神はどこにいるの? | 救魂録

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カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

●「彼らは皆、婦人たちや、イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちと共に、

心をあわせてひたすら祈っていた。」

(使徒言行録1:14)

弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。

(ヨハネ21:12)

 

結局、神って「人間のつくりだしたもの」なんでしょうか?

 

よく、「何で神がいるとわかるのですか?」「なぜそう確証できるのですか?」と訊かれ、

あれこれと弁明しているうちに、自分の中の実感を言葉でうまく伝えられないことにもどかし想いです。

対して、分かる人に対しては、教派に関わらず、神に出会った経験というのは近いものがあるので喜びあふれて「そうそう!」となる。

 

他方で、歴史の中でいろんな宗教戦争があったわけです。

様々な教派によって強調点が全く違います。

同じ神を信じているはずなのに、お互いに「あそこは違う!」「うちこそが本物だ」と言い合っています。

内向きな教派のフィルターで他の立場を断罪します。

「本物」であろうとするあまり、そうでないと感じたものに対しては「どーうしても違う!」と違和感や怒りを表明せずにはおれないのです。

その様子を見て、「やっぱり神なんかいない」と多くの人が思う。

 

神とは、ものすごくリアルな共同幻想かもしれない。

「わかんないけれど、長く続いてきたことだし、そういうことにしておきましょう」って誰も何も言わないけれど触れない約束事にして、ただ機構の一部としての形を続けているだけなのかもしれない。

お金や法律は実体がないみんなの決め事に過ぎないにかかわらず、みんなが「ある」というゲームの中でそれを目的にしたり、悩んだり苦しんだりする。

「神」というのも、為政者が多種多様な人種をまとめるためにつくりだした発明品なのかもしれない。

ジョン・レノンは「神というのは苦悩をはかる概念にしかすぎない」(GOD)と歌いました。

私たちの遺伝子の中には「よりパワーを持ちたい意志」こそが根源にあって、それこそが世界を自分の都合のいいように解釈しているのかもしれない。

生きるのが辛く苦悩ばかりという人は次のように考える。

現実は矛盾に満ちているのだから、完全無欠で永遠の世界というフィクションを想定して、そっちこそが本物の世界なんだと言って同じように劣等感を抱えている多数派の人の共感を得て、納得させてしまえば、世の中をひっくり返せるんだと。

現代の常識である、「人権」、「民主主義」、「命は大切」、「人に親切にしましょう」というのは本当はタテマエでしかなく、人間の本当の姿は「北斗の拳」の世界みたいに、強い人間が暴力で支配し、殺し合うのが「ほんとう」の姿なのかもしれない。

要するに目に見えない何かを信じるとか崇拝しちゃうということはそれだけ現実に対する馴染めなさや疎外感やコンプレックスがあることの裏返しなのかもしれません。

神が人間をつくったのではなく、人間の脳が神をつくりだしたのかもしれません。

あるいは、宗教というものは、「麻薬」と似たようなもので、目に見えない彼岸の世界に浸ることで一時的に癒されたり救われたり自分が特別になったような錯覚は得るけれども、結局はただの現実逃避にしか過ぎないものなのでしょうか。

「聖霊を受けた」「神から愛されている」と称する喜びの体験なども、脳内化学物質のエンドルフィンだとかドーパミンだとか「躁的防衛」だとかなんとかで説明がつくかもしれません。

本当は、宇宙も地球も人生も全く偶然の産物で、意味なんかなくて、死んだらすべてが無になって、生きていることのすべて、世界のすべての活動というのは全くの暇つぶしとごまかしでしかなく、「とにかくよくわからないけれど人生には生きる価値があるんだ」「そういうことは言わないようにしましょうね」ゲームを回しているだけなのかもしれない。

公の場では、「神は存在する」ということも、「生きることにはまったく価値がない」ということも同様に一つのタブーとされている感はあります。

「そんなこと考えても仕方ないから問うこと自体やめましょうね」と。

もしくは、単なる「生き方の知恵」や「思想」の一形態、神話や迷信の一種かもしれない。

「信じる人にはいるが、信じない人にはいない」と主観の問題で片づけることもできる。

 

・・・でも〈本当のところ〉は「証明のしようがない」です。

 

だけど、「信じる」ということ・・・誰かの愛や未来や希望を信じること・・・その愛や希望に対して心を開くこと、受け入れること、そして一歩を踏み出すこと・・・こうした人格的な次元のことは、「証明」に馴染むんだろうか、と思います。

信じている人たちは、「実際にそういう働き」を明らかに感じている。

それもありありとリアリティをもって「体験」している。

上記のような理屈や説明を提示しても、「うーん、そこには収まりきらない」何かを生きている。

頭で「たしかにそう考えると整合性が付くな」じゃなくて、本当に生きて働く存在に出会っている。

それは、本人にも「説明」はつかない。

ひとつの体験や出会いを「証し」として表明はできるが、「それはどういうこと」と理性的な説明はなじまない。

 

ただ、現代の私たちの文明や考え方の枠組みって、ものすごく「クール」になってしまっていて、そうじゃないことは「フール」(アホ)みたいに思われがちです。

つまり、「それどういうこと」「そういう理屈でそうなっているのね」「なるほど」を解明する世界で生きている。世界も人生も結局ぜんぶその見方で説明が付くと思っている。

つまり、「何」の世界、「どのように」「そういうこと」の世界で生きている。

他方で、「誰と」「誰に」という人格的な交わりの現場のリアリティや意味が忘れ去られて、学校でも会社でも、人は単なる数や数値やデータになっていく。

 

それが、「結局何か」ということは色々言えるかもしれないけれども、

「誰か」ということに関しては、「あのお方だ」ということは名指しで言える。

その「誰か」と出会って、人生が変わったことは、事実。

そういう「私にとって出会いの意味」が問われるべきだと思うのです。

 

心の一番深いところというか、存在全体の意味。

個人的に呼びかけられている、ということ。

 

恋人と目を合わせて向き合う時、人は色々分析とか「これってどういうこと」「結局この体験ってこういうことでしょ」とかあまり考えないと思うのですが、

目の前の人に意識を全力で奪われるはずです。もしくは、気遣いをしたり、想いに興味関心を向けるはずです。

神様に関しても、もちろん全理性をあげて求めるし格闘もするのですが、一番大切なのは、つまり、全人格的をあげて向き合うということです。

 

もし、神が存在して、自分を知ってもらいたいと思うなら、対象化できる自然や宇宙のカラクリを通してだけでなく、ハートからハートへ、心の奥底に自分を打ち明けるように愛を伝えるはず。

恋人のことを「ちゃんと知る」ためには、対象として考察したりその人の属性やデータを収集するだけでは、やっぱり何かが抜け落ちていると思うのは私だけでしょうか。

その人のことをちゃんと知るためには、「もっと愛したい」と思うこと、どういうことにときめいて、どんなことが好きで、どんなことを大切にしていてに興味関心を持ち、語りかけ、聞くこと、すなわち対話すること、交わることを通して、「知って」いく。

 

もし、神が生きているなら、私の心の奥底になにがあるのかすべてを極めつくしておられる。

それでも、私は自分の心で自らを神に向かって「告白」する。

神の側も、私の心の深きところを通して、自らの愛を打ち明ける。

すべてをつくりだした大いなる意志は、自分を「私はある」(出エジプト3:14)と打ち明けます。原文のヘブライ語では、「エヒエー・アシェル・エヒエー」というのですが、

「ある」というよりも、「居る」というほうがぴったりだというのです。

つまり、「居るよ、居るよ」と人間に自分の存在を知らせようとする神。

「私は必ずお前と共に居る」(出エジプト3:12)

 

イエスは、この神に対して親しく、「アッバ」つまり、「パパ」と呼びかけていいんだよと、言いました。

神は、優しくて善い親であり、何でも話せる友人であり、見つめ合う恋人でもあります。

同時に、私たちは、他者を愛すること、隣人になることを要請されています。

 

人間が生きていく上で、「一番大切なこと」がきっとそこにはある。

一緒に居ることとか、分かち合うとか、助け合うこと、自由であること、心の奥底でつながること・・・。

 

一人ぼっちで、神についていろいろ考えていても、どうも袋小路になってしまうと思うのです。

ある種の強靭な精神は身につくかもしれませんが。

 

実際に、そうした神様を信じている人が集まって互いに助け合って、

しんどい思いをしている人を受け入れて、

しっかり共感し、つながり、心もものも分かち合って、

楽しくてうれしい、「ああ、幸せだなあ」と思える現場で、人は本当の自分に出会っていく。

すべての人が同じひとつの生命を生きながら、それぞれ世界に一つしかないユニークでかけがえのない自分としてお互いに生きる。

 

「神って本当にいるの?」と一人でグルグル考えていて、結局答えが全く分からなくなって、それを問うことも怖くて、この答えを東京のカリスマと呼ばれるある神父に聞きに行こうと決意して教会に行ったところ、彼は忙しい。

「ホームレスの食堂の手伝いして」と言われて、

初めて出会った教会の仲間と色々話しながら教会に集まったホームレスの皆さんにお茶やご飯を提供しているうちに、なんというか、「つながった」というあたたかい感覚があったんですね。

悩んでいたこと、聞かなくてもいいかな、と思いました。

もしくは、教会学校のキャンプをしている時、交わりがとても楽しく、夢中で、お互いに優しく心がつながる現場。

あるいは、幕屋でお互いに自分の抱えている悩みを本音で吐き出して、友のためにお互いに本気で祈る時、大きな愛が流れ込んでくるのを感じ、涙が止まらなくなる体験。

その時、「神って何」とか「神っているのかなあ」という質問をすることが野暮に思われる。

その必要がそもそもない、と思うのです。

泳いでいる最中の魚が他の魚に向かって「水って何か」と訊くようなものです。

だからといって、「ああ、神とはこれだ!」とハッキリ他人に納得いく形で言葉にできるとは思わないのですが。

 

ミスチルの「名もなき詩」に、

「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、気が付けばそこにあるもの」

 

 

とありますが、

きっと「神」のようなものも、同じじゃないかな。

きっとどんなよくできた「答え」も、現場や実体験と離れたら、結局「なるほど」にしかならない。

 

「神って何?」とか私たちは聞く必要がなくなる。

神を「概念的に知る」みたいなことはきっと永遠にできない。

問うとしたら、自分たちのよろこびに心打たれながら、「ああ、あなたは一体何者ですか?」と、存在の深淵に向かって「もっともっと出会いたいです」と呼びかけ、聴く。

だけど、いつか、その必要もなくなっていく。

気が付いたら、いつもそこにいてくれる。

ただ、いるだけ。もう言葉はいらない。

ただ、そこにいるだけを深く味わうこと。

 

結局、神というなにか考えられた想像上の形を一生懸命信じようとすると、なんだか的外れになっちゃう。

 

神が生きて働く場所はいつも具体的。

教会の中だけとか信じる者同士の間だけとは限らない。

本当に愛があってつながりあう場所、魂が響き合う場所にどこでもいつでもだれとでも。