●隣人をあなた自身のように愛せよ(ルカによる福音書10:27)
これを読んでいらっしゃる人で、「自分のために人を利用する事ばかり考えている」という方は少なめだと信じたい(笑)
どちらかというと、人の役に立ちたいと思っていると思います。
他人の気持ちをつい考えてしまって、いっぱいサービスして、優しくして・・・でも、自分のことが愛せず、認められず、いいところが周りから見てたくさんあるのに、「自分は本当は価値がないんじゃないか」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。
人の期待に応えなきゃ応えなきゃと思って、疲れ果てる。
ぼんやりして集中できずうっかりミスをしてしまい怒られたりクレームを受ける。
そして激しく落ち込んで、もう、自分の存在価値がないように感じる。
何か新しいことに挑戦して一歩を踏み出そうとすると、
頭の中では、ずっと過去の失敗や傷ついたり見捨てられた記憶がリピートし、フリーズして動けなくなる。
誰も分かってくれない、受け止めてくれない、と思う。
そんな自分が嫌でさらに抑えつけ、前に進めなくなる。
神は、自分を愛するように言います。
無条件にすべての人を愛すること。自分自身も含めて。
優しいあなたは人のことにたくさん気を遣って優しくしていると思います。
人にたくさんありがとうを言っていると思います。
でも、ちゃんと自分にありがとうを伝えていますか?
自分を愛そうとすると、
「そんなの絶対無理ーー!」と心にブロックがありませんか?
そのブロックを「罪」というのでしょう。
罪とは、心の「的外れ」状態のこと。
完全で愛である神と心がつながれないで、なにか邪魔している、覆われているものがある。
神はどんなあなたでも無条件で愛してくださっているのに、どうも私たちの心の奥底にはその愛を信じられない、拒絶したい、許せないと思い、その愛が迫ってくるのを恐れる習性があるみたいです。
だから、「罪」というと「裁き」「責められる」こととセットで考えてしまう。怖い。どうしようもない。だから認めたくない。ごまかそうとする。
本当の意味で自分自身を愛せないから、自分に対して不都合な人をジャッジすることをやめられず、悪口を言ってしまったり、人に言われたことでいつまでも傷ついたりする。
傷ついた心は、それを満たしてくれるロマンを求める。自分を本当に受け入れて求めてくれる相手を現実に探し求め、その理想像に合致する人が現われたら好きで好きでたまらなくなる。だけど、それは一時的な関係で幻想でしかないと知る。次第に、依存的な関係になる。とっかえひっかえ新しい相手を見つけて期待してがっかりして、と繰り返してしまう。
でも心には一抹の空しさや満たされなさばかりが残る。
清く正しく美しい神は、そんな自分にとって都合が悪い。
真面目に、真面目に、ハッピーに満ち溢れた自分で居なきゃいけないのに、どうもそうあらねばいけないのがきつい。
解っていても、どうしても無理。
神さまがいるのは、そういう自分自身を愛せないし、本当の意味で人も愛せない私たちのためなんじゃないでしょうか。
人間が自分で清く正しくなれるんだったら、清く正しい神様はいらない。
そういう「愛を受け入れられない・愛せないメンタルブロック」から解放するためにイエス様は来ました。
自分で自分を受け入れられない時でも神様は「大丈夫」「安心しなさい」「もう自分を責めなくてもいいよ」と無条件に語りかけてくださっているとしたらどうでしょう。
ともかく、毎日一ミリずつでもいいので、
十字を切って、
「神はこんな私を無条件に愛している」
「神は私のすべてを許している」
と受け入れる。
そして、ちゃんと自分自身を愛して、感謝を伝える。
自分を愛することは、それは、自分のためでもあるし、神様のためでもあります。
毎日、自分にありがとう。
細かいこと、なんでもいいです。
トイレに行った時、ありがとう。
つめさんありがとう。
心臓さんありがとう。
これを読んでくれている目さんありがとう。
歩けたら足さんありがとう。
はじめはそれが難しいかもしれません。
「罪」が全力で抵抗してきて、「そんなの無理!」とザワザワして諦めさせようとするかもしれません。
でも大丈夫。
一ミリ一ミリでもいいので、自分を愛していく、愛を受け入れる習慣をつくっていく。
自分を受容し、ねぎらい、愛することができるようになると、
必ず、あなたの周りで起こる現象が変わってきます。