神の言葉や教えの実態は、宗教の教えと異なる性質のものです。
人の教えは人を疲れさせ、頑張らせ、偽の目標を生きさせ、
人を人の奴隷にします。
でも神の言葉は人を生かす!と書かれています。
このブログを2013年3月から書き始めて、振り返ると、11年になります。
私がメシアに出会って以来初めて、ヘブライ語聖書を、直接ヘブライ言語から、そこに書かれている言葉の意味通りを学ぶ機会を与えられたのが、2018年でした。
その時まで、ヘブライ聖書、原典聖書に何が書いてあるのか、
アメリカ、ヨーロッパ、その他海外に住んでいても、そのような内容を聞く、学ぶ、教えてもらえる機会は、ただの1度もありませんでした。
有名なメガチャーチなる場所に行き、その場所では、聖書を最初から最後まで読むようなことを教えている場所でしたが、それでも、今学んでいるようなことは1つも教えられませんでした。
もちろん、クリスチャンの群れは、良い人々、良いフェローシップ、励ましや助けあう仲間たちでした。
でもそこで、教えられたのは、西洋宗教、西洋神学、人の思想を通して語る翻訳聖書の解説内容であり、日曜礼拝、クリスマス、
イースターを祝い、聖書に記された、イエシュアや弟子や、神が伝える教えや記念日を祝うこととは、関係のない教えばかりでした。
だから、聖書に書いてある意味が、よく見えませんでした。
普通、クリスチャンが聖書に書かれている「祭り」と読んで、
即座に、そこに書かれているのが、「過越」や「仮庵の祭り」の出来事を話している、それらがどのように重要な意味があり書かれているのか、意味が見えない、繋がらない、理解できないのが普通でしょう。
私は、イエシュアが「過越の祭り」で処刑されて、復活された
意味さえ、理解できていませんでした。その祭りの深い意味など一ミリたりとも知る由もないまま、ただ字面だけを読んでいた。本当に、無知でした。
古い箇所はユダヤ教、新しい箇所は、キリスト教などと、クリスチャンの世界では教えていますが、そんな宗教の教えは、聖書には記されていないことを、覚えておいてください。
〜教とは、イズムであり、人の思想が、神の教えに混じった宗教のこと、聖書=神の言葉ではないのです。
イエシュアは、復活以降の新しい教えを教えていた、ジーザスを知った人たち=主に異邦人達が、最新の新しい福音を聞いて世界へ伝えるのだと、私もそう思っていました。
でも、聖書に書かれていたことは、異邦人の巷で語られている
教えとは違うことを、原典聖書を学び、聖書に書かれている事実から発見できます。
私が聞いていた西洋宗教神学を通して解説する、聖書と、聖書に実際に書かれていることの意味、内容が違うことが書かれています。それらに対して、どうしても違和感がありました。
真実ではないことを、真実のことに語り続けられてしまっていることに、気がついたら承認できないでしょう。クリスチャンが
進化論を語り続けられないのと、同じ感覚です。
認知的不協和というものです。
嘘と知りながら、真実だと語れないでしょう。真実が分かれば。
真実ではないことが、真実であると、大衆に大声で主流に語り続けていることに対して、聖書に書かれている真実を発信しないとならないと思い、ブログを書くことを始めました。
本当いやですよ。気分的には。なぜなら、大衆ではないからです。反発買うし、異端?と思われるから。
どうやってうまく、この聖書に対する誤解を解くために、聖書の事実から伝えようか?多くの聖書箇所が、書かれていもいない意味で、曲げられて伝えられているからです。
異端とは、聖書ではない教えのことなのに、異端の教えが、聖書だと語られてしまっているのが、現状なのです。
全部が全部、聖書からズレた教えをクリスチャンの世界で語っているのではないです。
でも聖書の重要な要、土台、根本が揺るがされた教えを土台に、語られているのです。神の言葉を揺るがし、曲げて、破壊している砂の上に建てた家を語っているからです。聖書は、どの箇所も
100%モーセの五書だけを語っているのに、それが見えてこないでしょう?
でも、本物=聖書に書かれた事実だけに戻る!このようなことは、今世界中で起きているのです。
よく考えてみてください。どうして聖書に戻ろう!というのが
悪いことと考えるのか?神の言葉に根付いて生きるのが、どうして悪い律法主義なのか?それは、人の神の言葉に対するアプローチや意識がズレたら、それはずれていますが、神の言葉は絶対であり、悪いなんてあり得ない!神の言葉は完全であり、トヴであると、神が伝えているからです。
聖書に本当は何と書いてあるのか、再検討しなくてはならないのに、律法に戻るのか〜などという、人の教え、声がものすごく大きいのです。この声、スローガンは、2世紀に遡り、出た声なのです。人間の教え!!!神の言葉、教えではない!
宗教は要らないのです。必要なのは、純粋な神の言葉であり、
神が教える人間の生き方、イエシュアの生き方なのです。
クリスチャンも聞くでしょう。信じたらユダヤ的なことやめなさい!律法に戻るのか〜!と。それが中世のユダヤ人に対しての迫害でもありましたが、それは、2世紀の西洋人、西洋教父たちが言い出した、神の言葉を捨てよ!終了!という教えが起源なのです。十字架に神の言葉がつけられて滅ぼされた?聖書とは真逆な教えを平気で語っているのです。神=言葉と書いてある意味を
理解していないからです。
神の言葉を否定するのは、神に反する究極の罪=恐ろしい教えだと気がついてください。人間がどうして神に成り替わり、神の言葉を捨てよと言うのか?この声はサタンから来たもの以外にないからです。神は人に、瞳の如く、神の言葉をガードして生きよ!と教えているからです。
神の言葉、教えは、人の命、生き方、聖別をガードするものだからです。
それよりも、何よりも、ヘブライ語聖書に書かれている中身が
余りにも素晴らしく、麗しく、奥深く、翻訳では決して見えない世界が書かれている、その感動がまず最初でした。
この感動を伝えたい!聖書には、すごいことが書かれている!!
いくつもの外国語を話す人がいますが、他の言語を知ると、その言語で語る言葉を、直接日本語や他の言語に訳すのは、無理、
意味が通じない出てこないということが分かります。
それと同じで、聖書翻訳にも壁があります。バベルの塔で、言語が分かれた代償で、隔ての壁があるのです。でも、どの言語の中にも、ヘブライ語で書かれたことを説明できる言葉や、その意味を解説して説明する言葉があり、解説できるのです。
そういう紐解きや解説が本当に必要なのです。
そのような正しい情報がないまま、聖書を読んでいると、聖書に書かれている意味が、見えてこない、翻訳者が正しく解説できていないから、聖書に書かれている内容を勘違いしてしまうのです。
そして、異邦人の世界には、神の言葉が神ご自身であり、絶対に変化しないと神が伝えているのに、そのような認識がゼロです。
なぜ、ゼロと言うのか?それは、聖書は1つ、絶対で完全と言いながら、同時に聖書は、前後別の教えが書かれている、神の言葉が変化した、終了したと言い、聖書を勘違いした解説を教えられて、人が考えついた間違った聖書に対する概念を、刷り込まれ続けていることに、全く気がついていないからです。聖書を教える人が、それらのことに気がついていないから、それが問題なのです。
だから、教える人は多大に責任を負い、誰でも教師になってはいけない、それは、人を誤りの教えに導くことをしてしまう、それが教師だからです。ヤコブ3:1
私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
神の言葉に対して、一点一画でも否定するような教えをする
これは、死に値する罪であり言い逃れがないからでしょう。
異邦人は神の言葉に対する態度、意識が軽すぎるのです。
元が異教徒、異教神の国に先祖代々育ち、イスラエルの神、神の言葉契約から遠く離れた民だったからです。
さて、礼拝という言葉もそうでした。キリスト教、カトリックの
宗教文化の中で編み出されたものが、礼拝と考えますが、聖書には、私達が考えるようなことが礼拝とは書かれていません。
「ひれ伏す、身をかがめる」という言葉で表されている通りに、神が神である本来の実態、存在、位置=最高の権威であることを、認める行為、神の前に人が神に造られたものであり、神より低いものであることを認めること。
これが、へりくだりの本当の意味です。だから、人間が神の言葉
教えに対して、物申し、まして、歪める、変形させる、終了だ
無用だという発言、行動は、神に対しての礼拝〜ひれ伏すこととは、真逆な身勝手な態度、行動であることは、聖書に書かれた事実を知れば、理解できるのです。
だから、翻訳だけ読んで、現代の宗教が作り出した概念で考えていたら、見えてこないことが分かると思います。
人間関係の中でも、体験できますが、人が誰かから尊重されていると分かるのは、相手が自分の言ったことを、その通りに真摯に
受け止めて、自分が言った通り、その通りに行動してくれることで分かります。
自分の夫が、子供が、自分の言うことを「はいはい」と聞きながら、自分が伝えたことを、無視して、関係ないこと、又は逆のことをされたら、どう思いますか?蔑ろにされている、自分の言葉を軽くみて、重要視などしていない、果ては私をバカにしてるの?と思いませんか?
神の言葉を無視する、終わりという態度、行動はこれと全く同じことをしているのです。でも、神の言葉を無視してるなんて、
クリスチャンは微塵にも考えていないのです。でも、気がついてください。神の言葉は異邦人には今は無用、終了、そのような発言は、神と神の言葉に対する反抗、挑戦を、人間がしていることなのです。
そして、クリスチャンの世界で語られているのは、宗教意識の教えです。する、しない厳しい掟リストを、怒りの神が与えましたと教えられているでしょう。とんでもない、勘違いです。
あなたがもし親であったら、子供にできない厳しいことを伝えてやらせますか?これって虐待する毒親でしょう?そんなことを
イスラエルの神に対して、これがイスラエルの神だと言っているのです。怒りの神、人に生きれない教えを与えて、どれほど人間はダメなやつなのか教えたなどというのが、その教えです。
聖書とは全く関係ない教えをしているのです。
神は最初から、イエシュアの贖いの血の代価により、聖なる民としていることが、聖書に書いてあるのに、全く気がついていない
読み取り理解していないからです。
神の言葉は、律法ではありません。親が子供に、生きることを教えていることと同じであると、単純な事実が理解できないなら、聖書を正しく理解することは無理です。
最初から、色眼鏡で神の言葉を曲げて、歪めているから、真実が見えてこないのです。
神から、これこれをしたらダメと言われたら、それは自由を奪われたと思うのですか?そんな難しいですか?食べてはだめ!
難しいですか?子供でも分かるレベルの教えです。
ダメという意味は、これはあなたではありません!あなたがするように造られていません。これをしたら、あなたは破壊されます!神は私達に真実を伝えているだけでしょう?
放射能に触れたら危険です。色も匂いも温度も感じませんが、
危険。そのような知識がない人、言われても無頓着な人は、自分が危険に晒されることに無知になるだけです。
続く