神のモアデイム 福音はモアデイムを通して教えられている 人間の教えは聖書とは異なる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イザヤ1:15にはこうあります。

「そうだ、たとえ祈りを重ねても、わたしは聞かない。あなたたちの手は血に染まっているのだ。」

そして、数節後にも、彼らがいかに無礼で、未亡人や孤児たちの必要を満たそうとしなかったかについて語られています。

これはイザヤ書のほぼ全体に当てはまる問題です。

神のトラー=婚姻契約、教えに反する生き方をしていた人々に対する

神からの警告を、イザヤは伝えているのです。

 

民を導くべき責任者たちが、神の教え通りに民を導いていませんでした。「祭司の王国」は使命を果たしておらず、民を教え、主の御前に近づくよう助けるべき祭司たちも、その任務に失敗していました。

確かに彼らは何かに近づいてはいましたが、それは主とは全く異なっていました。それはイスラエルの神が伝えた教えとは異なる生き方

をしていたのです。

 

秋の祭りの第7月の10日の大贖罪の日に、読まれている聖書の一節は、イザヤ1:18です。

 

「たといあなたがたの罪は緋色であっても、雪のように白くなる。

紅のように赤く、羊毛のようになる。」

一般的なキリスト教〜クリスチャンの解釈では、イスラエルの民が

正しい行いをしていなかったため、主は「よし、このモアディム〜

神の記念日、アポントメントの日、やり方はうまくいかない。

プランBに切り替えよう」と言われた、と解説しています。

問題は、彼らがイザヤの時代よりずっと前に、神のトラー=婚姻契約=教えをゴミ箱かシュレッダーに捨ててしまっていたことにあるのです。

問題は、そのようなクリスチャンの間でおしえられているものは、

神が創造された記念日や、神の教え=トラーではない!という永遠の事実に気がついて下さい。

神は神の教え、記念日を永遠に変えない!!からです。

 

イザヤ1:21はこう警告しています。

「忠実な町は、娼婦と化した。かつては正義に満ち、義に満ちていたのに、今は人殺しとなっている。」

イスラエルに来たアダドたち、皆さんもご存知の証人たちのことを

考えてみてください。彼らに何が起こったのでしょうか?

 

彼らの殆どは死と残酷な罰に直面しました。良い結末を迎えることはありませんでした。なぜでしょうか?それは「使者を撃て」という

古くからの教えです。「メッセージが気に入らないなら、使者に

やっつけろ」という教えです。

だから、預言者や使徒達はことごとく殺されたのでしょう。

 

イザヤ58章に早送りすると、主に贖罪の日について語られていますが、神が創造された安息日〜シャバット=第七日目を喜びと呼ぶことについても語られています。

これはイザヤ書の冒頭とは少し違うように思えます。

 

まさにこれこそが、すべての預言者たちによるイスラエルへの呼び

戻しでした。人は自分がどこから来たのかを思い出す必要があります。あなたの最初の愛〜婚姻契約=神が人に伝える言葉、教えを思い出してください。

シャバット、神のモアデイムは、神が神の子らに与えた「印」

婚姻指輪だからです。神との親しい祝宴、喜びの日を共に祝って

喜ぶ、修復される、回復される、関係を育むこと、これを捨てさせて

別物にすり替えたのがローマ帝国教なのです。

 

イザヤが彼らを非難しているのは、イスラエルの民が物事の始まりの神の計画や教えを知ってやっていると主張しているにもかかわらず、彼らの行動や人々にさせようとしていたことは、神の意図とは全く異なったことをしていたからです。

 

私たちは新月を祝うたびに(クリスチャンはもちろん神のモアデイムを祝って来ませんでしたが)イザヤ66:22-23を引用します。

そこには、来たる時代において新月が重要な位置を占めると記されているからです。意味が見えないでしょう。何それ?て感じにしか

思えない。神の教えていることを、神のモアデイムを捨て去り、教えられず、祝わないから分からないままなのです。

 

神は天の万象〜光を、神のモアデイムを司るために 造られたと

人に伝えています。神の祭り、過越も、仮庵も満月です。

そして、月の満ち欠けを通して、神の婚姻契約は永遠に有効であることを、肉眼に見える形で人に教えているのです。

神の教え、トラーが捨て去られた長い時代は、新月になる前の暗闇と

同じです。でも必ず、神の教えは、フルに輝き世界を照らす日が来るのです。

 

問題はリセットされるようで、忘れ去られることではないようです。

もう一つの問題は、一体にクリスチャンの中で何が忘れ去られたのか?という解決しなければならない問いがあることなのです。

神の教え、婚姻契約、はじめの愛を忘れた!と、神の婚姻契約を捨てて生きた群れ=これはユダヤ人の群れに対して語られていますが、

5つの群れ〜5はモーセの五書、婚姻契約を忘れ去り、それぞれ

別の教えの混ぜ物を生きた警告が記されているのです。

2は、神の契約の石の板、トラー=婚姻契約の忠実に生きて、賞賛

だけしか受けなかった二つの群れに対しての励まし、賛辞が記されているのです。

私たちは、この神の教えから何を覚えておくべきなのでしょうか?

 

レビ記23章とイザヤ書66章を比較すると、後者には新月、ローシュ・コデシュ、そして安息日について言及されていますが、7年ごとに訪れるシュミター(安息年)のような、より長期にわたる定められた時期については触れられていないことに気づくでしょう。

50年ごとに訪れるヨベル(ヨベルの年)についても触れられていません。

詰まり、最後は全ての人は、所有者の元〜神の元に戻り、完全に修復された状態になり、全ての人は、神の大家族として神のトラーを生きる。エレミヤ31:31に預言されている通り状態に戻るからです。

エデン=神の中、に戻るからです。

 

ペサハ〜過越祭とシャブオット(ギリシャ語 50日ペンテコステ)の間の7週間、穂を数える週を過ごしていくと、安息年やヨベルの年におけるパターンの多くがここに凝縮されていることを発見します。

全ては、「7」完全、完了、完結、修復を表しているものです。

第七日目の安息日がありますが、これは、イエシュアがされた

永遠の中に屠られた子羊の贖いのメシア的成就です。

全て永遠の中に完結された状態で、物理的世界が現れ出て6日間で

完成し、7日目に、神が意図的に止まられてのです。

 

安息日〜第七日目は、神の創造の感嘆符!完結、完了を表すものです。

イザヤ45章を見ると、とても興味深いことが分かります。そこには「わたしはイスラエルをいたずらに創造しなかった」と記されて

います。

ですから、主がイスラエルを召された理由はそこにあったのです。

神が世界を創造したように、同様にイスラエルを選び出したのも、

単に他と区別され、異質な存在にするためだけでなく、イスラエルの神の造られた本来の人間の生き方は、この世、異教の神々に染まっている世界の人の生き方とはダントツに違うものなのです。

イスラエルの神の性質を生きるという特別な目的を与えられ区別されている、神の性質をそっくりそのまま、正確に魅力的に地上で生きて、目に見えない神の性質を表す存在として、イスラエルが持っているものを世界が欲しがるようにするためでした。

全ての人が、神の創造されたオリジナル=イエシュアの性質、トラーに記された本来の創造の姿を生きることに引き寄せ戻すためです。

 

だから、異邦人もイエシュアを通して、同じ神の家、子らにされたら、異教徒が生きるような生き方の全てから決別し、聖別を汚し

シャバットや祭りを汚すような行為を神が禁じていることを

はっきりと聖書から知らないとならないのです。

人間が作った宗教は偽物です。神の教えに人間の教えを混ぜた

神がいうところの姦淫の罪、生ぬるい、吐き出そうと言っている

それそのものだからです。

 

イエシュアの性質をそっくりそのまま映し出す生き方をする、その鏡が偽もの教え=人間の教えで曇ったり、別物の教えを生きたら、天の現実、目に見えない神の性質が、地上で現れでなくなるから、混ぜ物、まがいもの、偽物、人間の教えを混ぜた宗教の教えを生きて、

伝えてはダメな理由を神ははっきりと最初から教えているのです。

 

塩が塩けを失うとは、まさに神の教え〜トラーを捨てて、人間が作った混ぜ物、宗教の教えを生きることに対する、神、イエシュアの警告であることに気がついて下さい。

世の光〜イエシュアは、トラーそのものであり、生きるトラーと

呼ばれていたのです。言葉=イエシュアと書いてあるでしょう。

異邦人には、聖書に記された言葉の意味が、その通りに通じていないのです。神の言葉を捨てる、否定する、イコール、愛するイエシュアご自身を否定し、捨て去っている行為であると気がついてください。しかも花婿に与えられた婚姻指輪、シャバット、祭りを捨て、

ローマ皇帝、偽の主人が作った指輪をはめ、偽の旦那の祝宴を祝う

変だと気がついて下さい。

聖書とは関係ない、人間の作った宗教の教えが、勅令により強制

執行、蔓延、浸透、迎合し、それが異邦人クリスチャンの間に浸透し、今に至っているだけで、それは聖書、神の教え、イエシュアが教えた教えや、記念日などではないこと、はっきり知ってください。

神は何でも良いなど言いません。神のモアデイムは命に匹敵すること教えているでしょう。シャバットはイエシュアそのものであり、

それを捨てていることにクリスチャンが気がついていないだけです。

 

特にイスラエルは、イスラエルの神の大家族の長男であり、その長男が、ずれた生き方をして、弟、妹を誤りの教えに生きることに導くことを、厳重警告、注意、決してしてはならないことであることを

はっきり教えたのです。

だから、イスラエルが神の性質にいきること、神の教えからずれたら、捕囚の民としてイスラエルから追放され、苦しみを味わった訓練を与えられたのです。

でも、それは一年二年ずれた生き方ではない。1000年近くも

混ぜ物の教え、礼拝、人間が編み出した宗教の教えにすり替えられたもの、高きところの礼拝を続けた後、神の長い忍耐の後なのです。

神の子らは、イスラエル同様、別物、人間が作った宗教の教え

シンボル、慣わし、異教神、女神の祭りに融合してはならない!という同じ警告をはっきり聖書から知らないとならないのです。

混ぜ物の教えに浸かり、今に至っていても、何が混ぜ物なのか

本物を知らない人には、聖書から見分けることもできない状態になってしまっているのです。

神はそのようなものを、神は今も最大に忌み嫌うと言い続けているのです。毒麦=偽物と、麦=本物本物が気が付くまで、待っている状態なのです。長い鼻〜忍耐が長いという意味です。怒りが鼻先に到達する、赤くなるには、長い時間がかかっていることを教えているのです。恵、今、神のシャバット、安息が残されている間に、元に戻る

本物に戻りなさいと警告されているのです。

神の教えを、人が正しく理解しないまま、勝手な教えを編み出し続け

イスラエルの神の性質ではないこと、ない教えや記念日、異教の神々=悪霊の要素を取り入れてものを信奉、実践しているのです。

聖霊か、悪霊しかないのです。だから、イスラエルの神のもの、教え記念日に別物、まがいもの、偽物、混ぜてはダメ!と厳重警告しているのに、神の教えを捨てている人には、神の言葉は届いていないのです。

神は日々の必要を満たす者でもあります。荒野=ミッドヴァで毎朝

天から現れたマナのように、神が日々の糧を与えてくださることを、

7日ごとに私たちに思い出させてくれるのです。

マナは、単に奇妙な気まぐれでも、特定の茂みに花粉を集めた朝露や凝結の奇妙な形でもありませんでした。週の6日目に、調理すると2倍の量になるマナが現れたことから、マナが自然現象ではなく超自然現象であったことがわかります。

よく読むと面白いことが書いてあります。2倍のマナではなくて、

調理すると、そのマナが2倍に膨れ上がったことが書かれています。

 

出エジプト16:5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、

それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。
 

気づくことの一つは、食物を創造された創造主が、それをもたらしただけでなく、それを食べ続けるのに十分な食物も与えてくださるということです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。」

これは単にお腹を満たすための食べ物ではありません。

人生をより良く生きるための、神の意図した通りの本来の姿=イエシュアの似姿通りで、実際に人生を送るための方法です。

 

 

続く