どうしていいか分からない時は | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

●「まず、神の国とその義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えてあなた方に与えられるから。

だから、明日の事は悩まないで。

明日のことは明日自らが思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なんだよ。」

(マタイ6:33~34)

 

先行き不安でこれからどうしたらいいか分からない、

体調を崩して働けない。

貯金もない。

でも、働いても働いても暮らしは良くならず、生きるために働いているのか、金のために生きているのかわからない。

 

そういう時は、空や花や鳥を観察してごらんなさい。

 

 

働いていますか?

でもちゃんとその日暮らしで、悩むこともなく、神様が生かしてくださっている。

人間の方がはるかに優れた者なんですから、

一旦「人間モノサシ」捨てて、「神様視点」で生きてみませんか。

「まあ、なんとかなる。どうにかなる。」

こっちの方が、本当です。

「大丈夫」

こっちの方が真理です。

「もうダメだ。」

これは人間の脳のつくりだした錯覚です。

不安や心配事の9割は起こらないといいます。

恐れや不安は神様がつくってくださった自分を守るための防衛機制なのですが、

行き過ぎちゃうと、それが「本当の私」に変わって主導権を握り始める。

 

でね、生きていく上で、一番大切にしたいものは何なのか、ということです。

 

神の国、神の義って何なのかそれぞれ考えて欲しいんですけれど、

神さまの望む世界ってどんなんですか?

って。

 

そっちの方向に舵を切って、生きるようになれば、必要なものってちゃんとやってくるし、そうじゃないとおかしい。

 

ていうか、神の国って、それこそ人類みんなが求めているものだから、

それに対しては、必ず協力者が現われざるを得ない。

自分一人が生きていくことしか考えていないから、生きるのがしんどい。

だから、本気で「神の国」を目指してみませんかということ。神主体のアクションに人間の側で自由に協力していく。

 

一部の人だけが幸せで誰かが一人で泣いていたら、それは神の国じゃない。

自分だけ偉い思いや特別な思いをして、人を従えるようになったり、搾取するようなこともそれは違う。(いつも誘惑というものはあるけれども。)

信じる人間や特定の集団の人間だけ特権的に救われて、他の人たちは「かわいそうな人たち」でいいのかな。

 

一人一人の人が、神様の子としての尊厳と自由を認められて、

お互いに認め合って、分かち合っている世界。

 

私が私であれていい。

あなたはあなたでいていい。

目の前の一人一人に神の子としての尊厳を見て、その人がその人であることを互いに喜び合えること。

愛し、愛されている現場。

 

特定の誰かだけが行ける天国とかじゃなくて、

過去のことに支配されることもなく、まだ来ていない明日のことで思い煩うこともない。

安心して、いま・ここを夢中で生きている。

何教とか何人とかそういうこと関係なく、

必要なものは、みんなすべて分かち合っていて、「俺の物」と言って、比較し合って苦しむこともない。

すべての人はみな、同じ屋根の下の一つの家族。

 

そういう一見夢物語みたいなビジョンって、私たち人類のイメージの中に組み込まれていて、

たぶんそれは、神様が人間の心の奥底に「本当の望み」として植え付けているんじゃないかなあ。

神さまは何かと言ったら愛。

なんでこの世界をつくったのかというと、

溢れる愛を分かち合うため。

 

すべてをつくられたまことの親と、その親の地球上に伸ばした手である独り子と、親と子を結ぶ愛の心の「交わり」こそが神の正体。

私たちは、その交わりと愛に似せて作られている。

 

でね、不思議なことに、そういうことを本気で目指してやっていくと、

それに必要なものって向こうからやってくる。

 

というか、そもそも、人類って二百万年もの間、そういう生活をしていたのが当たり前だったのであって。

毎日がキャンプとバーベキューと、遊びまわり、それがそのまま学ぶことにつながり、火を囲んで語り合い、物も心も分かち合い、子育ても共同保育で、いっしょにご飯。

今でもそういう暮らしをしている部族にはストレスがほとんどないそうです。

 

どっちかというとここ数千年の都市文明で、人が所有や貧富の格差に縛られて生きている方がかなり不自然なのです。

研究でちゃんとわかってることなんだけれども、もともと、人は戦争をするようにはできておりません。

奪い合うようにはできておりません。

分かち合い助け合うようになっている。

 

だけど、もう都市文明の圧力とか、自分たちの中にある欲望によって、自力で戻ることがすごく難しくなっている。

心が痛みで叫んでいる。

「こんなのおかしいよ!」って。

 

イエスさまやお釈迦様が出てきた時代も、不思議と人類の都市文明が成熟して貧富の格差や差別が際立ってきた時代でした。

どっちかというと、支配機構と結びついた宗教に対して異議を唱えた側面は大きかったんじゃないかな。

 

でもじゃあ、縄文時代や有史以前に戻れとなると、そんなことをしたら恐ろしいことになる。実際にそういうパラダイスを国家レベルでつくろうとしてこの世の地獄が出現したけれど。

 

目指すところは、「楽園の高次の回復」。

文明を滅ぼす必要はないけれども、文明の先にそういうお互いの自由や尊厳を認め合い分かち合っていくような世界の方向にベクトルを向けていくこと。