自分の十字架を背負う | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

●わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、日々自分の十字架を担って、私に従いなさい。

(ルカ9:23~24)

 

自分の十字架を担って、だって。

ううっ、やだなあと思う。

そんなのなければいいと思う。

自分自身から逃げない。

 

これは実は「一番楽な道」「幸せになれる道」だと思うのです。

 

だって、イエス様も言ってるじゃん。

「私の(くびき)は負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11:30)っつって。

人生の重荷を軽くする方法ですよね。

頑張って「自分の十字架を乗り越えよう」

だったらどうですか?

 

発達障害、がんばって努力して、症状をなくして健常者と同じようになったらハッピーになれる。おめでとう。

精神障害、うつは、前向きな考え方を心掛けて、辛さに意識を向けず、根性で前に進んでいく。

どうすか?

それで仮に乗り越えられたら・・・どうすか?

どうしてもできない人は、

「あいつだってできたんだから、お前の努力が足りない」っつって、しんどくなっちゃう。

「やり方が間違っている」と永遠にいろんな人からああだこうだと言われて、疲れ果ててしまう。

そして、自分を余計に責めてしまう。

 

あるいは、「そんな自分の重い十字架なんかもういいかげん捨ててしまおう」だったら?

過去の辛い出来事にとらわれず、前を向いて生きる。

とても素敵なことです。

ですが、捨てよう捨てようと思っても、捨てたと決意しても、また再び十字架は戻ってくる。

必死に抵抗する、

見て見ないふりをする。

 

頑張って頑張って、幸せになろうとして、何かが満たされないまま、ふと心が空しくなり、頭が真っ白になり、倒れそうになる。

誰にも自分の十字架の事なんて打ち明けられない。

それでも前に進んで行かなくちゃいけないから、押し込めて目の前のことを進めていく。

わけも分からず疲れ果てて、涙があふれて止まらなくなる。そのうち、感情すらも枯渇してきて、凍り付いたようになる。

これがずっとずっと続く。

 

これが要するに、「自分の命を救おうとする」

ということで、しんどい。

結局、乗り越えられなくて、絶望しちゃう。

結局自分のことしか考えていない。

自分に対してもあれはダメだ、こうだからダメなんだと、厳しくなるし、人のことに対してもいちいちそれは違うあれは違うとジャッジし始める。

 

大切なことは、「一人で抱え込まないこと」なのです。

そして、誰かと共感して、一人じゃないよと、言われ、伝えることなのです。

そのためには、「ありのままの私」を受け入れること。

障害や生きづらさを武器にしちゃう。

愛にしていくこと。

これは自分自身しかできない。

 

起こる出来事のすべては、導かれており、自分を成長させるために起こっています。

このことを覚悟をもって受け入れることで起こる出来事ががらりと変わってきます。

自分の人生を自分で引き受けること。正面から受容すること。

 

自分の十字架をしっかり担うことで

イエス様がそれを軽くしてくださる。

同時に、みんなで一緒に担ぐ、ということでもあるし、

誰かどこかで苦しんでいる人の人生の重荷を一緒に担いであげているということでもあるのです。

自分の十字架を担う、ということは同時に、それがどっしりと担われているということ。

 

十字架はもし、それが愛によって担われるのであれば、軽くなるばかりでなく、素晴らしい恵みが生み出されていくものなのです。

 

私自身も、じぶんの生きづらさや障害を無視して、頑張って頑張って、前向きな思考さえあれば成功できる、とやっていたわけですが、

「もう、ダメ」となり、

現実を突きつけられて、それを受容することにしました。

そこからです。

障害年金をいただいたり、

自分に合った職場と出会ったり、

同じ想いをした人の助けになったりつながれたりし始めたのは。

 

恥ずかしいと思っていたところが、

実は愛すべきところなのだと気が付く。

 

自分の痛みや苦しみを通して、同じように苦しむ人と連帯していく。

「いろいろしんどいことあったけれど、よかったなあ」となっていく。

 

自分一人の十字架でなく、

そこから歓びが始まっていくというような、愛につながっている十字架。