●「では、行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)
カール・ヒルティは『幸福論』でこう言います。
「初めに真理として認識したわずかなものをすぐさま実行に移すこと。
これがより大きな認識に到達する唯一の道である。
まず最初に、一切を理解してその後にそれに従って初めて実行しようという人は、結局始めないことになる」
いいことを聞いたら、小さなことでも即実行することが大事なのです。
やってみて初めて分かること、肌感覚として見えてくることは何よりも学びになります。
「永遠の生命を得るためにはどうすればいいですか」という律法学者(宗教家)の質問に対して、
イエスは「律法にはどう書いてありますか?」と質問に質問で返します。
「全身全霊であなたの神を愛すること。隣人を自分のように愛すること。」
テストでこう答えたら、「正解」となるでしょう。
「困っている人がいたら親切にしよう」ということは、
じゃあ、今から小さな親切を誰かにできるか、そういう想いをもっていざという時にぱっと動けるように日々を備えておくことでもあると思うのです。
家に帰る途中、
小学生の女の子たちが、川にボールを落として取れなくなっていたので、
足を水につけて取ってあげる。
「ありがとうございまーす」を背中に受けつつそのままササっと手を振りながら帰る。
ものすごく気持ちがいい。
基本的に自己陶冶というのは、人助けをするためにないと、近寄りがたいよね、と思います。
「自分に厳しく、人に優しく」という言葉がありますが、
自分に厳しい人はたいがい人にも厳しい(笑)
自分に優しく、人にも優しく。
結局、近くの人としっかりつながること。ちゃんと「友達」「家族」になること。
でもね、「隣人になる」ということは、リスクも伴います。
絆は「きず」も含みます。
学生時代、
ホームレスの方を家にあげて寝床と食事を提供したら、
大家さんから、「それはやめてください」と言われたり、
教職やってたとき、
問題を抱えた生徒を支えよう支えようとして、相互依存的な関係になってしまい、自分のキャパシティがなくなってしまい、ブチ切れて退職してしまったことも。
教室で独りぼっちな生徒二人組に褒めて声を掛けたら、ずっと職員室の前にいて、そのまま夜の街を終電をなくすまでついていき、四六時中電話がかかってきて、
ブロックしたら、最終的にお巡りさんから連絡が来たり。
晴佐久神父の講演会で入場料の五百円を返金され、
「これで誰かに純粋贈与をしてください」と言われ、
学校の外で、帰りながら、発達障害の兄弟の話や将来の夢をじっくり聞いて、
その五百円でコンビニでちょっとおごってあげたら、「セクハラ」ということでクビになったり。
真夜中に電話がかかってきて、ブチ切れられながら、自分の悲惨な身の上の不幸話を語られることもあるわけです。
そうした現場を前に無力感、深く傷つくこと、見捨てたり裏切らざるを得なかったこと、罪の意識にさいなまれること、誰にも話せない、打ち明けられない、
自分など生きている価値がなくて、誰にも必要とされておらず、死んでしまいたいということもありました。
それでも、関わらずに通り過ぎるよりはマシでした。
隣人に「なってあげた」と思うことが、実は上から目線で、実のところ全く自分のかけた欲望を満たすためだけにやっていたことであると知ります。
「私が」やろうとしていたのです。
実は自分こそが、強盗に置き去りにされて自分では動けなくなって、助けを求めざるを得なかった旅人だったと気が付きます。
実行してみて、挫折して、初めてわかる自分の姿があります。
イエスは私にとってはまだ異邦人、つまり「どっか遠くの別のあいつ」でした。
自分が倒れて動けなくなっていたところに、彼は、隣人、すなわち友達となって、私の姿に胸を痛め、駆け寄り、抱き起し、
そのかけがえのない生命まで捨て与えてくださったのでした。
このことを書きながら、あふれる涙を抑えきれずにおります。
「永遠の生命」って、自分一人だけとか特定の選ばれし集団で修行して、一生懸命祈って、宇宙の神秘を垣間見て、「あなただけは他の人とは違って偉かったね」と神様に認められてほめられることとは違うような気がするのです。
ちゃんと、深いところで、愛とつながること。それは同時に、人と人とがちゃんとつながるということ。
お互いに、地上での人生はあっという間に過ぎ去り肉体は灰になっていきます。
ですが、もし死んでも死なない永遠の生命があるとしたら、それはきっと愛のうちにある。
無限の物理空間の中に捨て置かれたような人間存在を考えると寒気がします。
でも、愛の中でのみーー実際に愛するということ、愛を受けるという現場の中でのみ、人間は永遠を垣間見、そこに神の天地創造の秘密を見るのです。