神様が養ってくださっている | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

マタイ6:25~34

 

 

「あの空はどうして青い」♪

あのそらはどうして青いのでしょう

あの雲はどうして白いのでしょう

あの鳥はどうして飛べるのでしょう

この花はどうして咲いたのでしょう

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた

 

この草はどうして緑色で

この犬はどうしてまだらなのでしょう

この猫はどうして目が光るの

この虫はどうして羽ならすの

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた♪

 

 

子供向けの歌で、内容は幼稚園児でもわかるんですけれども、このシンプルな内容に、信仰の本質というか、限りない安心を覚えて涙があふれます。

この自然を通して神様は、「私はある!」(エヒエー・アシェル・エヒエー)と語りかけてくださっている。

ああ、世界はよくみるとこんなに美しいんだ!神が完全なようにこんなに世界は完全なんだと涙せずにはいられません。

すべてが神様の語りかけ、みことばによって存在している。

存在しているということは、そのまま神様が私たちを呼んでくださっているということ。

絶えず、神様はあらゆる存在に「良し」(トヴ)と呼びかけてくださっている。

 

 

 

動けなくなると、今まで頑張って積み上げてきたものが、結局何の価値もないものにしか思えなくなるし、

「これからどうするんだ」

といっても、先のことが考えられない。

「いつになったら、健康になるのだろう。

いつになったら、〈普通〉になれるのだろう。」

 

 

自分が他人からどう評価されるか、受け入れてもらえるか、認めてもらえるか、

ということに関して過度なほどに過敏になって、自分の本音を吐き出せない。

「正解」というものをつい求めてしまう。

 

心の中で、

「そんなことでどうする」「そんな信仰じゃ駄目だ」「もっと祈って突破しなきゃ」

「明るく明るく考えて前に進まなきゃ」

と思うと、そうできない自分に絶望する。

 

そんな私にイエスは優しく語りかけてきます。

「思い煩ってはならない」

信仰の薄いものよ、もっと神様の完全な摂理に目を向けて信頼しなさい。

「明日のことは思い煩ってはいけない。

明日のことは明日が思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なのだ。」

と。

 

天の父は、私たちに必要なものを知っている、と言います。

 

聖書のこの箇所を繰り返し読んで、心に平安が訪れたか分かりません。

「人間社会のモノサシ」という偶像に苦しんでいる私の中に、神様ご自身がやってこられて、「恐れることはない」と重荷を軽くしてくださる。

「霊の乞食」(マタイ5:3)である私に「幸いなるかな!」と宣言してくださる。

 

「労苦するもの、重荷を背負うもの

休ませてあげよう。

私の軛を受け入れ、私に学びなさい。

そうしたら魂は平安を得る。」

と。

 

公園で散策をしながら、本当に涙があふれて仕方がないんですよね。

ああ、神様!と。

 

空の青、雲、木々や野の草花

主さまのご臨在を感じます。

 

【創世記1:1】

「初めに、神は天と地を創造された。

地はむなしく何もなかった。

闇が深淵の上にあり、神のが水の上を覆うように舞っていた。

神は仰せになった、「光あれ」。すると光があった。

神はその光をみて善しとされた。」

 

あるということは、「よい」ということ。

神さまが、「よし」といっているから、私たちと世界はあるんだ。

世界は「よい」!

私たちの存在はその根源において「よい」ものとして作られている。

今私たちがここにいきていることはみんな、

片ときも離れず、神が「よし」と言ってくださっている。

どんな自分、どんな世界であっても、その根源には神の「よし」があるのです。

 

うちの紘ちゃんですが、最近「いやいや期」で、自分でも「こうちゃんいやいや期」という(笑)

子どもがどれだけ、「いや」と言っても、親は、「よし、よし」と語りかける。

人生たとえどれだけの苦難があり、悪に思えても、それでも、すべてに善しといって絶対的な、永遠の肯定を宣言している。

この「善し」という語りかけーーすなわちロゴスが、肉(人間)になって私たちのうちに幕屋を張られ、共に居てくださる。

 

【ヨハネ1:1~9、14】

「初めにことば(ロゴス)があった。

ことばは神と共にあった。

ことばは神であった。

ことばは初めに神とともにあった。

すべてのものは、ことばによってできた。

できたもので、ことばによらずにできたものは何一つなかった。

 

ことばは肉(人間)となり、われわれの間に住むようになった(幕屋を張った)。」

 

アブラハム・へシェル『人間を探し求める神』

・「自然神学」

時計をみたら、それが偶然にできたとは誰も思わない。

ちゃんとそれを意図をもってつくりだした職人がいる。

宇宙のつくりや、素粒子の構造は相似形になっている。

凄い速度で回りながら、秩序をもって動いている。

宇宙全体が時計とは比較にならないほどの秩序を持っている。

理性的に考えて、それをつくりだした大きな意志があることは推し量って知ることができる。

つまり、私たちと世界をつくったデザイナーがいるのだと。

 

カトリックの入門講座でや教会学校ではそう教えます。

理性によってもある程度までは不完全に神を知ることができる。

 

量子力学。

先日、仏教の花祭りに量子力学のお話。松村大輔さんという東京大学で物理学を専攻し、現在塾講師をされている方。

アインシュタインは現代物理学と仏教の近さについて語っていた。

素粒子はなにもないところからぽっとでてきて、またぽっと消える。

物質の究極の形は、太さのない弦十一次元を使って振動している。

「ゼロポイントフィールド」仮説があって、

宇宙が出来てから、起こったすべての情報がホログラム式に記憶されている。

 

すべては、ゼロポイントから生まれ、世界という形をとり、またゼロポイントに戻っていく。

ゼロポイントフィールドは、時空を超越しながら、いたるところに折りたたまれるように存在している。

 

人間も素粒子レベルで見ると、スッカスカの電子雲。

私たちの想いや感情もバイオフォトン。

バイオフォトンの寿命は無限。

肉体は消えても、生命データはゼロポイントフィールドに移行するだけ。

私たちはみんな素粒子レベルでみると、ゼロポイントでみんな「ひとつ」につながっている。

宇宙に充満している生命と、私たち一人一人を動かしている生命は同じ。

 

最新の科学というものが、ほとんど宗教の世界に近接していることに感動を禁じえません。

松村さんにキリスト者の立場でお手紙を差し上げました。

 

しかし、アブラハム・へシェル博士は、神の前に更に深く問いかけます。

 

この見解の持つ欠点は、時計およびすべての実在(リアリティ)を当然のこととしていることにある。

究極的な問題は、それは如何にして存在するようになったかだけでなく、それがそのように存在するのはどうしてか、ということである。

問題はさらに、質問の実体だけでなくて、その質問を尋ねる行為にまで及ぶのである。」

 

私たちは、時計という確実な出発点として、単純に、誰がこれを存在させたか?と尋ねるわけにはいかない。

時計自体が神秘ではないだろうか。

私が時計を認め、その目的(デザイン)を理解できるという行為が、」何と理解しがたい事実ではなかろうか?

 

世界に対する人間の究極的な驚きへの回答はこの世の中にはない。

「これらをつくったのは誰か」という質問は、原因や力を引き合いに出しても答えることはできない。

世界の中には神の名に値するものは何もない。

世界は神秘であり、疑問であって、答えではない。

 

目的論よりも創造の神秘。

デザイナーや偉大な知能の持ち主よりは神秘を超越する神。

この御方に関係づけられた時、現世が意味を獲得する神―――これらが宗教的問題に対して適合する答えである。

 

哲学者にとって、善の観念は至上究極の観念

ユダヤ教にとっては善の観念はビリから二番目の問題。

聖なる者なくして、善は存在しえない。

善は底辺であり、聖が頂点。

 

「ある」ということ!

「世界が存在する」ということ!

そして、この私がこう問いかけることの神秘!

こうして、ただ存在することの神秘の前に立ち尽くすだけで、「ああ神様」と

彼は言います。

「神は人を尋ね探している、人も神を求めよ。」と。

神と人の出会いは、卒啄同時の出来事なのです。

 

日本における神道においても、

何よりも先行されるのは「神との対面」である。

人間的思考の枠組みの中に自然を位置付けその自然の中に神が現われるのではなく、

自然よりも先なる方が自然の中で私に顕れるのです。

世界、人間から切り離して神だけを体験することはできません。神の直接体験のなかには宇宙も天地も山も海も人間も動物も植物も黄泉もすべてのものが神を源として含まれているものなのです。

キリスト者は自然の中の神体験を神道から大いに学ぶべきだと思います。そうしなければキリストがいのちをかけてもたらした道は日本人の血となり肉とならないでしょう。

 

イエスは言います。一番に、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えてあなた方に与えられる。

迷ったとき、どうしていいか分からない時、まず求めなければいけないことがそれだと思うのです。

 

閉じこもって、「神様自分の問題をどうにかしてください」だけじゃいけないと思うのです。

一教派、一グループのうちに特権的に閉じこもっていることは、イエス様の望むことではないでしょう。

真理から遠いのは、この世には永遠の都はないと思って、地上での勤めをないがしろにして注意を怠る人です。

告白するのと同じ信仰で、神様から呼び出されたことの崇高さを示し、それが透けてみるほどにすべきなのです。

職場や、日々生きる現場、飲み会でもキリストを携えて、

一人一人の存在の奥に神の似姿を見る。特に苦しんでいる人のうちにキリストがいる。

そうするとたまりませんよ。

「You are loved.」と宣言する。

「宗教」を伝えるのではなく、愛を伝える。

イエスが直接天から声を響かせることはできない。これをできるのは、キリストに触れて救われた私たち人間だけ。

あとは、キリストが働く。

 

八紘一宇。すべての人が同じ屋根の中で一つの家族として互いに助け合ってやっていく世界。

 

「ともにあった」「私たちのうちに」

神さまは一緒にいたいんです。

私たちと共に居たい。

十字架の苦しみや死も一緒に分かち合いたい。

 

いつも一緒に居てくださる神様!

キリストは生きておられ、私たちの間で働かれ、私たちみなをいのちで満たそうとしておられます。

キリストは生きておられます。そして、私たちに生きる者であって欲しいと願っています。