"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -3ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

先日の日没から、仮庵の祭りが始まりました。

この日は、曜日は金曜日日没ではなくても、シャバットと

同じように止まり、祝う日ですが、今年は、ヨムテルア、

仮庵の祭りもピッタリ、第七日目の日没、週一度のシャバットと

同じ時になりました。

ユダヤ人の友人家族と、仮庵に入り、祈り、賛美、そして

ルラブを振って、その後楽しく晩餐をしました。

いつも話に花が咲いて、写真を取り忘れてしまいましたが、

最後、仮庵の中にみんなで入って、写真を取ることができました。

日本に居れば、お正月や特別な祭りの時は、皆が準備し、

お祭りに向けて、国中がその雰囲気になりますよね。

七夕祭りなら、短冊の飾り付けを幼稚園や学校で作ったり、

節句なども、雛飾り、鯉のぼりを皆が上げてその祭りらしい

雰囲気が環境の中で体験出来ます。

それらの祭りは、異教の神々と繋がっているので、そのとおりにはクリスチャンは祝わないと思いますが、周りではその祭りを

祝う事が見えます。

 

しかし、その国に住んでいなければ、他の国では同じ祭りを

しない場合、その雰囲気は全く体験しません。

これは、ある話題に関心があれば、その情報やチャンネルを見るということと同じです。

 他のチャンネルで何が行われているのか、話しているかも

そのチャンネルを見なければ分からないのです。

野球、サッカーの世界大会やオリンピック、音楽のコンクール、その他諸々の大イベントが行われていても、そのチャンネルに

繋いで見なければ、何が起きているのかも知らないし、

自分の生活には何も情報が入らないので、大イベントが起きて

いても、全く関係なく、何も知らないまま生活します。

これは、大きな事件、災害、その他のニュースも同じです。

 

意図的にチャンネルに繋がなくても、生活環境の中でそれが

行われていれば、選択の余地なくそれらを体感します。

世界共通のイベント、祭りは、現代ではハロウイン、バレンタインデー、母の日、父の日、イースターやクリスマスなどです。

街の飾り付けと、何よりスーパー、商店の商戦シーズンになりますから、関連のある品物が店に並びます。

 

聖書には、神が創造されたモアデイム、記念日のことが書かれているのです。人が作った宗教のアポイントメントの日など、

書かれていない、誰も祝ってもいません。

神が創造された本物の主の日、聖日、聖なる集会、アポイントメントの日、祭の日は、クリスチャンには、全く知られない、

馴染みがないアポイントメントの日ですが、それらは、

クリスチャンも今日も招かれている神が伝える「永遠に祝われるわたしの記念日」と神が紹介しているものなのです。

神の教え、アポイントメントの日は、話題にするだけではなく

実際に生きる、祝うものなのです。

なぜ、それら、聖書に書かれた本物を、イエシュアを信じる人が教えられていない、知らないのか?

それは、西洋教父、ローマ帝国が神の教えと神の記念日を塗り

替えたからです。神が神の記念日を人の考えで、いつでも良いと言ったと考えてているのは、ローマ14、コロサイ2章を、

完全に語解、勘違いして読んでいるからです。

神は神が聖別された特別な日、モアデイムを人が破壊し、汚す事を許可するようなゆるゆるで、いい加減な神ではありません。

ユダヤ人と異邦人には、神は別の教えをしている、時代ごとに

神の教えが変化する、神の性質も時代ごとに変化する、そのような人間が編み出した思想は全て嘘、偽情報です。

神のされている修復計画は、1体、元に戻ることだからです。

1つにしようと神がされていることを、邪魔、妨害しているのが

人間が編み出した分裂思想です。

 

神が選び出された歴史の出来事を通して、人類共通の

同じ教えを、その出来事から伝えているものです。

創世記は、一人、個人、そして個人の家族が通った出来事、

事件、失敗、罪などが記されています。

アダム、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、

この家族を巡る出来事を通して色々教えています。

そして、出エジプトは、このヤコブから出た12人の息子たちの

家族から、イスラエルという国家を正式に形成したのが

出エジプトの記述にあります。

イスラエルから出て、エジプトに下り、そしてイスラエルに戻る。エデンから出て、神の内側の外側に閉じ込められていたけれど、神の元、神の中、エデンに戻る。

この事実の並行が、書かれていますね。

アヴラハム、ヤコブもカナンから出て、エジプトへ下り、そして

イスラエルに戻りました。

ヤコブの場合は、彼の遺言通り死後、イスラエルにカナンの地、

マクペラに葬られました。

イエシュアもベツレヘムで生まれ、エジプトに下り、そして又

イスラエルに戻りました。

そして、ヤコブの12人の息子、その家族がヨセフの居るエジプトへ下りました。70人。

聖書の数字は、偶然ではなく、神が選びだしたメッセージが

その中にあります。

そして、ヨセフの死後、イスラエルは苦役を課せられ430年後

エジプトを脱出しました。

エジプトは、象徴的な国です。神から離れた場所、約束の地、

エデンの内側の外側。そして、本当の神に繋がれない、仕えられない状態を教えているものです。

エジプトに住んだ事がない異邦人も、皆エジプトの奴隷なのです。詰まり、この世の神々、神を知らない、エデン=神の内側の

外側に皆飛び出して、その中に閉じ込められた状態だからです。

 

そして、神の外側、そこにいるのは、人間の王です。

偽物の主人。偽の人生目標、偽の自己像を刷り込む世界です。

自分ではない、他者と比べる、競争の世界。

その主人の宗教、偶像は、太陽神です。

偶像の神々のトップは、太陽神です。神が造られた天の万象、

太陽は世界を照らすものだからです。

エジプトの神は、太陽神、異教の神々の代表、ラーです。

どの宗教も太陽神が居ます。ローマ帝国の皇帝も太陽神信仰。

信奉している理由は、王、自分の為です。

聖書には色々長い、込み入った事が書かれていますが、

テーマは実はシンプルです。

創世記の3章に、聖書の全体のテーマが凝縮されて書かれています。創世記1−3章を、モーセの五書全体で解説しているのです。

 

人は、神の似姿に創造された、神の言葉で造られた。

人は、神の口から出る1つ1つの言葉により生きる。

それを、拒否した。それは直に拒否するという行動ではなく

神の言葉の中に、偽物の教え、別の声、龍の声を混じらせた。

これをずっとやっているのが、人間が作った宗教なのです。

神の教え、言葉を、曲げる、歪める、変える、そして、人間の

考えを挿入、混入させてミックス、混ぜる、それが偶像礼拝の

正体なのです。

神ご自身の中こそが人の住まう場所、ハマコムであるのに、

神の内側から外側に飛び出した。別の目が開かれて、

以前のように神が見ている通りに、見えなくなった。

神の創造された本来の姿、自分が分からなくなった、それにより相手の本当の姿、性質も分からない。

歪んで見えるようになった。

批判、なじる、責める、責任逃れ、責任転嫁、相手と全く

一体、エハッドであったのに、そこに亀裂、分裂が入り、

今迄の関係ではなくなった。相手と本当の意味で分かりあえない、繋がれなくなった。

神と離れ、人との関係も壊れた世界。

ここから、元の場所、エデン、神の中、神が創造された通りの

本来の性質、生き方に戻る、それが最終目的なのですが、

歴史の中には、複雑な出来事、事件、戦争、争い、破壊が

続いているのです。

原因は、シンプル、でもその結果である出来事が複雑なのです。

聖書に書いてある通りに理解すると、人間が編み出した思想や

分裂、分断思想が、聖書とは全く真逆の思想であることは

神の伝える事実からクリアーに見えます。

一体、エハッドであることを、分裂させたのが、蛇、蛇とか

サタンとはヘブライ語では書いていませんが、「ナハシュ、地を這うもの」が人に神の言葉を疑わせる事を、ささやき、そそのかしたのです。

サタン、サタンとじゅっぱひからげに言いますが、それぞれの

箇所で書かれている何かという内容、実態を知って、それで

そこに書かれている事実をまとめる、繋げるということをする

必要があります。

エデンの園にサタンという言葉はなく、「地を這うもの」が

神の言葉を撹乱させた、イコール、ちょい真実を言った

これを食べたら神のようになれるよ!しかし、最初から人は神の性質に似せて造られた事実があるのです。

神にはならない、創造物だからです。

しかし、神の似姿そっくりそのまま、詰まりイエシュアの性質

通りであった、第一のアダムだったのです。

そうすると、神の性質通りである自覚が、アダムとハヴァには

なかったのか。

この嘘の手口を、ずっと使って、神の言葉を曲げる、歪める、

薄める、変える、別物の教えとすり替える、これをずっと

やられて、私達の宝、権利を奪われ、乗っ取られているのです。

その果が、LGBT神の創造されたデザインを破壊する、命を

編み出さないおぞましい生き方が、罪と神が言われているのに、

LGBTは、罪?と聖書に書いてあるのに、分からないと議論しているのです。

唯食べること、一口食べただけで死ぬ?こんなに大きな事、

重大な結末なる、人が死ななくてはならないと言われていたのに、そんなことあるわけ無いと思ったのに、そうなったのです。

神が言われた事が、事実だからです。

今の西洋宗教の世界は、神の言葉、教えを好き放題に変え続けて

来たものなのです。聖書に書いてもない教えや記念日をあたかも書いてあるがごとく、語り続けて、やっているのです。

そして、エデンの園にいたアダムとハヴァと同じ意識に

させられているのです。

 神はこの世界を物理的に創造される前から、全てを用意して

物理的な世界を造られたのです。

永遠の中に既に屠られている子羊、そして永遠の中に既に

選び出された人と書いてあるからです。

その人達は、神のものです。その人達が、偽物の主人の牢獄で

奴隷として、囚われていたのです。

 詰まり、本物の生き方ができない。自分が誰か分からない。

ロイヤルファミリーの一員だったのに、偽のロイヤルファミリー

ファラオにこきつかわれ、偽の人生目標を虚しく歩む、レンガを

積み上げていたのです。

しかし、その生活にはもうひとつの側面があったのです。

経済的安定。家もあり、何でも無料で食べられる。

酒、魚、肉、きゅうり、すいか、にら、にんにく、何でも食べられたのにと、脱出した後、エジプトに戻りたい、あそこの方が

まし!と思った人は、安定があるから、食べ物、給料があるから。こんな荒野で毎日、毎週、毎月、いつなんどき、移動するのかノマド、放浪生活なんて嫌!

この荒野の生活が、仮庵の祭りと直結しているのです。

 

仮庵の祭りは、「ハグ・ハ・スッコト」と言います。

エジプトを脱出する途中で、神がユダヤ人とそして少数の異邦人の先祖を、荒野の中で守り、避難させるために作った一時的な

住処に住まった事を記念するものです。

一説には、これは砂漠の太陽から人遮った奇跡的な栄光の雲を

指すと言われています。

火の柱と、雲の柱。神の臨在が実際に目で見えたのです。

イエシュアが、仮庵そのものなのです。

彼らが荒野で生きた40年間の旅で住んでいたテント、仮庵

イエシュアなのです。

そして、ミシュカンもそうです。

神の臨在が宿る場所、ミシュカンの至聖所です。

クリスチャンは、神は特定の場所に縛られていないと言いますが

考えて見てください。イエシュアは神であるのに、人となり

肉体という制限、時という制限を受けたでしょう。

神はどんな形を通しても、ご自身を人に表し、教える事が出来るという、聖書に書かれた事実通りに考えを切り替えて下さい。

神が指定し、聖別した場所を通して、人が神にどのように

贖われ、きよめられたのか、どのように神に近づくのか、祈るのか、対話するのか。神と人、人と人の関係をどのように修復するのか、いやしの全てをミシュカンの祭壇のコルバンを通して

教えているものだからです。

これは、レビ記に記された内容を、書いてある意味どおりに正しく学ぶ時だけに、神の家の中の全ての出来事、配置された家具

祭司が着る服、シャバットや祭りでイエシュアが教えられている事が理解出来るのです。