神の創造された世界 時 そして人の生き方はトラーに記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

申命記では、「10の言葉」出エジプト20章にある第4番目を

約束の地に入る第二世代に語り継いだものです。

再更新された同じ契約、それが申命記なのです。

申命記は、古代中近東に存在した「宗主契約」とそっくりそのまま、

同じ形で記されている契約書です。

この契約書は、記されている専門用語が、婚姻契約用語なので、

契約内容が、婚姻関係の契約書であることが分かるのです。

 

だから、クリスチャンも、聖書は神さまからのラブレターと言って

いるでしょう。そのラブレターがどうして歴史の途中で廃れ、古く、悪いものに変わり、別もの〜福音書以降は別のラブレターが出たなどと、聖書を読み違えているのでしょうか?

福音書〜黙示録は、最初の部分の短い抜粋の解説にしか過ぎないのです。新しい契約、新しい聖書、教えではありません!

福音書以降は、聖書のたった25%です。その理由は、そこは聖書の最初の部分の短い解説、抜粋、後書きであり、神の教えの全ては福音書以降には記されていないからです。どうして?それは、最初に完全版が既に完結し、書かれているので、それを繰り返し全部書き記す

必要がないからです。

聖書の最初の部分を知っているイスラエルに対して、タナックを

知っている前提で、福音書〜黙示録の短い後書きが記されているからです。しかも、その25%は使徒達の書いた書簡であり、預言者が

書いた聖書ではないのです。預言者達が書いた聖書を、使徒達が書簡、手紙として、短い解説、註解として書き残しているだけなのです。この意味が見えますか?

聖書が完全版であり、聖書に聖書と書かれているのは、モーセの五書

預言書、諸書のみを指して、聖書と書いてあるのです。

福音書以降も、もちろん聖書、聖霊により記された聖書=

モーセの五書、預言書、諸書の解説!!!だから、福音書以降に

モーセの五書=トラーを塗り替える別の教えも書いてない、モーセの五書を否定する教えも書いてない、又は人間の意見で好きなように

神の教えを、削除、破棄、無用、終了として良いなどとも1つも

書いてないのに、パウロがそう言ったなどと、クリスチャンは完全に

パウロの手紙を誤解した解説だけを聞いているから、神の言葉に対して、完全に違う聖書概念を植え付けられてしまっているのです。

それら、モーセの五書破棄という教えは、神の言葉、宣言、教えではなく、ローマ帝国の勅令、ローマ教の教理、法律であることを、

はっきり知って下さい。

神の言葉、教えなどではない、人間が決めたことです。

 

一方、神の言葉=契約は永遠普遍です。

シナイ山で与えられた石の板に記されている10の言葉は、神の

婚姻契約=トラー、神の教えのタイトル、要約です。

モーセの五書、全体でこの「10の言葉」を解説しているのです。

10の戒律という言葉と、神の10の言葉とは受け止める印象が

だいぶ違うことが分かりますか?

モーセの五書=トラー=婚姻契約は神の教えの完全版です。

これが、神が創造された人〜イエシュア〜神の似姿の人々が生きる

個人、共同体の生き方であることが、記されているのです。

 

そして、ヨシュア記〜マラキは、全てこのモーセの五書の解説なのです。神の言葉を勝手に塗り替えたのは、ローマ帝国、皇帝、教皇、

司祭達なのです。神が禁じていること、神の言葉に人がつけたし、差し引きてを加えるなかれを、真っ向から違反した、異教徒あがりの

異邦人司祭達。神の教えに違反して勝手に偶像を作り、取り入れ、

死者を拝み、異教神宗教の偉人達まで拝み、様々な異教の神々、女神のシンボルを作り、異教の神々、女神の祭りを自分たちの宗教風に

リニューアルして記念日を作りました。

それだけではなくて、神の創造された記念日を全て捨てさせたのです。そして、安息日=第七日目のシャバットも、日曜日に彼ら、

ローマ教が、宗教会議で変更したのです。

だから、今クリスチャンは、神が創造された記念日が、聖書を読みながら、イエシュアを信じながら、それらが何なのかも知らないのです。

325年ニカイヤ会議、364年ラオデキヤ会議のシャバットを禁じる、シャバットを汚し、労働せよ、から始まり、その後何世紀にも

渡り、ローマ帝国は神の記念日を捨てることを、神の教えを捨てる事そしてローマ帝国が定める教え=人造宗教の教えを生きることを、

帝国の、宗教の法律として再更新し続けて行ったのです。

 

だから、最初の部分、タナックを正しく知らないまま、福音書以降の聖書の後書きだけ読んでみても、しかもローマ教が作った教えに照らし合わせて読んでいるから、ヘブライ人である聖書記者が記した、

トラーの解説が浮き出てこない、歪められて別物の教え、解釈が施されてしまっているのです。

歌舞伎なのに、フラダンスという別物の姿、解説になってしまっているのです。

申命記5章は、安息日は神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から

救い出されたことを記念する日であると述べています。

これは、イエシュアを通して、贖われ、救われた人、全てに起きたこと、当てはまる出来事なのです。

そして、神がイスラエルと契約を結んだ印として与えていると神は

言われたのです。

異邦人もイスラエルと共に脱出し、今も異邦人全て、神が与えた

同じ婚姻契約の中に同様に加えられると、神が説明していることを

知らないのだと思います。そして、同じ1つの神の大家族の家訓〜

契約に異邦人もイスラエルと共に加えられたことだけが聖書に記されているのです。

 

民数記15:15会衆たる者は、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の定めに従わなければならない。
これは、あなたがたが代々ながく守るべき定めである。
他国の人も、主の前には、あなたがたと等しくなければならない。

 

エペソ2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に

建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある

聖なる宮に成長し、

2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神の

すまいとなるのである。

<主にあって1つの建物〜神の宮なのに、デイスペンセーション神学や、置換神学は2つべものの群れという、聖書とは真逆に人間の思想

ローマ宗教の勅令を語っています。

ユダヤ的なことを、一切切り捨てよ!排除せよ!という勅令。

 

 

ガラテヤ 3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

 

 

1コリント12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、

からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、

キリストの場合も同様である。

12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、

奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるように」バプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは

その肢体である。

 

出エジプト31章にも、同じことが記されています。

 

出エジプト31:12 主はまたモーセに言われた、

31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

 

出エジプトは、永遠の中に屠られた子羊イエシュアの贖いを実際に

歴史の中の出来事、エジプト〜狭い、苦しい、悲しい、制限のある

その奴隷であった場所から引き出し、そして水を通り、約束の地に

向かう荒野〜ミッドヴァ、神の声を聞いて生きる訓練の場所に導かれたのです。イエシュア〜神の臨在が、ミシュカンの中に、そして、雲と火の柱で、守られ、荒野を水が湧き出る岩が付いてきた。

全部、イエシュアの救い、贖い、仮庵、神の供給、助けを実際に

五感で体感して学ぶことを、神が用意してくださったのです。

そして、この同じ契約に、全ての人が加えられと教えているのです。

 

神の花嫁として娶られた人が、神の伝える神の家の家訓を、生きません、廃れた古い律法なので、捨てます!などというのは、ローマ帝国の勅令を復唱=偽物の教えを復唱し、花婿の招きを拒絶していることを知って下さい。

好き勝手に生きるのは、okなどと神は言いません。

神が伝えた通りを生きる、それが神が創造された人間の本来の性質

生き方だからです。シンプルでしょう。

 

ですから、私たち一人一人が主の導きによって以前の偽物、奴隷生活から連れ出され、海を神が分けて渡らせて脱出させて下さり、古い

生き方を水=イエシュアの命、言葉で洗い流し、再び元の生活〜エデン=喜び=神の中に生きることに戻る道を切り離してくださるのを見る時、主は私たちを以前の生活から連れ出してくださる事を、個人の体験として発見するのです。

体だけではなく、頭脳=意識、思考回路、出エジプトをさせられ続けているのです。

イエシュアを通して、全ての人は新しくされ、父の元に戻った事実があります。それが過越の祭りで表されているのです。

新しく創造された人を、神のデザインされたシャバットからシャバット、新月から新月、祭りから祭りを1年にめぐり生きる時、神は一人一人に特別な方法でアプローチし、出会い、パン種除去をさせ、

成長させてくださるプランを持っているのです。

だから、神の時、暦を無視する人には、神が何をされているのか

何を自分に教えているのかを、見逃してしまうことが起きてしまうのです。

エジプトから出てきた次の世代にとっても、シャバットは、神があなたを聖なる者とし、神が持っている目的、プラン通りの何かをする

ために、あなたを聖別してくださるという「印」でもあるのです。

ですから、こうした特別な思い出や記念は、シャバットや祭りが

単なる古代の歴史ではないことを示しているのです。

 

「永遠に祝われるわたしの記念日」と、神が言われているからです。

ユダヤ人の記念日などと、一言も聖書には記されていません。

神が創造し、神が神の子らを招いている記念日なのです。

人間ローマが作った記念日は、イエシュアが再臨されたら祝われなくなるのです。

神との関係にある印は、神の婚姻契約、その印が、この神が創造されたモアデイムに基づき成立されているのです。

不思議な教えですよね。だから、神の語る教えを知らない人には、

神の教えがおろかに聞こえるとあるのです。

 

神の創造された時、モアデイムの中を、そ私たちが日々、毎週、

毎月、祭りごとに経験し、歩み続けるものなのです。

ですから、安息日ごとに思いを巡らせ、神が私たちの中で何を始めてくださったのか、そして神は私たちをどこに導いてくださっているのかを考えることができるのです。

 

使徒たちの著書、特に福音書を読み進めていくと、イエシュアが特に安息日に人々を癒していたことが分かります。

イエシュアは安息日に多くの癒しを意図的に行っていたのでしょう。

シャバットは、7、完全、完結、癒し、修復、回復、元の状態に

戻る、エデンに戻る事を皆で思い出して生きる日だからです。

 

ヨハネ1:1-14にはこう記されています。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。そして言葉は肉となった。私たちの間にミシュカンを建て、私たちの間にこの天幕を張った。」

この箇所をヘブライ人が読んだら、言葉=神=肉体を取って来られた

イエシュアであると書いてあることを、はっきり把握し理解するのです。

更に、創世記の冒頭、神の言葉により、イエシュア=光が出現した

創造の最初に繋げて考える事ができるのです。

 

そして、その目に見えないイエシュアが、荒野で、神のミシュカンを通して、人の間に住まった事実を体験したことが、記されているのです。言葉=トラー=肉体=イエシュアとなったと理解して下さい。

そのイエシュアご自身を、ローマ教が否定し、神の言葉を捨てよ!という蛇の声を主張した、そこから異邦人の間では、人造宗教が始まり浸透してしまったのです。

 

主の言葉=イエシュアご自身が何かをするためにこの世に来られたのが分かります。それは受動的なものではなく、能動的なものです。

神の言葉が永遠に真実である、実際の証明、そして、神が創造された

本来の人は、イエシュアが生きた通り、トラーそのものを生きる事を

実際に地上で生きて見せて、人に証明し、教えるためでもあったのです。

そうでなければ、神の性質通りを、生きる本物、お手本を他で見ることはできないからでしょう。

 

続く