●「私の神、私の神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)
●「渇く。」(ヨハネ19:28)
神に見捨てられた神。
神が信じられない、という時があります。
かくいう私も、今この文章を書きながら、
「こんな自分が聖書を語っていいのか」と恐れおののきながら、告白します。
自分など無価値で誰の役にも立てないと思うのです。
自分の心の中は空っぽで、神というものがよくわからないし、
イエス・キリストがやたらと遠く、まったく救いから遠く離れ見捨てられた気分になります。
いいえ、仮に私が神から呼ばれ目を付けられていたとしても、
「愛されているからこんな試練を与えられるのだ」と励まされたとしても、
「勘弁してくれ」と思いますし、
「もう、これ以上前には進めない」と思います。
自分の信仰が間違っていて、いつも断罪されているような気分になり恐れてばかりです。
自分の信仰が間違っているから、いつまでたっても変容できないのだ、いつまでたっても同じ悩みをグルグルと繰り返しているのだと。
誰にも会わずに、ひたすら逃げて逃げて閉じこもっていたい。
もう、すべてがどうでもいいや。
神というものから逃れて忘れて自由になれたらいいなと思います。
ものすごく一生懸命祈ったり、喜びに満ち溢れている人、
誘惑に負けず祈り続けられる人、素直に神を信じられる人、
そういう人たちを見て、「私はここにいるべき人間じゃない」「ついていけない」と激しい劣等感を感じます。
そんな自分を素直に告白できない。
一時期はこのあふれんばかりの喜びを告白せずにはいられなかった
信じている風に振る舞わなければならない。
自分から神から遠く隔たっていること。
正直そんな時もあります。
その時、「私の神」はどこにもいないのです。
私を見捨てて、「誰かの神」「あの人たちだけの神」になって、私には目もくれないのです。
「その神は、あなたたちにとってはありがたいものかもしれないけれど、私にとっては受け入れがたい」
「誰かの神」はそれを受け入れられない私にとって、重い重い重圧、応援という断罪となって、迫ってきます。
その神は私のことなど知らないのです。
「私の神」はどこかに行ってしまって、呼びかけてもやってこないのです。
すべてがまやかしに思える。
もしすべてが本物だったとしたら、私は信仰の篩に振り落とされた脱落者で、裁きの日には地獄か滅びが待っている。
イエスが「なぜ私をお見捨てになったのか」「渇く」と叫ばれたとき、
「ああ!この人も、いや、あなたも同じだったのですね!」と呼ばわりたくなりました。
それも、比べ物にならないほどの絶望の中で。
涙が止まらなくなります。
私は神が信じられません。必死に求めてきたつもりなのですが、見捨てられたような気持になることは何度もあります。
ナザレのイエスという人間は、「神の子」、「救い主」であると信じられていますし、このことを信じられれば「クリスチャン」というわけですが、その救い主の姿たるや私たちの理想や憧れなどとは全く程遠い、ボロ雑巾以下の扱いを受けて絶命したみじめな最期でした。
ただ、「人間になった神」であると信じられるこの男が、十字架の上でこう叫ぶとき、
とてもとても近く近く彼を感じるのです。
「見捨てられた神」だからこそ、見捨てられた人の気持ちが分かる。
しかし、彼は、死を待つだけのどん底のおいても、なお百パーセントの愛でありつづけます。
心を開いてくれた隣の死刑囚に対しては「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」といい、
ついてきた弟子に対して自分の母マリアをさして、「この人があなたのお母さんですからね。」という。
お弟子さんはマリアを家に迎え入れ、マリアはみんなのことを祈り、面倒を見て、互いにお世話しお世話され、血縁をこえたイエスファミリーというべき家族がそこから出来上がっていくのです。
人はどんなに孤独なときでも決して一人ではないのです。