悪口や陰口で盛り上がっている人がいたら、祝福してあげて、
バカにしてくる奴が幸せでありますようにと祈ろう。
ぶん殴ってくる奴がいたら、笑顔で、どうぞこちらも、とやってやれ。
なんかくれと言う人がいたら、あんたはダメとか言わずに、気前よく与えてあげよう。
持ち物を奪う人から、取り返そうとしなくていい。

自分が本当にしてもらって嬉しいことリストを作ろう。
そして、それができたら、人にしてあげよう。

敵を愛そう。
あいつはああでこうでとか、
人をいちいちジャッジしないことです。
自分のこともいちいちジャッジしないことです。
ダメだなあとか思わないことです。
思ってもいいけど、思ってるんだなーって思うことです。

許せないことがあっても、
許してあげましょう。
許せない自分も許してあげましょう。
許せない自分を許せない自分も許してあげましょう。
許せない自分を許せない自分を許せない自分も許してあげましょう。

脳は他人と自分の区別がつかない。
主語を認識しないのです。

少なくとも、
自分自身はスーパーウルトラハッピーになれる。
だって、苦しみの根っこがスポンと抜けて、
みんなひとつなんだって気がつくもの。

そういうことをすればするほど、
最強で無敵になっていく。


今読んでる、
「ワタルちゃん理論」にもおんなじことが書いてありました。

目に見えるもの、森羅万象全部ワタルちゃんワタルちゃん、あれもこれもワタルちゃん
憎い人も、ライバルも、この文字も、空気も、全部全部ワタルちゃん。
もうええやんかっていうくらい全部ワタルちゃん。

そうか。

山上の垂訓はすなわちワタルちゃん理論だったんだ!