一週間は、7日と神が創造されました。全て7。完了、完全、完結
そして神が創造主である証拠、証明、宣言と、神が神の選び出した
人達、神のもとに戻った人、神の大家族のメンバーに与えた、
神との関係を証明する婚姻証明、印として与えられた「シャバット」
7です。
ヘブライ人が7と読めば、即座にシャバット=婚姻契約の印、
神との関係にある証明、証拠、約束、神が創造主である宣言と繋げて
考えられるのです。神に頂いた婚姻指輪の存在も知らない、
それを捨てる人、神の花嫁がどう生きるのか、知らないまま、無造作に人の教えに聞き入り生きてしまうのです。五人の花嫁。
婚姻契約に記された生き方を捨てた=油をもたない人達。
花婿が迎えに来ても、一緒に行く準備がない!置き去りです。
創造は、第一日目〜第6日目迄で、その間に全ての業、創造を完成
完了させたと書いてあります。
創世記 2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからで
ある。
見えない世界、それを霊的世界と呼ぼうと、何と呼ぼうとも、
物理的ではない、人の肉眼では見えない世界が存在し、神は物理的
な存在ではないのです。
肉眼でも見えなくても、実在するのです。
肉眼でキャッチ出来ない、五感で捉えられない世界が、同時にある。天と地は、見えなくても直結しているのです。
物理的な世界に、神の臨在が見える形で存在する。
その中心、心臓部が、ミシュカン、エルサレムの神殿だったのです。
未来、神が臨在し、イエシュアが統治される神の神殿がエルサレムに
戻ってくるのです。
イエシュアは、エルサレムに戻られる。ローマ・カトリックは
バチカンにジーザスが戻ってくる、それはイエシュアが来られる迄
分からないなどと、教えていますが、聖書ではない教えを、
このように、聖書に反する偽の教えがたくさん教え込まれているのです。
それらの偽情報、偽の教え、聖書ではない教えは、聖書=神の言葉で、嘘と誠を識別出来ます!
神が創造された被造物を通して、人に現れ出ることが出来るのです。それは、神の自由自在。神が創造主だからです。
イエシュアが地上に来られる前も、アヴラハムにもヤコブにもモーセと長老達で
預言者にも、イエシュアは現れ出ました。
そして、ロバの口を通して神の言葉を語らせたり、異教の王モアブ人バラク。מואבモアブとは、ロトの娘が父により得た子の子孫です。
「父によって」という意味の言葉です。聖書に書いてある、イコールそれは神が許可した生き方などと、読み違えないでください。
聖書には、ズレて生きたその内容が、そのまま書かれています。
多くの妻を娶ることも、神の意図とは違います。
イスラエルを呪うようにと雇われた、偽預言者バラムを通して、
イスラエルの神は、イスラエルに対する明るい希望、栄光あふれる
彼らに対しての未来預言と、彼らが神の民、祝福された人達である、
その祝福を、偽預言者から、直接語らせたでしょう。
民数記23−24章。
神はありとあらゆる人を使って、用いて、神の計画を遂行し続けて
いるのです。神が主権である。だから、恐るな!と黙示録の最後にも
トラーに記された同じ励ましと、警告が記されているのです。
未来は破滅、崩壊ではなく、イエシュアが統治される輝かしい天の
栄光に満ちた生き方が地上を覆うようになるからです。
エデンから出て、エデンに戻る!
第7日目、シャバットは、福音の中心です。
神が創造主であり、そのお方の元にイエシュアを通して父の元に
戻された人、元居たエデン〜神の中に感じなくても、戻っている。
その人達は、子羊の血の代価で新しくされた人を与えられて、
古い自分は、イエシュアと共に死に伏されて完全に葬られたのです。
復活の命、新しくされた事実を取り戻されたのです。
それは未来に与えられるものではなく、即座にその場で受け取ったのです。これは、2000年前に初めて、実現、可能になった購い
救いという考えを捨ててください。エデンの園から、同じ!
永遠の中、この世界の礎が造られる以前から、屠られた羊の購いは
完了しているからです。歴史線上ではなく、円です。
だから、聖霊が内側に住まわれるのでしょう。どの人種も、どの時代でも同じ。それは、神は永遠の中に存在し、過去、現在、未来、
同時に存在されているからです。
今は、未だ朽ちる肉体であり、この頭脳も、古い自分で生きた記憶
行動パターンが、バッチリ埋め込まれているから、新しくされた感じがしないだけです。
しかし、本当の現実は、イエシュアの性質その通りの人を、既に今
取り戻されている!これが、事実です。
その人は、イエシュア=言葉=トラーを生きる!と書いてあるのに
クリスチャンの世界では、その聖書に書かれた事実が正しく教えられていないのです。
代わりに教えられた教え=偽情報〜古い教えは厳しくて難しいので
十字架で処分され、今は聖霊時代、自分の判断で神の教えを自由に
仕分けて生きて良い、自由の時代、恵の時代だ!と意味不明な思想
ローマ教の人間の教えを、聖書だと勘違いしているのです。
変わらなくてはならないのは、完全無欠の神の言葉=聖霊=イエシュアではなく、人間の内側、中身の方なのです。それが、聖書に書いてあるのに、理解出来ないのは、人の思想で、真実が覆われているからです。
その本当の原因は、聖書を正しく解説されていないこと、ある箇所を取り出して、神の教えが廃れた、モアデイムが変化した、人の考え
で何の日でも安息日だ!などという、これこそ冒涜的大嘘の、歪んだ間違った、浅はかな読み込みの聖書解説が1900年もまかり通って来たせいなのです。
ローマ帝国下に生きるということは、並大抵の決意では生きられないことが、黙示録に書かれています。
それは、その時代にローマ帝国がユダヤ人に対して、またはイスラエルの神を信じて、トラー=契約に根付く生き方をする人をどのような残虐の方法で迫害、処刑してきたのか、その歴史の事実をはっきり
知らないとならないのです。
これは、歴代のどの帝国でも、同じことがされて来たのです。
4世紀にコンスタンチヌスが出て来て、イエシュアを信じる信仰を
認めても、これは、歴代帝国と同じ、太陽神、異教の神々の思想、
祭りとの融合の姦淫の罪、偶像礼拝とのミックス、プラス、皇帝、
教皇崇拝、宗教階級制度がばっちり組み込まれた時の新興宗教なの
です。
プロテスタントも、聖書ではない教えがふんだんに編み出された
カトリックに、16世紀、ルターが異議申し立て、抵抗、対抗したのでしょう。
しかし、大元の偶像礼拝の根=神の教えが廃れた!という大嘘
高き所の偶像礼拝、本当の問題の根、パン種迄は、一掃されなかったのです。
純粋な神の教え、契約に根付く生き方、イエシュアが教えられた
父の教え=トラー、記念日、生き方とは異なることが、強制的に
浸透させられたのは、預言で警告されている、神に敵対するもの
そして、偶像礼拝、姦淫の罪が何かも分からない異教徒上がりの
混ぜ物融合ミックスを平気でする異邦人ローマが作った、
宗教だからです。
ある現象、大事件があると、それ前後で神の性質や、神の教え、
人の生き方が変化するという思想は、それこそが正にギリシャローマ
哲学思想、物事を歴史線上にしか見ることをしない人達の思考、
固定概念が最初からあるから、見えなくなっているのです。
世界には、無数の宗教があります。考えて見たら分かると思います。
神の教えではないものを、神の教えと信じて生きることは、
これは他の宗教を信じることの要素と全く同じことです。
黙示録が書かれた時代の90年代、それ以前のバビロン、ペルシャ
ギリシャ帝国も、皆偶像の神々の世界であり、それぞれの帝国から
持ち込んだ別の神々を融合させているのです。
だから、別の名で本質は同じ神々の教えを生きているのです。
イースターという名も、アシュラ、イシュタール、イシス、色々と
別の名で表されていますが、元は同じです。
女神、神々の融合、合体だからです。
アルテミスも、ダイアナ、マリアと呼んだりするのもそうです。
それら、エペソ、スミルナ、7つの群れ、小アジア、トルコ周辺の
ローマ帝国下にあった女神信仰、それが、聖母マリアになったのです。聖母マリアを、ダイアナと呼ぶのはそれが理由です。
姦淫の罪、混ざり物の思想が、土台の宗教であること、その要素を
プロテスタントもバッチリ、取り込み、その偶像礼拝、高き所を
全く取り除いていないこと、これが、5つの群れに対してされている
同じ警告でもあるのです。
マリアを女神と信じなくても、神の言葉は廃れたという、死に匹敵する神に対する大冒涜を、神の教えだと、疑いもなく信じているのです。神を愛すると言いながら、同時に、神に敵対する行為、神が禁じている罪を生きる生き方、聖別を汚す生き方をしていても、
全く気がつけない理由は、偽の教えを信じて、神の言葉を捨てているからです。
神を愛する人は、神のいましめ、仰せ=トラーに根付いて生きる!
という意味が、全く通じていないのです。
その代わりに、神を愛する人は、神の教え=古い教え、自分に馴染みない教えは、全て捨てて生きる?
神の教えに違反してもOK。今はいつでも、安息日と、ローマ14や
コロサイ2、1コリント16、使徒20を、完全に間違った聖書解説を聞かされて、安息日は、日曜日になったという大偽情報を本当だと信じ込んでいるからです。
神がどれほど、神のモアデイム、シャバット、新月、祭りが重要で
あるのか、預言者を通して教えているのに、全く通じていないから、
今のように、西洋宗教、ローマ教の実践を異邦人は続けているのです。神の教えは絶対ではないとする、人間の考え、感情が主体、
中心の宗教なのです。ある部分だけ、絶対としているだけ。
聖書ではない教え、人間の教え=嘘を、信奉するのは、虚しいのです。考えたら分かるでしょう。偶像の神々を信じる、実在しない神々を信じる、事実ではない神の教えを曲げた教えを信じる〜これこそが
虚しく、そして、偽物のと本物が見分けられない、混ぜ物のを崇拝
する姦淫の罪、姦淫の罪と聖書には書いてあるのです。
イワシの頭を信じるのと、全く同じことをしているのです。
なぜなら、聖書が閉じられた後、人間が作った宗教の教え、聖書に
付け足し、差し引きする偽物の教えは、神の教えでもなければ、
それらは実践してはならない!と黙示録の預言と同じ警告を、神は
ずっと最後迄しているからです。
偽物の教えを浸透させたおかげで、本当のイエシュアの顔=実態が
見えて来ないのです。その結果、4万3千もの宗派、人間が編み出した様々な思想から出るムーブメント、運動、宗教活動が浸透して
しまっているのです。果ては、人間が神と同じ権威を持つ、使徒、預言者と信じこみ、人が人を支配する、これこそ異端カルトそのもの。
ローマ帝国の皇帝、教皇を神とする崇拝、人を支配するために作られた宗教階級制度そのものが、プロテスタントの中にも浸透しているのです。
全部、一緒くたに、前の帝国の神々の上に、自分達の神々の教えを
付け足し、盛り込んで別の宗教を作る。
これは、西洋ローマ教も同じなのです。
ギリシャ、ローマの神々の宗教。その大元はエジプトの太陽神
神々の上にある神〜太陽神ラーです。
その太陽神に、災いが降ったのが、10の災いの9番目なのです。
世界の宗教は、人間が作ったものであり、その元は、神を模倣して
自分の頭で考えた、神が創造された世界のイメージ、人間や動物を
形作って考えた空想の神々です。
実在しない神々を拝む、偽物の教えを信奉する虚無さと、考えたら
分かるでしょうと思うのに、実在もしない人間の作ったものを、
本気で信じられることが、大いなる騙しなのですが、人はそれに
惹かれるのです。
それは、周りの環境、影響、そして1世紀は、強制的に偽物の神々を
ローマ帝国下で崇拝させられるという危機に日々直面していたのです。
よく考えて見て下さい。聖書が閉じられた後に、聖書に書いてもないローマが作った宗教の教え、記念日は、イエシュアが教えられた父の教え、モアデイムなどではありません。
神はなんでもOKなどと、言われる神ではありません!
人間の作り物の教えがふんだんに混ぜられたもの、それが
西洋宗教なのです。ヘブライではない、西洋でしょう。
それに抵抗したのが、プロテスタントです。
しかし、ある部分の偽物の教えに抵抗しても、信仰の土台は、
ローマ教の思想そのものなのです。
聖書が閉じられた後に人間が作った教えは、聖書=神の言葉、
教えではありません。
人間が作った思想を、信奉するのは、虚無、意味無し、そして、
それらを、姦淫の罪、偶像礼拝と神が警告していることにも、
聖書を読んでも、人ごととしか聞こえません。
なぜなら、キリスト信じているから〜!と思うからです。
サタンも神を信じて恐れていると書いてあります。
信じるって何ですか?何を信じているのですか?そして、神の教えではない、人間が作った混ぜ物の教え=姦淫の罪を、生きてはならないという警告を理解していますか?
それが、黙示録の中心のテーマ、警告でもあるのです。
聖書を教える人が、聖書ではない思想を語り続けるという警告は、
聖書にずっと書かれています。偽の教えとは教師がするから、偽教師の教えと書いてあるのです。
普通の人は、聖書を教えることは、しないからです。
聖書を教える教師が、聖書ではないことを、今も今日も堂々と語り、
教え続けているのです。
律法は廃れた!という思想。そして、日曜礼拝、クリスマス、
イースター女神の祭り、全部異教の神々の祭りのパクリ。
ローマが聖書が閉じられた後の4世紀に作ったものが神が神の子らを呼び出した日と勘違いしているのは、長年浸透した、人が作ったもので神の本物の記念日がすり替えられて来たおかげなのです。
神は、神の創造されたモアデイムを、神の民が汚す行為を断じて
禁じているからです。
神の教えを捨てる人は、きよいもの、きよくないもの区別がない。
何でも識別なく食べる食文化、なんの思想でも識別なく取り入れる
思考回路、神の教えが識別出来ないと書いてあるのです。
それは、神の言葉を聞いて、それをその通りに受け取るという
最初の態度が歪んでいるからです。
神が言われる通りをしない。
エデンの園の過ちと、同じことを警告を教えているのです。
自分の判断で、神の教えを退ける。古い教えは廃れて悪いからという
大嘘を信じる人には、神の言われる意味など、深い深い意味など
理解できなくなるのです。
聖別の意味も、罪の定義、何が罪なのかも理解していないのです。
異教徒と同じ生き方。神のものと、そうではないもの、きよいものときよくないものの区別がない生き方なのです。