新教皇レオ14世が選出されましたが、
初の米国出身、ペルーで司牧をされていた方で、
さらにアウグスティノ会出身の方とのこと。
現代にもしアウグスティヌスがいたら、
果たしてどのようなことを言うのか、
いつも彼の著作と対話しながらおもいます。
彼は私の大好きな聖人であり、受洗名も彼の名をいただいております。
彼の生々しい「告白」は時代を超えて、まるで彼の息遣いが聞こえるように私の心に響き、涙し、賛美し、探求せずにはおれません。
大文学というものは、いつも心の奥底を神に語り、また神に聞きながら、対話することを通して生まれていくのです。
そしてそれは、人類共通の深みに触れ、本当に人の心を打つものとなるのです。
ニュースや情報などは表面的なことです。
大切なことは、みなさん一人ひとりが、神に聞き、対話し、生きる生命に示されながら愛をもって人生を生きる、生き切ることです。
彼の霊的な遺産は、のちのアウグスティノ会出身のルター、
そして、プロテスタンティズムを徹底して神の前に一人立つ実存者キルケゴール、また無教会主義を提唱した内村鑑三にも継がれていきます。
つまり、カトリック、プロテスタント、そして無教会主義共通の霊脈が彼から流れ出ているわけです。
アウグスティヌスは、ローマ帝国の古代末期、
つまりキリスト教がローマ帝国内に広がっていき、ゲルマン人がローマを滅ぼしていく最中にアフリカで活躍した司祭でした。
彼は、母モニカのもと、カトリック教徒として生まれましたが、「非科学的な」古臭いカトリックに辟易して、
十代の頃親元を離れ、当時世界を席巻していた新興宗教であるマニ教に入れ込みます。今でいう統◯教会とか、幸◯の科学のように、諸宗教をオリジナルの霊的解釈によって統合しようとし、禁欲的な教義や修行によって救いを得ようとしていたわけです。
また、キケロといったストア派の哲学や修辞学も極める一方、
付き合っていた彼女を孕ませ、私生児を育てながら生活します。
しかし、心の中の虚しさや絶望感は癒えることなく、
友人の死を目の当たりにし、激しく悲しみます。
マニ教も彼の疑問に応えることなく、また教団内での腐敗を目の当たりにします。
そんな折、ミラノ司教のアンブロシウスに出会い、
彼は再びカトリックの教えに正面から触れるようになり、
ついに回心を経験し、喜びのあまり号泣し、受洗に至ったのでした。
(当時は幼児洗礼ではなかった。それは彼の時代のあとから取り入れられることになった。)
そして、愛していた妻と子と涙の別れをし、修道者の道に入ろうとするも、
別の女性と関係を持ってしまったことを、手を振るわせ、嫌な汗をかきながら、『告白』に書き記します。
司教になってからも、彼は自分の弱さをそのままさらけ出し、そのまま神に愛され、贖われているのだと感謝を伝えます。
彼の主な論敵は、
「救いは、自分の努力によって成し遂げられる」と主張する、すごく立派な修道士ペラギウスに、
腐敗した司教の授けた洗礼を有効としないドナティスト派の人々でした。
つまり、マニ教との戦いだけでなく、カトリック内での原理主義や腐敗(別に今に始まったわけではない)を乗り越え、
全ての人が必ず救われる、いや、救われていると言う普遍主義のベクトルを示したのでした。
彼は自分の著作を後世に残るよう、詳細な指示を出しています。
彼は、ヒッポの街がゲルマン人に包囲され落城せんとする中息を引き取りました。
聖アウグスティヌスの霊が今も生きて、天から教会と、そして全世界の歴史の歩みのために取り継いでくださっているように思われます。
前教皇のフランシスコも、
教会内の腐敗や原理主義と戦いました。
閉鎖的な教会を博物館だと非難し、
町はずれに出ていく教会であれ、
野戦病院であれ、と檄を飛ばし、
諸宗教の指導者とも対話をし、
罪人や虐げられた人々に跪き、足を丁寧に洗いました。
亡くなった時に残された財産は一万円ちょっと。
さて、
私自身の生きている現場ーーーそしてそれは同時に現代の課題でもありますが、
教派や組織のこれまでのスタイルを踏襲したり、その枠組みにこだわるだけでは未来は確実にないでしょう。
ーー無論、いつもいつも伝統が保ってきた本物の霊性に立ち戻ることは不可欠であり、
新しい時代はいつも古典を熟読していくことから生まれます。
「新しい動き」を、ただ待つのではなく、小さくてもいいので、草莽崛起で個々人が起こしていく以外に道はないように思われます。
心の中の聖霊のか細い声を押さえ込まないでください。
教えられたこと、示されたことは小さなことでも、
恐れずに網を投げてみることです。
これをまず、自分から自分からやっていくことです。
キリストと共にいつもいることです。
行って、神の国を述べ伝える。そこに天が開ける現場が現れます。
まだまだ、世界は完成せず、課題も罪も山ほど残されています。
あと何百年、何千年かかるかわかりません。
しかし、私たちには一人一人、世界のために生き切るべき天命を与えられています。
それを忘却して、取り替え可能なコンテンツの一部になり、またなろうとしているのが実存を失った現代人です。
生命に戻ってつながっていたい。
まだまだ私たちは旅の途中。
恐れに流され、負けてはいけません。
愛の選択をいつもしていきたい。

