"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -4ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人イエシュア信者、クリスチャンの間に4世紀以降浸透した

人間、ローマ帝国皇帝が作り出した人造宗教の教えであることも

余り認識されていません。

その代わりに、ローマ帝国皇帝が主張した、神の教え=トラー

モーセの五書を実践することを禁じる!という勅令は、神の

勅令、仰せではないのに、それが神の仰せであるという偽物の

教えが土台となった人造宗教の教えが浸透したのです。

 

キリスト、メシア、子羊の血の購い、救い、エデンの園のアダムとハヴァから、全く同じ救い、購い、聖霊が信じる人の内側に

住うことは、永遠の中に用意され、物理的地上の世界が創造されてる前から、神の性質、神の教え、子羊の血の購い=神の救いの方法は、ずっと1つ同じであるのに、新しい教えが2000年前の昇天以降初めてそれが実現し、それでキリスト教という新しい教え、メシアを初めて人に伝えられた、初めてメシアを通して新しい命をもらう、新しい時代が来たと勘違いしているのです。

 

見えないもの、永遠の中にあるもの、神がこの世界の礎を造られる前から用意された子羊の購いの代価。これを、アダムから

ノア、アヴラハム、全ての人、未来に地上に来られるイエシュアが来る前からその事実を神に教えられて、同じように救われ、

同じように許され、同じように聖霊を受けて生きていた、

残りの民の事が聖書には記されているのに、その事実に気がつかないまま、2000年前に全てが稼働、有効となったと考えているのがローマ教=人間が作った教えです。

 

聖書の最初の75%と、最後の25%が違う教えであると考えている時点で、ずれた思想で、聖書とは違うことを読み違えている!とはっきり認識する必要があります。

そして、最初の部分の神の教えは廃れた、終わった厳しい律法などと考えている、それは神の教え、言葉ではなく、ローマ帝国皇帝の勅令を刷り込み続けられている!ということにはっきり気がつけば良いのです。聖書にはそれが書かれているのです。

クリスチャンが律法と言っている、それはトラーであり、福音書

以降に記されている教えは、全て1000%トラー以外にない!

と言うことを、認識していない問題があるのです。

プラス、ローマ教が主張するように、人間が神になり変わり、

自由自在に時代ごとに神の教えの解釈を人が変えて良い!などと

言っている、神はそれをすることを厳重警告しているのです。

人間が神になり変わり、聖なる父と呼ばれるこの大冒涜の上に

成り立つ教えは、神の教えなどではないのです。

 

クリスチャンは神の教えを意図的に無視して、捨てているのではないのです。分からないから、知らない間にそれが正義であると信じているのです。どうして、神の言葉を書いてある通りに読み取らないのか、それは、古い廃れた教えは無効!という人間の

教え、デイスペンセーショ神学思想だけで、聖書が解説されてしまっているから、それが聖書、本当と思い込んでいるのです。

 

本当のことに気がついた人は、神の本物の教えに今皆戻って

いるのです。進化論は嘘!と分かれば、その嘘に2度と戻れなくなるのと同じことです。分からないから、嘘でもキリストの名を

唱えてれば、本物と錯覚してしまうのです。マタイ7にある通り

無法、主よ主よと言いながら、主の言うことを無視して、神の教えではない無法、勝手な教えを主の名を使いやり放題が警告されているのがそれです。

神はクリスチャンの間で教えられているように、愛があればなんでも良いなどと言いません。

愛とは、神が提示している契約の愛の生き方全てを愛と言って

感情や親切心のことだけを話しているのではないのです。

神の子らが、神の言われることを無視して、それぞれがそれぞれの定義した勝手な生き方をする、それこそが無法なのです。

 

マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

<み胸とは、神のトラー、神が言われた通りを生きることなのです。イエシュアも言われた通り、父が言われたこと、イコール神のトラー以外言わない、しない!と私達に示して教えている通りだからです。>

7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=トラー無しを働く者どもよ、行ってしまえ』。

神に何を言われているのか理解できれば、意図的に神の言葉

教えを捨てよ!などと考えるのは、冒涜であり、神を愛する人はそんなことをしません。

神の教えを捨てるのは、それが恵の時代の良い生き方、行いで

あり、救われた人は、神がやっと十字架で破棄された一時的な

厳しい教えに戻るようなことが、悪い、恵を捨てた生き方だ!という大嘘を本気で神の教えだと信じているから、それが正義だと勘違いしているからそうしているのです。

 

自分の頭でクリアーに考え続け、注意深く神の言葉を探れば

聖霊が永遠の真実、聖霊が書かれた神の言葉が永遠不変の真実であることを、神の言葉からはっきり教えてくださいます。

 

神の言葉のどの箇所でも、神が一点一画も付け足し、差し引きするなかれ!という神の警告を無視し、それをする人は、神の言葉

声を聞いているのではなく、別の声、狼の声を、お母さんの声と

勘違い、間違って聞いているのです。別の周波数、別のチャンネルの教えを聞いている。

 

ある人が、シャバット、新月、過越や仮庵を祝うのは古い律法

恵のない怒りの時代、律法時代の古い教えで、ユダヤ人だけの

ものだから、そんな古い律法に戻るのは悪いことだから、

祝わいません!と言っていたのを聞きました。

これは、こういうことを言っているのです。

聖書に何が書いてあるのか、神が何を生きて、何が神のモアデイム、アポイントメントの日であるのか、神が教えていることを

その人は分かってないということです。ローマ帝国が混ぜ物宗教を作り、そして神のトラーを生きることを全面禁じた!と言うことを、全く知らないままなのです。

そして、そのローマ帝国の勅令が、神の仰せだと勘違いしているのです。

永遠不変の時刻表、暦、神の記念日の全て、これから未来新しい世界、新しい時代が来たら今度は全世界が祝う、神のモアデイムの全部がレビ記23章に書かれています。

それを、ローマ帝国という別の主人が来て、これらはもう古い

律法、一時的な教え、記念日なので終了、今は違う呼び出し日、記念日になったのだ、でもそれはローマ帝国創作の教え。

神の教えとは真逆。

これらは古い一時的で悪い、人を縛る律法の記念日で、新しくされた人は、別の記念日を祝うんだよ!と別の主人の声を、神の声と勘違いして、隣の主人の言うことを熱心に聞いて、自分の嫁いだ家の家訓、記念日を捨てて、別の主人の言うことを聞いている状態なのです。主人との記念日は祝わず、隣の旦那と別の記念日を祝う、そのこと自体がおかしいと分かりませんか?

それとも、自分の旦那が、隣の旦那と親しくして、隣の旦那と

別の記念日を祝いに行って良い、自分との記念日は祝わなくて良い?そんなことを言うのは、おかしな旦那でしょう。

浮気を許す旦那。おおらか?そう言う思想を言っているのです。

宗教の教えは。

家訓を捨ててるとも思わない。それが今の時代の正義!と教えられている、律法に戻るのは悪い!と教えられているから、それをすることが悪いこと!要らないものだ!と、完全に洗脳刷り込みされているのです。祝福を奪われていることに気が付けない。

しかも、神が今は何でも良いと教えているとまで、解説しているのですから、何が本当か分からないまま、恵と祝福を捨てているのです。

ヘブライ語には動詞は、7つ種類に変化します。

接頭語、接尾語の文字が変わると、同じ意味の言葉が変わるのです。

意味が変わると言うのは、意味自体ではなくて、例えば、

自分が〜をした、と言う能動態と、自分に対して(誰かに)

〜をされた、受動態と英語でも習う動詞の状態が違うと言う

意味になります。

呪われると書いてある言葉、これはヒットパエルと言う型ですが

自分が自らしたことが、自分にふりかかるという意味になるのです。

日本語では何と言うのか分かりませんが、再帰、自分のしたことが自分に帰ってくると言うことです。

詰まり、神の言葉、教え、鎧兜を捨てる人は、神がその人に災害を被らせるのではなく、自分でした行為で、災難を自分の身に

招く行為をしていると言うことなのです。

でも、神の言葉を捨てることが正義!と言う偽情報を教えられる場合、危険が分からないまま、神の教えを捨てている、鎧兜

安全な要塞、安全地帯を飛び出し、危険地帯に足を踏み入れる

行為をするのです。毒を打って、死を招く、健康被害を受けるのと同じ。偽情報で騙されて、善を悪、悪を善と言われ、その嘘を

信じて騙されるのです。

これを、蛇がずっとエデンの園の最初からしているのです。

だから、その正体は、神のトラーと、神の時、記念日を変える

と言う特徴をずっと最初から神が教えているのです。

 

そんなに深刻なことと思わないでしょう。一体何が悪いの?

命の木以外食べても大丈夫って蛇が言ってる。神は本当にそう言ったの?とまで言われたら、そんな意味で言ってないかもと

神の言葉の方を疑い、蛇の言うことが正しいと考えたでしょう。

それと同じことを、ローマ帝国創作の宗教の教えがずっと

やり続けているのです。

神の教えを捨てることこそが、最も愚かで、やってはならない

危険な行為であると神が教え、神の禁じられていることであり、

別物の宗教を生きるとは、神=イエシュア=聖霊とは違う、

偽物の影を地上に映し出しているのです。本体から離れて影は

勝手にやって、イエシュアではない別の影を映し出す。

神を愛するとは、神の言われたこと、トラーを生きる!と

はっきり聖書の全体で教えられているのに、どうして神を愛する人が、神の言葉をこれほどまでに軽んじる、蔑ろにする、又は

敵対心を持つ発言をし互いにし、律法は廃れた、恵のない生き方だ!と言う666の声に賛同し続けているのか、その声の出所を聖書から探り出せば良いのです。

 

異邦人クリスチャンの世界で教えられている聖書解説は、聖書とは異なるものがたくさんあります。

土台が神の言葉を否定する人間が作った思想だからです。

そして、聖書には2つ別、古い、新しい、又は捨て去るべき教え

と、新しい教えが書かれていると完全に勘違いしているのです。

 

あれと同じ。猿の惑星の最後のシーンを知っていますか?

主人公である人物は、ニューヨークの海岸を歩いているのですが

猿の惑星にいると思っているのです。

でも、目をあげてみたらそこには破壊された自由に女神の像が

立っていて、ニューヨークは破壊されてボロボロになっている。

だから、自分の前いた場所に居ることに気がつかなかったと言う

エデンデイングです。

それ同じです。人間が神の教え、言葉に手を加え、偽物神学で

神の教えを全く曲げて解釈し続ける、神の言葉が破棄、終わったと言う思想自体が、諸悪の根源なのです。破壊の大元。

だから、何が聖書に書かれているのか、読んでも他人事でしょう。

これから未来イエシュアが来られる預言的祭りであり、秋の祭りの一連が始まるのに、クリスチャンの間では話題にも上らないし

その準備もしないし、それらが何かも知らないし、第一祭りがあるなどと知らない。それを聞いたとしても、自分に関係ない教えと本気で信じて、神が一人一人を呼び出していると言う認識さえないのです。

ぜひ、そのことに不思議に思ってください。一体何を信じて生きているのか?と言う根本を考える必要があるのです。

誰の教えを生きているのか?

聖書を読んで、どうして別物の教えが書いてあり、どうして

ローマ帝国が作った思想=神の教えは廃れ悪い古い律法と信じているのか?それならば聖書を読む意味がないのです。

なぜなら、聖書は黙示録の最後まで、トラー=モーセの五書=

神の教えの解説しかしていないからです。

神が人に与えて預けた神の書に付け足すもの、差し引くものは

呪われる!とあるのは、その行為は、守りを自ら捨てて、違う

偽物の教えを生きて、少し神の教えを混ぜると言う混ぜ物ミックス教をやっているから、安全な囲いに穴を開けて、危険なものが

進入できるような状態にしているからです。

 

聖書が2つ別の教え、時代ごとに別の教え、人種ごとに違う教えと言う嘘、偽情報、ローマ帝国教に基づき人間が作った置換神学やデイスペンセーション思想で聖書を曲げて読む事こそを破棄すれば、聖書に書かれた通り、神の言葉は自分に向けて全て今も

同じように、古代の人と同じように語り続けられていることに

気が付けます。

偽物の主人の教えや招きではなく、神の教え、招きに応答する

それが神に呼び出された聖別された人の生き方だからです。

 

 

 

 

 

 

神の教えを人間が破壊し続けるから、別物を見せられ続けて

本物=神が伝える永遠不変の言葉、教えが見えないままになる。