"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨日は、週の第七日目のシャバットであり、同時に仮庵の祭りがスタートした特別な日でした。

それぞれが皆、親戚、家族、友人、自分たちが建てた仮庵の中

で過ごしたり、又画像などが送られて来ました。

シャバットと、仮庵の日のサービスを、イスラエルと世界を

繋いだオンラインでしました。とても、充実した時間でした。

イスラエルでは、この時期は学校も休みで、街中が仮庵の祭りを祝う楽しい雰囲気に包まれています。

 

祭りが来るたびに祈る祈り、

支えて下さり、命を生きながらえさせて、この喜びの季節に

至る事を可能にして下さった神に感謝するのです。

そして、詩篇136:1の歌があるのですが、この歌を聞く度に

仮庵の祭りになったと、感慨深い思いが出て来ます。

 

詩篇136:1 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

そして、人間の教えが語る事と、神が伝えている事実は全く
違います。家族は1つだけ。大家族。ユダヤ人と異邦人両方
揃って、1つの完全な家族になるとずっと教えているのです。

以下も、都上りの時に歌う詩篇です。

音譜下矢印

詩篇136:1 主の恵み 慈しみは永久に絶えない

 

 

詩篇 133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。

133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。

133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

 

「喜びの季節」と呼ぶ、この仮庵の祭りは、世界中から多くの

クリスチャンもツアーを組んでがイスラエル、エルサレムを訪れる時でもあります。

しかし、ホテルの部屋を借りて、仮庵をするそうですが、

それでは仮庵の祭りの意味は分からないままになるのです。

 

世界中に散っている友人たち、イスラエル、ヨーロッパ、

アメリカ、アジア、南米どこに居ても、仮庵の祭りを祝って

いる。

仮庵は、一時的な小屋、吹けば飛ぶように小さく簡素なもので

あり、ホテルのボールーム、大会場、宴会場では表せません。

 

未来、信じるとも、信じないとも、イエシュアが再臨されたら

エルサレムで行われる祭りに、世界中から神の祭りを祝うために

上って来るようになると預言されています。

 

ユダヤ人の祭り、ユダヤ人の慣習、ユダヤ人にとって大事な祭り

教えなどと、西洋宗教は解説していますが、それは、神の教え、契約に根付いた生き方は、殆どがユダヤ人しか実践して来なかったから、異邦人には関係ないと思いこんでしまっているからなのです。

クリスチャンは、日曜、クリスマス、イースターを尊重し、

祝うのだだと思うのは、聖書ではないことを、教えられたからです。

それは、ローマ帝国が4世紀に作った宗教の伝統を教えられて

皆が実践しているから、それが本物と思っているだけです。

教師、牧師からずっと、聖書とは異なる人間の編み出した思想

宗教の教えを、教え込まれているから、疑いもなく、

「ユダヤ人の祭、教え」と神の言葉、神が創造されたモアデイムに対して、神が伝える事実とは、ズレた意識を刷り込まれてしまっているのです。

イエシュア、メシアが地上に来られて、地上で処刑され、

復活したから、それ以降は、神の教え、言葉、人の生き方、

神の契約が変化するという教えは、聖書とは相容れない、

全く異物の思想です。異端思想そのものなのです。

異端とは、神が伝える教えとは異なる思想のことです。

 

神の創造されたモアデイム、アポイントメントの日の中には、

3つの祭り、ハグ(ハギム 複数)があります。

これらが、都上りの祭りです。

聖書には、神のアポイントメントの日に関連して、様々な出来事

教えが、施されています。

なぜなら、神のモアデイムは全て、イエシュアの業、イエシュアを表す、イエシュアが統治される世界を教えているものだからです。

クリスチャンも、旧約聖書と線引きをしていますが、詩篇、箴言などは読むことがあるでしょう。

詩篇は、神のトラー、モーセの五書に記された「知恵」の宝庫

であり、神の教えを生きることが書いてあるものなのです。

そして、賛美、コルバン、ささげもの、生贄と書かれているものは、全てモアデイム、シャバット、祭り、神の前に出て

神と対話、祈ることを教えているものです。

神がされた業、新しくされた人は、屠られた子羊=コルバンで

表され、神の前に出る時、神との関係を持つ時、神と対話する

祈る事は、100%全て、このコルバンを通してすること。

詰まり、神がされた一方的な恵みの業により、新しくされた人を

与えられた、その事実、実態からだけ、神と関わることを

教えているものが、神の家の祭壇の上で捧げられるコルバン

だからです。

 

詩篇120篇から134篇までの15篇は、翻訳聖書でも、

すべて「都上りの歌」という言葉、翻訳が書かれているのを

読むことができます。

神の祭り、都上りの祭りは、3つです。

過越の祭り、シャヴオートの祭り、そして仮庵の祭り、

これらが、ハギム、エルサレムに上る、都上りの祭りです。

 

イスラエル国内、そして、海外からも年に3回、神の家、

祈りの家、神殿を目指して旅をしました。

今は神殿がありませんが、エルサレムに行く多くの人がいます。

神殿が存在している70年迄、イエシュア昇天以降、

エルサレムの神の神殿を中心に、シャバット、祭りが行われ

コルバンも捧げられていたのです。

未来、イエシュアが戻られたらエルサレムに神殿が存在するようになります。

黙示録の最後に書いてあるものは、シンボル化した言葉ですから

文字通りに読んで、神殿は存在しない、海は存在しない、 

夜はない、太陽は沈まないなどと、文字通りを読み込んでは、

意味不明になります。

海がない、海とは古代では、海〜見えない、怖い、恐怖を

隠されたものを表すものです。

 

都上りの歌、詩篇120−134は、それぞれの場所から

エルサレムに上る旅路で歌われた歌です。

ユダヤ人は、トラーを音楽によって読む事をするのですが

この詩篇120−134は、歌が付けられていました。

 

聖書には、神のモアデイムにまつわる事で、様々な教え、

事件、出来事、イエシュアがされた業などが書かれています。

モアデイムは、イエシュアの業、イエシュアを表すものだからです。

イエシュアが弟子たちと旅をしたのは、都上りの旅です。

ガリラヤから、エルサレムに上る事をしたからです。

 

最近の日本語の表現では、話を盛っているというのがありますが、西洋宗教の教えは、聖書出はない教え、人間の思想、作り話を、数多く盛っています。

土台そのものが、神の言葉を否定した土台から作られた

宗教だからです。

神の言葉は、イエシュアが到来し、処刑、昇天された以降変わったという作り話は、完全に1000%人の思想を盛った作り話です。昇天以降、神の教え、神のモアデイムは、何も変わってなどいないからです。

昇天以降、使徒やその他の人達、イエシュアを信じた人、

信じない人、それらは殆がユダヤ人ですが、皆、どう考えようと

モーセの五書に記されたことを熱心に学び、追求し、イエシュアが教えられた通りの父の教え、天直送のトラーに記された生き方を生きていた事しか、聖書には書かれていないのです。

 

空想話、作り話、偽情報は、ネット上にたくさんあります。

動画でも、パウロが異邦人には厳しすぎる様々な教えを、変えたという定番の教えを伝えていますが、書かれている意味通りを

正しく捉えていない人が流している偽情報なのです。

 

イエシュアが来られた1世紀、エルサレムの神殿、神の家、

祈りの家は、ローマ帝国と、そしてそのローマ帝国に服従する

腐敗した人々、サドカイ派の大祭司や、祭司により完全ではない

状態だったのにも関わらず、イエシュアはその神の家をこよなく

愛し、そして都上りの祭りにも来たことが書かれているのです。

 

神の家、父の家、祈りの家、クリスチャンには神の家、神殿の

意味も知らない、愛着も何もない、むしろそれらを憎むように

教えられているのが一般的ですが、イエシュアの意識とは真逆の思想です。

未来は、このような腐敗、偽物、混ぜものは完全に消えて、

神の意図通りの神の家、イエシュアがトラー、義で統治する

時代が来るのです。

天が降りてきて地と1つになる未来があるのです。

 

黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。

先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために

着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、

天から下って来るのを見た。

 21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、

神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民と

なり、神自ら人と共にいまして、

 21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、

死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、

すでに過ぎ去ったからである」。

 

以下は、過越の祭り、都上り、エルサレムに行った時の記録が

あります。

 

ルカ2:42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。

 2:43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

 2:44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、

 2:45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。

 2:46 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

ルカ2:47 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

2:48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。

 2:49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。

2:50 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。

 

イスラエルの神、主は、イスラエルという国、地、場所を

世界中の中から唯一選び分け、聖別し、この国を通して、

神の教え、トラーをそのまま生きる人達を通して、神ご自身を

表す場所、人、時を聖別、選びだしたのです。

 

エルサレムを、神ご自身が礼拝されるべき場所として定められました。神は、場所、時を聖別し、定め、祝福しています。

主はエルサレムの地に再臨されるのです。

バチカンではありません。

そして、イエシュアが地に臨在し、未来には再び新しい

エルサレム、神の家がある世界の中心としてこの場所を再建されるのです。

西洋人が作った、神の言葉、教え、モアデイムを作り替えた

宗教は、聖書に書かれているある事実は取り出していても、

神が教えられている事とは、かけ離れた思想を編み出し続けているのです。

聖書ではない教えを聞き続けたら、何が聖書に書かれている事実なのか分からなくなってしまうのです。

しかも、オリジナル、ヘブライ聖書など全く知らない教育環境なのです。

いや、最初から、神の教え通り、契約に根付く生き方、

イエシュアが教えられた通りの教えを、西洋宗教では教えません。

もし、最初からイエシュアが教えられた通りの父の教え=トラー、モーセの五書に記されたことを、正しく教えられていたら、人間が神の言葉が廃れた!と言う主張などしていない。

神が創造された本物のアポイントメントの日を、イエシュアを

信じるものも皆祝っていたはずなのです。

事実、聖書に登場する、昇天以降に記された人々、イエシュア

信者は殆がユダヤ人ですが、その中に少数の異邦人もいました。

 

それらの人は、ユダヤ人と同様にイエシュアが教えた教え

トラーを1から教えられ、そして神が創造されたアポイントメントの日を共に祝ったのです。

その事実が、使徒以降を読んでも、書いてあるのに、全く見えないままになり、昇天以降は、古い教えが廃れて、破棄され、

人の考えで神の教えを仕分けて良い自由が与えられた恵みの時代だ!異邦人には関係ない教えだ!と何を基準にして主張しているのか、全く分からないまま、人間の教えを基準にし、神の言葉を勝手に捨て、仕分け、捨て去っているのです。

 

そして、気持ちさえあれば、今はいつでもシャバットだ、

記念日だ。それならば、毎日が止まる日、休日になって、

労働日は、消え、区別、聖別がなくなります。

そして、愛が大事だから、LGBTQ受け入れましょうと、

神の教えを捨てる人は、罪が罪とも分からなくなり、

果は、聖書は神の言葉ではないと牧師が主張し、人を神の教え

生き方とは異なる、神の家に住まうような状態ではない

神の教えから、遠く離れる事に導く危険な教えを、平気で

施してしまっているのです。

 

聖書ではない、神の言葉に一点一画も付け足し、差し引きしてはならない理由は、神が伝える真実が分からなくなり、それぞれが

勝手に編み出した人間の教えを神の教えだと、主張し、

真実から迷いでて、神から遠く離れた場所に追いやられる状況を作ってしまうからです。