一週間が終わり、シャバットを迎えました。
第7日目がシャバット、安息日と神が人に伝えています。
シャバットが神のモアデイム全ての中心であり、イエシュアそのものを教えているものです。人の生き方そのものを教えています。
エデンの園の生き方を教えているものです。
神の教え、言葉を尊重する、それは考えだけではなく、行動で生きて
表す。神の言われることを、尊重しない、イコール、神が言われた
通り生きていないことで表されるのです。
神の教えではなく、人間が作った教え、しかも神の教え、記念日を
捨てる!蔑ろにする、いや、それが重要である、自分に言われていることだ!と聖書を読みながら気がつけない。
これって集団催眠以外、一体何と呼べば良いのでしょう。
人の教えを尊重し、神の言葉、教えの方を捨てるのは、人間が作った
神の教えを否定する、偽物宗教を本物!と刷り込まれている結果なのです。
これは、神が創造主である宣言であり、人は神に聞いて生きるように造られていることを、最初の最初から教えています。
創世記 2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
書いてある意味通りに読めば、神が止まられた日は、第7日目であり、人も同じように第7日目に止まり、この日を神と共に祝うように神が
伝えられています。
この日だけを、週の日々の中で聖別されて、そして祝福されています。他の日に対しては、 祝福の宣言も、聖別されていることも書かれていません。
日曜日から金曜日迄は、名前がない第1日~第6日と呼ばれる普通の日、ホルという普通の日です。
聖別というヘブライ語での意味は、神の目的通りに分たれることです。
聖別の定義は、人はできません。神が創造主であり、神だけが、
神ご自身が創造された世界の全てを定義でき、解説できる唯一のお方なのです。
人間の編み出した教え、宗教は、人間が神に成り代わり、勝手に
神が創造された世界、神の教え、言葉、人の生き方を再定義していますが、それは、聖書とは異なるもの、神が伝えて教えている生き方ではありません。
神は、普通と、聖別された日を、神は境界線を引いているのです。
光と闇を分けたように、区別があるのです。
区別がなければ、一緒くたで、違いが見分けられないのです。
割礼の意味も同じです。境界線です。
そして、肉に付いているけど、包皮は切り離されている、
これは目で見て分かる視覚言語、視覚教育ツールです。
神のものとなった人には、異教の神々を信じて生きる人、世界とは
境界線が敷かれているのです。異教徒と同じ、神の目から見たら
汚れた生き方から決別しないとならないのです。
それは内側に住むイエシュアにはマッチしない生き方だからです。
汚れた生き方、それを知るには、神の教えに戻らないと分りません。神の教えを廃れた!と信じる人は、神が伝える罪の定義を知りません。だから神の目に罪であることをしてても、全く無感覚のままなのです。神の言われたことを知れば、神がNO,忌み嫌うと言われることなど、2度としたいと思わない。神に反撃する、敵対すること
イエシュアを愛しますという人が、どうしてしたいと思えるのでしょうか?
問題は、正しい情報=聖書を正しく教えられる、正しい聖書解説を
聞かされていないことなのです。
人間の編み出した宗教の教え、教理で、神の言葉を塗り替えた解説ばかりを聞かされたら、何が本当か分からないままになるのです。
偽札見続ける人には、本物札も偽札も見分けられません。
本物を知る唯一の方法は、神の本当の言葉を知ること!これ以外に
ありません!人間が作った教理を聞き続けたら、何が聖書に書いて
あるのか、目の前に書いてあることを、今もしている通り、読み替え続けても、それが変!異常!とも気がつけないのです。
神の週一度の呼出日、アポイントメントの日は、7とかいてあるのに、1と読み違えていること、それに先ず疑問に思うべきです。
どうして、聖書信仰!と言いながら、聖書に書かれていることを
勝手に曲げて読み違えているのか?
普通の教科書に7とあったら、1とは決して読み変えないのに、聖書=神の言葉は、書いてない意味にすり替え、塗り替え、曲げて読んでいるのです。
神が創造された全て、神の時、神のモアデイムは人のために造られ、神と特別な会見をする日、そしてそれらは全て、イエシュアの業を
網羅して教えている預言的祭り、アポイントメントの日でもあるのです。
プロテスタントの牧師さんに、創世記の最初は、空想話です!と
教える人がいますが、内側に住む聖霊が、聖霊が書かれた言葉を見えなくさせている、偽情報を信じているから、こういう間違った聖書解説が出来る、そして間違った聖書解説はたくさんあるのです。
その大元、神の教えは廃れた!というコンスタンチヌスの勅令の
大嘘、偽情報のせいです。
聖書に書いてあるのに、書いてある意味通り、イエシュアを信じる人が、聖書を正しく読み取っていないのです。
第7日目に神が止まり、その日を聖別し、祝福されたという箇所を
読んだら、書いてある意味通りに読めば、その意味が伝わります。
神が教えている、その深い意味が分からなくても、これを読んだら、小学1年生でも、幼稚園生でも、神が7日目に止まられたと理解出来るのです。
そして、読み進むと、神はこの第7日目が神が創造されたシャバット、止まる日、安息日であるということが書いてあるのです。
聖霊がないまま読めば、それは深い意味にたどり着けない、
個人的な体験、理解として自分の身にならないのです。
でも、同時にパウロが言った通り、神を知らない人でも、これは特に
ユダヤ人ですが、トラーを生きる人の中に生まれた人は、周りの大人からトラーに記された神が伝える生き方を、生き様を通して、
日々の生き方を通して、教えられて行きますから、個人的に神、
イエシュアに出会う迄、安全に守られるのです。
ガラテヤ 3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちはトラーの下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
3:24 このようにしてトラーは、信仰によって義とされるために、
わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、
もはや養育掛のもとにはいない。
この箇所、何度か書いていますが、クリスチャン牧師、教師の間で
完全に誤解したパウロの手紙の解説をしている代表例の箇所です。
トラーの下で監視されているとは、安全に保護されると言う意味です。殺人犯に狙われている政治家が、身柄を安全な場所に確保、拘束幽閉されて、殺害から守られるのと同じことです。神を知らない人でも、トラーを生きる大人たち、周りの人、コミュニティーに生きていたら、周りの人から安全な生き方を教えられ、不良みたいな外れた道に行くことを、道徳的にそれは悪い!と理解して、守られるでしょう。
神の教えは、人を救い主に導く役割の側面もあるのです。
でも、神の教えを生きて、義とされる目的のために、神の言葉=契約=トラーが与えられているのではないのです。
この2つの違いを、クリアーに、正しく理解する必要があります。
そして、イエシュアに出会ったら、聖書、トラー、預言書、諸書に
記されたイエシュアに出会う生き方、人生を歩む、電源=神につながることができたら、イエシュアに出会うという、その側面のトラーの目的はもう終わるのです。神の教えを生きることが終わる!などと
いう、とんでもない罪、危険な生き方が書いてある!などという、
解説をやめてください。
イエシュアに出会った人は、神の教えを捨てて自分の悟りを基準に
勝手に生きて良い?
神の教えは捨てれて、無用だ!?異邦人には関係ない教え?
それって神の教えではなく、サタンの声そのものです!危険!
神の教えを捨てる、イコール罪に扉を開く、危険な生き方、
イエシュアそのものを捨てる生き方です。
クリスチャンは二言目には、聖霊に導かれて生きると言いますが、
どういう意味だと思いますか?聖霊に導かれているかどうか、
照らし合わせる基準は聖霊により記された神の言葉=トラーなのです。聖霊は、神の言葉に相反する、矛盾したことを人に教えません!
罪の基準の全貌、人の生き方の全貌は、モーセの五書以外完全版としては、書かれていません。
マタイ以降は、トラーの短い引用、抜粋のみしか書かれていません。
神の教えの全部は、マタイ〜黙示録には書かれていません。
罪の定義の全部も書かれていません!
すかすかに神の教えの多くが抜けているのです。だから、聖書の最初の箇所、神の教えの完全版を知らないとは、イコール、神の教えを
知らない、理解もしていない、だから異邦人は、契約、律法に戻らない!と言いながら、最初から神の教えになど生きてもいないのです。
神が警告しているのは、預言書、預言者の警告は何だと考えていますか?未来に様々なことが起きるから注意せよ!という預言ではないのです。
預言者の役割は、未来に起きること、いつ何が起きるのかなどと
神は人に伝えません。明日あなたに何が起きますなどと、神は人に
伝えません。だから、神に信頼して、日々見えない世界を、見るが
ごとくに生きる訓練をしているのです。
未来に起きること、それらを知って、自分の今を神の教えに根付いて
生きることに戻ること、軌道修正を常にする、それが預言者の役割であり、預言者が書いたのが預言書なのです。
神の教えを人が変える、廃れたという、破棄されたという、無用というこれら全て、反キリストが語ることであると聖書には、
記されているのです。
バビロン、アッシリア、オスマン帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国が
何をしたのか。神の教えを生きることを禁じ、神の教えを捨てさせ、そして神のモアデイムを祝うこと禁じる!それが反キリストがやること、特徴なのです。
詰まり、サタン、エデンの園と同じ、神の教えを歪め、曲げ、変え
捨てさせる!神が伝えたこととは違うことをやらせること!
これが、はっきり聖書から理解できる人は、神に敵対する生き方の全てが危険と分かるので、その教えから離れているのです。
イザヤ52:11去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。 その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。
クリスチャンの中に浸透した教えは、聖書とは異なる聖書解説です。
それは、ローマ帝国皇帝が神の教えを塗り替えた、捨てよ!とした
土台で作られたもの、ローマ帝国下の様々な宗教に寛容であり、
特に戦争勝利の神である、ミトラ神、太陽神を信仰していたコンスタンチヌスが、ミトラ神信仰、土着信仰、大衆が信奉していた宗教の
教えを様々に取り入れて作った、まがいものの宗教=西洋宗教だからです。
翻訳聖書を利用しながら、自分たちが編み出した宗教教理を土台に
聖書を読み替えているのです。だから、神の教えは廃れた!
神のモアデイムは廃れた!と主張し、宗教の教えを実践しているのです。聖書に書いてもない教えと、記念日をやっているのに
それを不思議にも思わない。イエシュアが生きた生き方、イエシュアが祝った、シャバットや祭りをクリスチャンが全く知らない、
祝わないのは、コンスタンチヌス教を実践しているからです。
ローマ帝国がどうして起こり、衰退したのか、学べば、どれほど
ギリシャローマ、異教の神々の教えや哲学思想にまみれている世界なのか、理解できます。
それらを、神は完全に拒絶!吐き出そう!と言われているのです。
それを理解できないのは、信じた最初からコピー品を見続けて
本物、神の教え、契約に生きることを学んでいない代償なのです。
神の教えを生きて、古代は義とされた、それは神の教えていることではありません!
生贄を捧げて、一時的に罪が許されていたのでもありません!
未来、イエシュアが来られたら神の神殿で再びコルバンが捧げられるのです。ゼカリヤ14章。
それらは、イエシュアの業、人の生き方、神への近づき方、修復の仕方、全てを教えているものであり、罪の赦しのためではないのです。
動物の血は、罪を消さない!とあるでしょう。
神の祭壇に捧げられるのは、動物以外、穀物もあり、そしてコルバン
の種類は色々な別の目的、意味があるのです。
感謝、賛美、平和、そして、ズレたことを回復する為、しみ、傷、
欠陥がない動物を通して、自分が新しくされている事実を見て、
内臓を全部祭壇に出して、神の前で語る、祈り、対話を教えているものなのです。
聖書を書いてある通りに読めば、誰でも書いてある事実は読み取れます。その理解が、人により違うのです。
話しは飛びますが、ヘブライ聖書の教師である方が、イエシュアに
出会う前も、ユダヤ人として、神の祭りを祝っていましたが、
イエシュアと出会った後、過越の祭りをして、その中で歌われる詩篇や、聖書箇所を読んで、今迄とは全く違ったことが見えた、
イエシュアそのものが、詩篇に、トラーに、預言書に書かれていたことがはっきり分かったと言っていました。
クリスチャンも同様に、聖書を字面だけ読んで、その意味を読み取りますが、その深い意味が見えないまま素通りしていることが、たくさんあることを知ってください。
それは、聖霊が内側に住み、神の言葉が廃らない事実を知り、そして
神のモアデイムを理解して、神のトラー=契約に記された生き方を
知って、実際に生きて実践して、初めて見えることがたくさんあるからです。
クリスチャンは、信じたら、マタイ以降、すなわち、新約聖書という
タイトルがつけられた箇所だけを、読むように教えられますが、
そこだけを読んでも、神の教えの本当の意味が深くは見えないのです。
そこだけ読んでも、聖書の最初の75%に記された意味は、見えないからです。
トラーを知るユダヤ人が、マタイ以降を読んだら、それらがトラー
預言書に記されていること、イエシュアが語られていることが、
トラーであることが直ぐに見えます。
この違いがあるのです。逆はあり得ません。
教科書全編を知らないで、後書きのほんの少しの解説だけを知る人は
教科書に書かれていることを知りません。
でも、教科書全体を知っている人が、後書きだけ読んだら、そこには
教科書全編に書かれた短い後書きが書いてあると理解出来るのと
全く同じことなのです。