聖書を「浅い読み方」をする場合、その中に書かれている事実は、
深掘りすることで、次々掘り出して行ける伸び代があります。
しかし、聖書を歪んだ、ズレた読み方をする、聖書を読む前提が
最初からズレていれば、それは、深掘りしても真実は汲み出せない
状態になります。
神の言葉は、DNAそのものであり、切り離せません。
聖書を正しく忠実に学べば、神の言葉は「木」そのもの。
全て繋がっているのです。
根、幹、枝、葉、果実。全部繋がっているのです。
命の木、神の言葉この幹、枝を切り落としたら、そこからは命は
生み出されなくなります。
神の言葉=命の木を捨てる行為は、それです。
箴言3:18 知恵は、これを捕える者には命の木である、
これをしっかり捕える人はさいわいである。
トラーの巻物は、「2つ木の取って」が付いています。
神の言葉=命の木、神の言葉=トラーをしっかり捕えて、
右へも左へもそれない生き方をするものは幸いであると書いてあります。
神の言葉、神の仰せ、神の声を捨てる人には、神の言葉、教えは
そこで切断されます。鬱血状態で、そこは壊死します。
神の深い考えを、言葉を通して人に伝えている、その手段=神の言葉を捨てよ?
これどこから来ているのか、誰の声なのか、聖書に照らし合わせて
考えれば、答えは永遠に揺るがなく、聖書の中、そこにあります!
神の言葉は永遠に変わらない。変えるのは、人、人をそそのかして
嘘を囁く別の霊です。
詩篇1編には、神の言葉に根付いた生き方をする人は、季節ごとに
御霊の実が実とあります。
季節〜1年の神の暦、シャバットからシャバット、モアデイムから
モアデイムを、神の言葉に根付いて生きる人のことが、詩篇の最初に書かれています。
詩篇は、神のトラー=教えの知恵に根付いて生きること、賛美、
イエシュアにより修復された人が神の前に新しい人として神と
対話していることが記されています。
これは、一年に渡る神のモアデイムを生きる人なら、この詩篇1が
何を意味しているのかはっきり分るようになります。
地上の歩み、新しくされた人が神のモアデイムからモアデイムを通して、新しい人の実態を生きる神のプラン。
それは、神が与えるレッスンプラン。日々の出来事の中で、古い人のまま生きている、それが何かを教えられるのです。
それに向き合い、成長する〜御霊の実が、神のモアデイム〜季節ごとになると書いてあるのです。
神の祭りは、全て収穫祭です。時が来る〜神の祭り=収穫祭〜実が
なると教えているのです。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを
思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者の
つどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
詩篇119編は、トラーに関してずっと記されています。
聖書に、どの箇所でも、仰せ、おきて、あかし、さとし、さだめ、
戒め、み言葉、道、教え、さばき、etc
これらは、全て神の教え=トラー=モーセの五書=父の教え、
イエシュアが教えられて、実際に生きた全てです。
詩篇119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、
119:90 あなたのまことはよろずよに及びます。あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。
119:91 これらのものはあなたの仰せにより、堅く立って今日に
至っています。よろずのものは皆あなたのしもべだからです。
聖書のどの箇所も、神の言葉は永遠から固く定まり、変わらない!と書いてあるのです。
詩篇や箴言を、律法などとクリスチャンは呼ばないし、そうとも
考えないでしょう。
律法というなら、それは、創世記からマラキまで全部律法です。
律法とは、不適切な翻訳なのです。
ある意味を言葉で表すのに、その言葉が、不適切では、本当の意味は
伝わらないし、人の誤解を与え、間違った固定概念を植え付けるのです。
ヘブライ語〜トラーを、ギリシャ語でノモスと訳し、
その言葉は、多様な事柄に使われる言葉なので、ギリシャ語から
他の国々の言語に訳された時「律法」という言葉に訳されてしまったことが問題なのです。
神の言葉=教えという意味を、正しく表さない律法という言葉を頭の中から金輪際全て削除して、律法と読む箇所を、
「神の教え、インストラクション、指針」と読み替えるのです。
パウロの手紙に書いてあるノモス=「律法」とは、ギリシャ語では、たくさんの意味に適用される「ノモス」が使われているので、文脈からパウロが何を指して、「ノモス」翻訳=律法と語っているのか、
正しく識別し、区別し、正しく読み解く必要があるのです。
なぜなら、パウロは、ノモスという言葉を、神の教え=トラー以外の
ことを語る時にも使っているからです。
十把一絡げに、ノモス=律法=神の言葉=古い教え!などと、
勘違いした読み方をしていては、正しく神の言葉=聖書を理解することから、ズレたままになります。
古い教えなども聖書にはありません!全部同じ!
これは、何度も話している内容ですが、神の言葉の完全版は、
モーセの五書以外にないのです。
そして、その箇所は、契約が再更新されても、内容は変わらない。
異邦人に対しても同じです。契約は1つしかない。
神との関係を根拠、土台として神が提示する契約は、1つしかないからです。
もし、クリスチャンには関係ない!というならば、それは夫を無視
これ、エレミヤ31に書かれている、エジプトを出た時の状態ではない!ということと、反対のことをやっていることに気がつかないと
ならないのです。
頭脳に割礼がない〜エジプトを出て、契約を受け取ったのに、夫を
即座に裏切った。それは、神の教えを無視して、金の子牛で、
イスラエルの神を拝んだ、祭りを祝った!と書いてあるのです。
その意味は、人間が編み出した、宗教、教えを通して、神に近づく行為=裏切りです。
そのような状態ではない、頭脳に割礼がされた状態になる、
それが未来預言です。
ユダヤ人も皆、イエシュアがメシアと知る、異邦人も今のように
神の教えが廃れた、関係ない!終了!そのようなことを言う人は
一人もいなくなると預言されているのがエレミヤ31:31です。
新しい契約=再更新される、中身はシナイ山の契約!同じ契約。
イエシュアが教えられたのは、父の教え=トラー=モーセの五書
だけです。イエシュアは、自分が生きたから、これからは神の教えを生きる必要がなくなったなどと、馬鹿げたことを言うメシアなどではありません!
それでは、人が何を生きたら良いのか、神から教えられている言葉を捨てて、好き勝手に無法を生きよ!と教えていることになります。
モーセの五書以外で「神の教えの完全版」はないのです。
福音書〜黙示録は、別の新しい教えでも、別の契約でもないのです。
モーセの五書=トラーを削除、否定、終了した教えてなどでは
ありません!
神の教えの完全版は、マタイ〜黙示録には記されていません。
神の教えの抜粋、短い註解、解説のみです。
こんな基本的なことが、分からなくなる。だから、神の創造の世界も
クリスチャンは今や塗り変え、サタンの教えを推奨しているのです。
LGBTを擁護、支援する?もうこれは、イエシュアの名を利用した
悪霊の働きに参加しているそのものです。
このようなズレは、神の言葉をどの箇所も捨てる行為から始まるのです。
復活されたイエシュアが、エマオの途上で弟子達と出会い、
彼らにメシア=イエシュアがモーセ、預言書に記されていることを、
紐解いて教えな教えている箇所があります。ルカ24。
ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、
聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、
説きあかされた。
2000年前、イエシュアが地上に来られるまで、イエシュアを
知らない、分からない、聖霊が住まわない、贖い、救い、許しがない
と考えているなら、それは聖書に書かれたメシア=イエシュアを理解していないから、そう考えるのです。
肉体を取って人となったイエシュアに、直接出会った人は、歴史の中では少数です。
2000年前の1世紀、イスラエルに住んで、イエシュアに遭遇した
人たちがいます。少数の人々です。
しかし、イエシュアが来られる以前も、直接イエシュアに出会った人々のことが、トラー、預言書、諸書を読んで気がつきますか?
例え、人となったメシアに直接顔と顔を合わせて出会うことがなくても、人は同じ贖い、救いを受けて来たのです。
イエシュアは永遠の中に存在しています。
メルキゼデクの位に属する大祭司、はじまりも終わりもなく、家系図もない。地上の祭司のレビ族でもない。天に属する大祭司だからです。
永遠の中に屠られて完了している子羊の血の代価を、トラー、預言書
から理解しているから、黙示録で、この世の礎が創造される以前から
屠られた子羊の命の書に書かれている〜とヨハナンが解説している。
モーセも同じように、理解しています。
出エジプト32:32今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
モーセは、シナイ山の山頂〜天の中で、イエシュアと出会っていたでしょう。長老たちも同じです。
出エジプト 24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよび
イスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。
24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。
神は人間ではないから、足などありません。人となったイエシュアが
シナイ山の山頂で、契約を結ぶ時にモーセと長老たちと出会い
契約を結び宴会をしたのです。
24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。
24:12 ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしがトラーと戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。
アヴラハムも同じです。様々な出来事を通して、「譲渡契約」
を受け取る時も、そしてイサクを捧げた時も、アヴラハムは、
イエシュアに直接出会っているのです。
そして、イエシュアがされる業を、イサクに対して行うように言われたことを通して、アヴラハムははっきり、イエシュアの贖いの業を
理解していたのです。
ヨハネ 8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じ
ような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、
その御言を守っている。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして
楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
創世記22:18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。
ヤコブもイエシュアに出会っています。そして内側の変貌があったのです。
創世記 32:26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせて
ください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
32:27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。
彼は答えた、「ヤコブです」。
32:28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい
あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。

