シャバット=第七日目=安息日は神にとり、全ての神の子らにとり
重要な日であり、永遠に記念すべき日なのです。
そして、このシャバットを中心に、新月(月一度 第一日)そして、
神の祭り、春と秋の祭り、イエシュアの業の全てを網羅する預言的
祭りが、神の子らに対して与えられているのです。
神の創造された記念日は、神と神の子らが神との関係にある証拠、
土台、根拠であり、神の教え、記念日を神の家に住まう子ら全員が
祝い、生きると教えているのです。
それを、人間が変えたから、イスラエルと、異邦人は別々の違う記念日を、今は祝っているのです。未来は違います。
イエシュアが再臨されたあかつきには、全世界が神の記念日、祭りを祝うようになる!と預言されているからです。
イスラエル〜神の契約にある通り、神の創造された記念日を祝い、
異邦人は、ローマ帝国皇帝、教皇、司教が作った人間創作の記念日、神の教えではないものを、強制的に祝うことに移行させられたから、今聖書とは関係のないものを祝い、信じていることが起きてしまったのです。
創造の最初から伝えられている、神の創造された記念日は、
レビ記23章に神のモアデイムの暦の完全版で記されています。
出エジプト、民数記にも記されています。
そして、約束の地に入る前に、再更新された同じ婚姻契約書申命記5章にも記されています。
契約は、婚姻契約であり、神の造られた世界にはたった1つしかありません。シナイ山で与えられた1つの契約、神が人との関係を結ぶ
契約は、たった1つしかないことをはっきり聖書から理解して下さい。その中には、ノア、アヴラハムの契約も全て網羅されているのです。
新しい契約と聖書にあるのは、新しい、新月の新しいと同じ、
再更新される同じ物です。月は同じ月の光が空に現れます。
新月から満月、そして、月が欠けて、完全に暗くなり、又新月が
出てきます。同じ意味です。
同じ契約が、歴史の節目節目に再更新され続けていることが、
聖書に記されているでしょう。
神の祭りは、いつも満月。過越も、仮庵も満月です。
新月は聖書の暦の毎月第1日です。
エレミヤ31章の新しい契約を、クリスチャンは、トラー=婚姻契約
シナイ山で与えられた契約とは別物という、これまた聖書ではない
人間の思想、考えを教えられ続け、植え付けられ、そう信じこん
でいますが、聖書に何が書いてあるのか読んで下さい。
ユダの家と、イスラエルの家だけに対して、再更新される同じシナイ山で与えられた契約を結ぶ。
異邦人も、イスラエルの神が提供された同じシナイ山の婚姻契約に
加えられたのです。神の大家族にあたられている契約は、1つの契約しかないからです。神の婚姻契約を、拒絶、否定する生き方を、
ローマ帝国に勅令で強制にやらされ、教えられ刷り込まれ、
今に至っているのです。
トラー以外の神の教えなど、この世、神が造られた世界には存在しない事実を、はっきり聖書から知って下さい。又は、神が神の教えを
否定された教えを生きるという、人間の教えのパン種、嘘を除去して下さい。これらは全部ローマ帝国の勅令、法律、人造宗教の教理だからです。
イエシュアが過越の祭りの晩餐の中で、再更新された同じ1つの婚姻契約は、シナイ山の婚姻契約=トラーであることを、どれほどのクリスチャンが理解して、イエシュアの言葉を聞いているのでしょうか?
イエシュアがご自分が創造された過越の祭り〜シャバットからシャバットを祝う、祭りの全てを祝っている、教えていることに全く
気がついてないまま、聖書の記述を素通りして、西洋宗教の教えに照らし合わせて読んでいるからです
イエシュア昇天以降、別ものの教え、別もの契約が出現したと、疑いなくクリスチャンは信じているでしょう。トラーとは別の、トラーを破棄した別の神の教えなどない。別の聖書など存在しません。
福音書以降は、トラーを塗り替える教えなど、実際に1つも書かれていないどころから、トラーの短い解説にすぎない聖書の後書きの役割預言者ではない、使徒達が書いた書簡なのです。
預言者達が書いた聖書、モーセ、預言書、諸書を、使徒達が短く解説しているだけのものが、福音書〜黙示録なのです。
プラス、パウロの手紙を完全に誤解している問題があるのです。
ヘブル書の内容も誤解して、神の教え、契約が廃れたなどと、読み違えている。聖書とはズレた、言語に書かれた意味も、当時の使徒達
預言者が書いた聖書を正しく理解しない理由は、聖書ではなく、
人間が作った宗教教、神学を教え込まれて、聖書を歪めて読んでいる代償なのです。
しかも、神の契約、エレミヤ31章は、ユダの家と、イスラエルの家に対して、再更新されると書いてあるでしょう。
異邦人に対する契約など、存在してもいません。
イエシュアが過越の晩餐でされた再更新された契約も同じです。
その中にいた人たちは、使徒十一人、全てユダヤ人です。
聖書に書いてあることを、正しく読み取っていないのです。
異邦人に対して結ばれる契約など、どこにも存在しないのです。
そして、神の大家族は1つの群れ、カハールであり、教会という
異邦人の群れは聖書には書かれていない、存在していません。
黙示録にある7つの群れ、現在のトルコ近辺、様々な人種が集まる
文化のるつぼであった場所に存在した群れです。カハール、エクレシアは、異邦人ではなくユダヤ人の群れである事実を知って読んでいますか?
その中に少数の異邦人がいても、異邦人主体の群れのことは、聖書には、記されていません。コリント、ローマ、ガラテヤその他も、同じです。ユダヤ人の群れです。その中にごく少数の異邦人がいただけです。
教会という言葉は、異邦人翻訳者が作った造語であり、本当の言葉は、カハール(ケヒラ)エクレシア、群れ、集会と訳されている
エデンの園から同じ1つの群れ。その大家族に時代ごとに、残りの民が加え続けられているだけなのです。
イエシュアが言われた、ペテロ(小さい石、ペトロス)が宣言した、
あなたが約束のメシアである〜この岩〜イエシュアご自身=大きな岩=ペトラの上に、カハール、エクレシアを建てづづけるとイエシュアが言われたのです。その群れは、エデンの園から同じ1つの群れ
家族です。
ペテロの上に、新しい別物の群れである教会を建てる、異邦人の群れを建てるとクリスチャンは教えられているでしょう。
この教会という造語は曲者、本来の意味を全然表していない、造語ですが、便宜上使われているだけです。教会という異邦人だけの群れはない。神の大家族は、エデンの園から1つであり、群れ=カハール、エクレシアしかないのです。
ユダヤ人の群れに、全ての異邦人が加えられるだけです。同じイスラエルの羊の囲いに〜他の囲いの羊=異邦人も加えられるとイエシュアも言われた意味を理解して下さい。同じオリーブの木に別種=異邦人の枝も接木されるだけなのです。
そしてそのペテロが、ローマ帝国カトリック、ユニバーサル教の初代教皇である?これ全部作り話であり、イエシュアが解説した意味とは、何も関係のない空想話解説です。
このような、聖書ではない教えが、聖書であるとクリスチャンの世界に浸透してしまっているのです。
ペテロはユダヤ人であり、生涯ローマ皇帝に処刑されるまで、
100%忠実にトラーに生きて、人にトラーを教えた使徒なのです。
そのような使徒が、神のトラーを捨て去れ!と言った、ローマ帝国
宗教の教え、宗教ののリーダーにはなり得ません。
しかも、ローマユニバーサル教は、使徒達がこの世を去った後、聖書が閉じられた4世紀にローマ帝国が作ったものであり、聖書の教えとはズレた思想を土台とし、神の教えを否定する勅令で成り立っている宗教なのです。ペテロは1世紀のユダヤ人、トラーを教える使徒。
作り話もいい加減にしてと、本当に人間は神の教えからズレた勝手な
空想話、仮説、解説、解釈を編み出し続けて今に至るのです。
聖書には、ユニバーサル教も、キリスト教も、ユダヤ教も記されていません。太古、永遠から語り継がれた同じトラー、1つで同じ福音
イエシュア=救いしか記されていないのです。
1世紀イエシュアが地上に居られた時代、バビロン捕囚から帰った
人々が、神のトラーに反する生き方を2度としないように、いろいろな解釈をトラーに施して、トラーをどう生きるかの教え、ルールを作ったのです。それが、人間の解釈になったものがたくさんあり、本来の神の教えから逸脱した、人間の教え、ルール、律法の戒め、先祖の言い伝え〜口伝律法と言われるものがあったのです。
それらは、神の教え=トラーとは違う人間の編み出した教えです。
ユダヤ教は、そのような人間の教えの経典が加えられているから
宗教なのです。でも、ユダヤ人は、異邦人のように、神の教え、
トラーを否定するような思想はありません。
神の教え、プラス、神の教えをどう生きるか?その点の解釈がラビによりがずれているものがあるというものなのです。
一方、異邦人が作った宗教は、神の教えを否定した思想を土台とする
真っ向から神に敵対する思想をスローガンとした、ローマ帝国の勅令
法律を元にした、時の新興宗教なのです。
ローマ帝国の教えは、18世紀以上も長い間異邦人の間で教えられ、浸透しました。その教理、教えを捨てる、削除、パン種除去には長い年月がかかります。最初の最初から、異邦人が聞いたのは、ローマ教
ユニバーサル教なのです。一方、ローマ帝国下にいない異邦人達は、
使徒達と同じようにトラーを生きて、レビ記23のモアデイムを
守って生きていた事実があるのです。
そして、それ以降異邦人の世界では、ヘブライ聖書、トラーを正しく教えられてきてない、弊害が今もあるのです。異邦人の世界、自分の周りにパウロのようにヘブライ聖書を裏も表も知り尽くし、正しく教えられる教師はいますか?
ユダヤ人の世界では、諸外国に散っていても、皆ヘブライ語のトラー
預言書、諸書をずっと教えられているのです。この違いはものすごく
大きいものなのです。
いつもいつも、周りで見聞きする宗教の教えに引っ張られて、
その教え〜神の言葉は廃れたという教えを基準にして、全てを考える
その箱から抜け出せない状態だからです。
私も、聖書は1つであり、聖書にはトラーを塗り替えた教えは1つもない。聖書は創世記から黙示録まで、1つで同じ神の教えしか記されていないというその事実にはっきり目覚めたのは、ヘブライ語聖書を学び始めて、4年目のことでした。四年もかかったのです。
ずっとずっと、教えられ続けてきた人間の教えに引っ張られて、
どこからどこまでが聖書の真実なのか、翻訳聖書だけ読んでも見えなかったからです。聖書をよく知らないまま、正しく教えられないまま、読んでいただけだからです。
しかも、清掃動物を食することが、神の前にどれほどおぞましい、
汚れたズレた行為なのか、聖別を汚す行為なのかを、神の言葉から
知ったのも、その時期です。
そして、それらの動物の性質を調べていくと、それらがどれほど汚い菌、ウイルス、病原菌、ゴミの宝庫、糞、死骸や陸海空のゴミを掃除するために神が清掃目的として造られた動物であり、人間の食べ物ではない!とはっきり分かります。タニシをコケだらけの緑の水槽に
入れると、1、2日で、水はクリアーに綺麗になります。
血を飲むと、肝炎になります。
その清掃動物の生態を知るだけで、それらを2度、自分の体に入れて食べたいなどと思わなくなるほど、超汚いものだと分かりました。
ゴミ掃除機のフィルターの中身は食べません。
神を知らなくても、普通にそれらの動物を調べたら、普通の感覚が
ある人ならば食べたいなどと思えないほど、その動物、魚、生物の肉がゴミ溜めであるのか、分かるからです。
シャバットを初めてイスラエルで体験したのも、ヘブライ聖書を教えられた四年後でした。
それ以降、偽物の教えが無意味であること、神の教えを捨てる行為は蛇の声であることも分かり、それらの偽物の教えと完全決別し、
聖書だけに戻り、イエシュアが教えていた通りを、聖書に書いてある事実の点と点だけを繋げて行く作業をし続けてきました。
偽情報と、真実は決して繋がらないのですが、神の言葉の真実と
真実はどんどん繋がり大きな木の枝のようにずっと繋がる体験をします。神が伝えている永遠の真実が見えてくる見えてくる。
偽物、異物は要らない、パン種です。神が忌み嫌うことをどうして
神の子ら、聖別された人が取り入れ、信じて生きるのか?
その虚しさ、騙しの深さがはっきり理解できたからです。
そして歴史の中で、誰が神の教え、言葉を塗り替えたのか?ローマ
帝国、キリスト教歴史の実態を知って驚愕したのを今も覚えています。そして、その教えを教えられた人が、ずっと聖書とは違うことを
解説し続けているのです。進化論と同じく、偽の教えを信じる教師こそが真実に目覚める、直面するということが、難しいのです。
誰でも、直面すること、どうして神はこのような異物を放置しているのか?それは、聖書に答えがあるのです。イスラエルも同様、混ざり物、異教の神々の教えや要素に混ざった高きところの礼拝を続けて
いたことが書かれています。預言者により、トラー、婚姻契約の教えに戻り、異教の神々、異物を捨てよ!と警告されて、それら預言者を殺したでしょう。それを神が即座に遮断、介入しなかったのです。
でも、預言者を通して、神の教え、トラーにもどれ!混ぜ物の教えと
決別せよ!とずっと警告しているでしょう。
トラーを教える人が、清くないもの〜汚れたものを食することが禁じられていることもわからないと書いてあるのです。今も同じです。
清く保てとは、レビ記11にある、「わたしが聖なるものだから、
あなたも聖なるものとなれ」とある、それは汚れた動物を食べるな!
という教えが土台であることを、クリスチャンは全く理解していない、古い廃れた教えだと思っているからです。
いつ人間が進化しましたか?いつ動物が進化しましたか?
イザヤ52:10 主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る。
52:11 去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。
神の教えを正しく教えない人たちにより、神の教えが遮られ
人間が作った宗教の教えを教えられ、聖別、区別ができなくなって
しまったと書いてあるのです。
神の記念日、シャバット祭りを汚せ!と言ったのは、ラオデキヤ会議のローマ帝国教です。
エゼキエル22:8 あなたはわたしの聖なるものを卑しめ、わたしの安息日を汚した。
22:26 その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。
この同じ警告が、そっくりそのまま、異邦人にも今向けられているのです。