別の神 別の夫の声を聞く エジプトを出て夫を裏切る頭脳に割礼のない状態 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に記された神の言葉、教えの内容を混同し、混線して勘違いしている一番の問題は、神の性質の一体性、神の創造の一体性、神の言葉の一体性、イコール、神の契約に関することではないでしょうか。

 

パウロの書簡などは、これらの聖書ではない聖書解説を通して、

パウロが意図してもいない解説が、クリスチャンの間では教えられ

解説され続けて来ました。

 

パウロが手紙の中で議論している点は、当時の人の間にあった

神の教えとはズレた考え、偽物の教え、人が編み出した哲学思想

神秘主義、グノーシス主義、禁欲主義、悪霊の教えetc、そして伝統

で語り継がれた人間が編み出し教え=律法の戒め、先祖の言い伝え、口伝律法その他に関して、言及している箇所があります。

 

パウロは、神の教え=トラーを生きることを、律法主義だ!などと

教えてなどいません!

クリスチャンの間では、神の言葉を生きる、イコール律法主義だと

完全に勘違いした教えをされ続けています。

イエシュアに出会う〜信仰義認=譲渡契約と、神のものとされ

聖別された人になった以降の生き方=宗主契約=婚姻契約=

条件付き契約、この2つを一緒くたにして、それぞれの意味を

理解せず、混同しているのです。

これは、聖書を教える人が、契約の意味、内容を正しく理解せず、

それゆえに、2つの契約の意味を誤解した聖書解説をしているのです。

これです。花嫁になる以前と以降は違うことは分かりますよね。

誰かと婚姻関係に入る。それは、法的にもその相手との関係に繋がれて、責任が伴う関係になります。

だたの彼彼女の関係と、結婚した夫婦の関係は、法的にも、生き方も違います。

 

そして、最初の部分、花嫁とされること!これが譲渡契約なのです。

神が一方的に提示した「信仰による義」イエシュアの購いの代価は

神が一方的に提供しているのです。

この違いをはっきり区別してください。

信じるという最初の点、それを行いで得ようとする、義とされることを、人の行動や手柄で得る、これは出来ない!と最初から教えているでしょう。それをしても、無意味ですということなのです。

そして、神がエジプト=奴隷状態から、代価を払い、偽物の主人と

繋がれた鎖をちぎり、自分のものとした=取ったと、

出エジプト6:7にあるのは、娶ったという婚姻関係を表すヘブライ語で書かれているのです。

神の者とされた人、聖別された人には、神が提示する条件付きの

契約〜婚姻契約があるのです。

神の仰せ=契約に記された生き方を神が言われる通りに生きる人は、神を愛する人は神の仰せを生きる!と言われるとおりで、

それを捨てる人は、「夫を裏切る」エジプトを出た時の状態=頭脳に割礼がされていない状態の人を指して、警告しているのです。

神の婚姻契約に忠実ではない生き方をする人は、大勢いるでしょう

今も。

今は神の律法は廃れて、『本当は婚姻契約』そして、人が考えることを、人主体で聖霊に導かれてそれぞれが考えることを選び生きる!

こんなの、神の教えなどではない、別の霊=あのエデンの園の蛇の

騙しそのもの、危険な思想です。

異邦人は、最初から神の契約を教えられていない、生きてもいない、代わりに西洋人が作った宗教の教え、伝統、記念日を生きているのにそれが神の教えだと、錯覚しているのです。

 

これは、夫婦間でも分かるはずです。結婚したら、今までのような

独身時代、実家に生きていた生き方とは違い、嫁ぎ先の家の家訓を

生きるでしょう。

大きな単位では、普通の人たちの生き方とは違う生活をする、

王族や皇室、全く別のしきたりや記念日、慣わし、関わり、行事などがあります。

嫁いだらそれ以降は、嫁ぎ先の家の慣わし、それを1つ1つ学ぶではないですか。

神の家の花嫁、聖なる民とされた人は、イエシュアの性質通りに

取り戻された人なのです。

その人は、神が創造された通りの性質を生きる!と神が教えている

その詳細が書かれたものが契約=モーセの五書=トラーであるのに

それを理解しない人達が、古い教えは廃れた!と聖書に書いてもない

ローマ帝国皇帝の冒涜的勅令=神のトラーを生きるな!神の記念日を祝うな!それらをする人は、処刑!死刑!と決めた勅令を土台とした

宗教の教えを、信じた最初から教えられてしまっているのです。

 

言い換えれば、本物の主人=神=イエシュアが教える教え、生き方

ではなく、ローマ帝国が神に対しての冒涜的行為で塗り替えた教えを生きるように教えられてしまい、それを実践しているのです。

どちらが律法主義なのでしょう。人の教えを信奉し生きることこそ

空虚なことはないのです。半分嘘、半分本当。エデンの園の蛇の騙しと全く同じ。混ぜ物、コピー品だから、本ものを知らないと、

何が違うのかの区別ができなくなっているのです。

人の教えは神の教えではない、神の教えを人が変えてはならない!

と神が言われている事実に聖書から気がつかないから、神の教えを

捨てて、人の教えをやっているのです。

神は忍耐して、毒麦=偽物の教えに気が付くことを待っていると

言っているのです。

世界中にこんなに無数の宗派と、神の教えが否定される思想が浸透

することを、神がどうして許されているのか分かりません。

なぜ?は分からない。なぜ、子供が誘拐され悪魔崇拝する人の餌食に

なるの?モレク神に子供を捧げる行為は、どうしてずっとされているの?なぜという問いの答えは、分からない。

でも、最後はオセロの黒いコマは、全部白=神の伝える事実通りに

戻ることが預言されているのです。

神は、偽情報を一掃し、神が伝えたことが永遠の真実であること

神の聖別を世界へ神が証明する日が来るのです。

それは、イエシュアが到来された時に起こるのでしょう。

その時まで、偽物の教えに甘んじて別の生き方はしない。

今本当の生き方、本物の神の言葉に根付いて、イエシュアが教えた

通りを生きることに戻れるのです。

 

神の家に嫁いだ人=異邦人はもれなく全て、使徒15章異邦人と同じく神の教え=トラーを知らないのです。

事実、クリスチャンで、イエシュアが使徒が教えて、学んで、生きていたモーセの五書を知り、契約に根付いた生き方を日々して、

神の記念日を祝った人などいないでしょう。なぜ?聖書とは違うことをしているのか?と一人一人が考えて、聖書から答えを見つけるべきなのです。

クリスチャン、イコール、イエシュアを信じても、その後は、

実はローマ教の宗教の教えを学び、ローマ教の儀式、慣わしを教えられ、ローマ教が作った、日曜礼拝、クリスマス、万聖節、イースターを祝う、これが普通のクリスチャン、カトリックではないでしょうか。

クリスチャンで、イエシュアが教えたトラーをシャバットごとに学び

イエシュアが教えた通りの教えを生きて、そしてシャバット、新月

過越、仮庵の祭りを祝う?

そんな異邦人がいることは、今までは、聞いたこともありませんでした。

親がユダヤ人なら、文化的にそれを知って祝いますが、

普通のクリスチャンに、トラーを語り、シャバットや、祭りを祝う

ことを言ったら、それ何?律法主義?と普通に言われます。

イスラエルで買った、戸口に付けるメズサをあげたら、

これ偶像礼拝?と言った友人がいますが、神が教えている、

神が与えた印を、神が教えているのに知らない、それほど、

オリジナルの神の教えから遠く遠くかけ離れた、人間が作った宗教の教えが浸透しているのです。人が編み出した印ではなく、神が伝えるものを実践する。

 

神の教えを捨てる手がかり=神の言葉、記念日を全部捨てて、

そして、神の教えを塗り替えた宗教の教え、実践、儀式、記念日を

信じた最初から教えられてしまうのです。

聖書を読んで、その事実に気がつかないとならないのです。

 

マタイ以降に記されている全ては、神の言葉が終了し、別物の新しい教えや、別の救いの方法など、1つも語れてなどいません。

使徒達が解説しているのは、トラー、預言書、諸書です。

 

太古から語られる同じ福音!同じ教え=トラー!永遠に変わらない。事実、マタイ以降に記された聖書の後書き、註解は、西洋宗教の実践などは1つも記されてなく、純粋な神の言葉、トラー、イエシュアが教えられた父の教え、そして神が創造されたシャバット、新月、

過越、仮庵の祭りを祝っていることしか書いてないでしょう。

ローマ教=西洋宗教の教えや記念日は聖書に書かれていません。

 

義、救いを、行い、努力、又は肉の生まれで獲得できると勘違いした

人達は、いつの時代もいます。

行いではない!と言いながら、実際には宗教活動を熱心にやらされて、それが神を愛することなどと、完全に勘違いした生き方を教えられる、それこそが律法主義、神に対するズレた近づき方、関わり方

人造宗教そのものを教えられているそのものです。

 

1つ1つは、その裏にある当時の文化、実践、事情など知らないまま

読めば、本当に空想、憶測で勝手な思い込みをして、それが聖書

神の教えだと信じ込むことが起きます。

 

今の世界でも同じです。どんなことでも同じです。自分の憶測、

推測、空想を通して、真実ではないことを土台に考えても、

事実が見えないことがたくさんあるのです。

 

1)割礼 これは、多大に誤解されていることでもあります。

マタイ以降に書いてある「割礼」とは、アヴラハムの割礼のことではなく、当時のユダヤ人が編み出した「改宗儀式」を、「割礼」と

いう名で呼び、改宗儀式のことを指して語っているのです。

なぜなら、異邦人信者が、たくさん加わって来たからです。

異教徒であった異邦人が、改宗儀式は、神の仰せ、教えではないけれど、ユダヤ人が編み出した改宗儀式を通らないと、正式に救われない、神の国の一員ではないという、間違った思想、主張、実践があったのです。

そして、パウロは、アヴラハムの譲渡契約=信仰義認を表す「割礼」を無効、無意味などということは、1度も言ってなどいません。

パウロの論点を、理解しないとならないのです。

これを、パウロが、ローマ、ガラテヤ、コロサイその他で説明しているのです。

 

この諸外国に存在した群れは、ユダヤ人が中心です。

黙示録に書かれた7つのカハール=エクレシアも、ユダヤ人の群れです。空想で読み込みし、異邦人の教会!などと読んでいるでしょう。

ユダヤ人の群れ、そこに異邦人が加わっていたのです。

教会という本当に紛らわしい造語を、頭の中から消してください。

聖書には、ただの1度も「教会」という言葉は記されていません!

それは、人が作った不適切極まりない造語です。

デイスペンセーション神学、ローマ教、ユダヤ人と異邦人は別物!

というそれこそ、聖書とは違う偽物を信じる人が、読者に別物の2つの群れを印象操作する造語=別の言葉、聖書にない用語を作って

翻訳としてあてがっているのです。

 

元の言葉、イスラエルの神の1つだけの大家族、カハール、エクレシアを、マタイ以降では、創世記〜マラキまでを訳した言葉、「群れ、会衆、集会」とは訳さずに、同じカハール、エクレシアという言葉を敢えて、今まで存在しない言葉を作って翻訳として当てはめてしまったのです。

 

神の群れは、神の声に応答して、神の声に呼び出された人の群れを

表す、神の大家族、カハールです。

コル=声という言葉がヘブライ語には入っています。

ギリシャ語の、エクレシアも、ヘブライ語の翻訳です。

 ecclesia(又は ekklesia, ἐκκλησία)は、主に「集会」「集まり」「会衆」を意味します。
この語は ekエク(「〜の外へ」)と kaleoカレオ(「呼ぶ」)に

由来し、文字通りには「呼び集められた集会」を指します。

同義語では、「証」エダという言葉が使われます。

 

私達、聖別された人は、主の証人だからです。

その神の証人が、聖書=神の言葉で記されたこととは、違うことを

語り続けてはならないのです。

イエシュア=イスラエルの神ではない偽物の教え=人間の教えの影を

地上で勝手に生きて、イスラエルの神!などと言っては、やってはならない。

神を正しく地上で伝える、反映する。

そうではなく、聖書に書かれていない歪んだ、誤った神像を人に伝えて生きている。

イスラエルの神とは異なる神像を人に伝えている!これらを一切

やめないとならないのです。

進化論と同じく、変化、進化する神の性質と神の言葉、こんなこと

聖書のどこに書いてあるのでしょう?ありません!

 

そして1世紀当時のユダヤ人の間にあった慣わし、詰まり、

異邦人は、信仰義認では神の国に入れない。

行い=人が作った改宗儀式で神の国の一員と認められるというのは、神の教えではないのです。

このズレた思想、行動を、パウロが指摘しているのです。

そして、あるユダヤ人は、生まれが生物学的にユダヤ人、

イコール神との関係にあって安全!と考えている。

この意識もズレているのです。なぜなら、人は神が伝える信仰義認

子羊の血の代価=イエシュアを通して以外誰も父の元には戻れない!

とはっきり最初から教えているからです。

神の元に取り戻される事実は、エデンの園で教えられているのです。