これから書いていく記事は、発達障害や親子関係で辛い思いをしてきた人、
自分に生きている価値なんかないと思ってしまう方、
「聖書?」「キリスト教?」何それ、詳しく知らないけれど触れるのがはじめてという方、
別に特定の宗教を信じているわけじゃないけれど、
色々しんどいことがある、心の中になにか埋められない穴があって、ちょっと楽になりたいなあ、みたいな人にむけて書いているつもりです。
「説明」「知識」というよりも、想いを込めた「お手紙」を、
神父でも牧師でもない一信徒が、自分の人生の実感を通して、「あなた」に伝えたい。
別に、「キリスト教」という特定の宗教を信じなきゃいけない、というつもりはありませんし、
もし神様がいて、すべての存在をお創りになったのだったら
そもそも、「宗教」の枠組みにはまるんだろうか、
普遍的な、何教何宗関係なくすべての人に、
とりわけ、すごくしんどい思いをしている人、ひとりぼっちだと思っている人、居場所がない人、「もう自分なんか救われない」「神なんかいない、信じられない」と思っている人のところにこそ、優先して一緒に居て、「あなたの気持ちわかるよ」「大丈夫」と共に重荷を担っているのが神様なはずです。
そして、本当にあなたをいろんなとらわれや恐れから自由にして、本当に自分らしく生きる喜び。
いわゆる「宗教」「一神教」をこえた、透明な、存在している限りすべての人を無条件に包み込む、そういう特定の宗教に収まりきらない普遍的な誰もがそうだよねといいあえる
その意味で、「ゼロ神教」に近い「大いなる何か」を想定していただけたらと思います。
その方は無から有を愛の呼びかけによって生み出し、今も生きておられ、私たち一人一人を一人残らず自分の子どもとして大切に見て、支えています。
二千年と少し前にイスラエルのナザレに生まれたイエスは、その大いなる存在である方に対して、「天のパパ」「ママ」と親しく呼びかけていいのだ、と示しました。
イエスは、その見えないけれども慈しみ深い天の父である神が、具体的な形で地上に伸ばした手であり、「完全な神の子」です。
もし、神がいて地球や人類を愛で生み出したのなら、作りっぱなしにしてほおっておかないはずです。
ちゃんと生み出した者の責任として、「必ず救う」とアクションを起こすはずです。
一緒に居るだけで、安心できて、自分らしくいられる、自分が自分であることを喜ぶと同時に、相手が相手であることを喜び合え、「かけがえのない人」とその人の存在の奥に深い尊さや愛おしさを感じられる、そういう現場。
あるいは、もう誰も自分のことなんか分かってくれない、独りぼっちだ、誰も愛してくれない、何をしても心の空しさや寂しさを埋めることができない、そしてそれを誰も満たしてくれず、自分自身いかなる努力をしても焼け石に水という絶望的な状況の中に、突如として、無条件の大きな愛が大波のように流れ込んでくる状況。
電気のスイッチをパチンと押したら一瞬にして部屋全体が明るくなるように、
心の奥底、存在の全体に、神様がタッチしたら、自分にも誰にも動かすことのできない閉じていた心の重い重い扉のようなものが開いて、がーっと「自分の全存在がここまでして愛されている」という感覚が流れ込み、あふれてあふれて仕方がなくなり、涙が止まらなくなる。
そして、心の奥底の中に新しいいのちが流れ込んでくると、「え?あなた本当に同じ人なの」と思うくらい、根底から打って変わって、別人に・・・というよりも「本当の自分」になる、といった方が正しいかもしれません。
そこに「ああ、ここに今神さまが一緒に居てくれて実際に働いていてくれている」という実感が生まれるわけです。
「マジで神様生きてるな~!」「ああ!今も一緒に居てくれるんだ」と嬉しくて仕方がない。
好きな人と両思いになって告白して付き合えることになった時は、まさに「トップ・オブ・ザ・ワールド!」という感じで「私って世界一幸せな人間」と思いますよね(笑)
神様と出会うということは、神様から「ずっとあなたが大好きでした」「あなたの存在はあふれる愛ゆえに私が望んだ」と目を見つめながら告白されるということです。沢山いるうちのワンオブゼムのあなたではなく、かけがえのないあなた、世界にたった一人しかいないあなたとして。
その喜びが、存在の根底レベルで起こる。
そういうことを思うだけで、いや、ただ存在があるだけで、その存在の神秘に打たれて涙がボロボロあふれ出てくきて、「あー!神様」と叫びたくなるようなちょっと異常な事態になる(笑)
そうすると、この喜びを伝えたくて仕方がなくなる。
どーーーーーうしても、福音・・・つまり、あなたは愛されて望まれて存在しているんだよ、ということを伝えずにはおれない。
人を愛せずにはいられない。
あの人もこの人もみんなみんな尊いなあ、望まれて愛されて生まれてきたんだ、ああ、出逢えてよかったなあというそういう気持ちになる。
いや、本当にそういう現象はあるわけです。
そういうことが、いつもじゃないけれど、そういう「出会い」が一回あったら終わり、じゃなくて、小さく気が付かないレベルのものから、人生をひっくり返してしまうレベルのものまで何回も何回もある。
いいことばかりが続くわけじゃない。凹むこともある。
「なぜ?神様」「いるんだったら返事しろ!」と叫びたくなることもある。
落ち込むこともあるし、疲れ果てることもあるし、絶望して動けなくなってしまう時もある。
それでも、人は、神様に出会い続ける。
というよりも、そういうときにこそ、思いがけない形で向こうからやってくる。
「信じる」ということは、本当に生きているといろんなことがあるけれども、それでもなお、目には見えないけれどもこの世界をつくった「大いなる意志」は確かに働いていて、それは必ずいいものなんだ、というところに自分を投げ出していくこと。
恐れが出てきたら、勇気をもって愛の方向に舵を切るという決断なのだろうと思います。