神のアポイントメントの日〜モアデイムは、季節と訳されていますが
神が儲けた特別の会見の日であり、イエシュアそのもの、イエシュアの業、福音の中心、預言的祭りでもあるのです。
モエドとは「定められたもの」という意味です。アポイント、定めるです。また、モエドは「戻る、行き巡る、繰り返す、また行う」と
いう意味も持ちます。ですから、その意味でモエドは、何度も何度も繰り返し起こることであり、あるいはこれから繰り返され続けることなのです。
聖書を読んで分かると思いますが、西洋哲学のような歴史線上ではなく、全て円なのです。そして全て、永遠の中に既に完結している
贖い、救いの業を、永遠から神が語り教えているのです。
クリスチャンが、2000年前に初めて、救い、贖い、許し、聖霊が
与えられたという聖書とは異なる思想を持つのは、ヘブライ聖書を
知らない異邦人達の西洋哲学、西洋人が作ったローマ帝国教の教えを
土台とした聖書解説されているから、次元、時空の違う、ヘブライ
思索で書かれた、ヘブライ語の聖書に記されている事実が教えられていないせいでもあるのです。
命のサイクルは巡り巡って円で戻る。
人の、動物の命のサイクルも同じでしょう。子供が産まれ、育ち、
大人になり、その人達がまた子供を産むということ。この命のサイクルは円です。
聖所にあるものは周期的に巡り巡って動いており、モエドは何度も
何度も、一年を巡り、歴史の中で繰り返されて行くのです。
これもモエドの意味を捉える別の方法であり、再び巡ってくるものなのです。
詩篇1章は、トラーに関する賛美、知恵が書いてあります。
巡り巡る〜時〜季節が巡ると、実がなる。イエシュア=命=言葉に
根付いて生きる人は、神のモアデイムからモアデイムの命のサイクルの時を生きることをする人は、御霊の実がなることを、教えている
宣言なのです。
トラーを知る前は、神のモアデイムを知る前は、このような箇所を
読んでも、ピンときませんでした。
モエドは又「証人」です。しかし、巡り巡ることから戻ってきた時に、再び取り上げられたり、繰り返し強調されたりするという意味にもなります。ですから、毎年これらの記念のサイクルを繰り返す時、聖書を読むたびに、同じ箇所をもう一度読む時、何が起こるでしょうか?
これらが主のモエディムであることが特に注目されます。主の約束です。主は私たちと約束を結んでおられます。神は神が提示した婚姻契約を土台に人との関係を結んでいることをはっきり知ってください。
その婚姻契約を破棄、捨てよとクリスチャンは教えられています。
そして、神の記念日、神の教えに反した生き方をして、何が聖別を
汚す行為が何なのか、神の教えを捨てているので、罪の基準を正しく知らないまま、それでOk、なんでもokと思い込んでいるのです。
主は全てのものを支配しており、支配することができます。約束を結んだ時には、その約束をするための時間を持つ二人の人が必要です。
そうです。つまり、主はこう言っているのです。「私はそこに行きます。そして、あなたと特別な会見をする「時」を約束をします。
あなたも、私が定めたその日に必ずスケジュールを開けておいて参加してくださいね。」神のスケジュールは、私たちがこれらの日時に
ミシュカンで特別な方法で主と会うために開かれているのです。
「こんなことをする時間はない」と言う人がいるかもしれません。
それは、私たちが自分の時間がどこから来るのかを正しい視点で見ていないからです。誰が時間をデザインし、私たちにこの時間を与えたのでしょうか?もちろん、神です。
しかも、人間が作った宗教の教えや、宗教の編み出した活動やら、
スローガンの方にだけ邁進させられてしまって、疲弊しているでしょう。神の教えはそんな疲れる活動など、人にやらせません。
人の世界でも、町内会にある祭りを準備するのは楽しいことです。
祭りは、いつも会わない近所、町の人が祭りの準備をするため、会合開いたり、話し合ったり、お互いが協力して、同じ目標〜祭りに向かって過ごすのです。それも楽しいひと時です。
会えば、祭りの話をするでしょう。
それと同じく、神の造られた記念日は、人々を神の教えを一緒に考えることに引き寄せて、その季節を、神の教えに根付いて、一致、同じ意識で一緒に過ごし繋がるのです。神の記念日〜イエシュアの業を
考えて生きる、その季節、時期を神が提供しているものでもあるのです。
過越の祭りの一連は、全て、イエシュアの業にぴったり重なっているでしょう。過越の出来事、エジプトを肉体だけ脱出したのではなく
奴隷意識から、脱出〜罪削ぎ落とされて新しくされた人を生きる
扉が開かれた、脱エジプトなのです。
これ、私達の人生ともぴったり重なり、イエシュアに贖われた事実と
新しくされた人の旅路、荒野=神の声を聞いて生きる訓練と全く
並行に重なるものなのです。
脱エジプトしたけれど、以前の自分〜子羊イエシュアの血の購いで
死んで復活したのだけれど、思考回路はまだエジプトの中にあること
発見するでしょう。狭い、苦しい、肉の考えの制限がある。
パン種除去したつもりが、まだまだ肉の頭脳に残っている。
そこから、脱出して、安息〜神の与えるエデンの中に、状況はどうであれ、住まうことができることを教えているのが、荒野の40年
神の言葉だけを聞いて、そこからズレないで生きる訓練なのです。
神からのメッセージは、「わたしはあなたを覚えている。あなたは
わたしを覚えているのですか?」と、神からの問いがあるのです。
もしあなたが真に主の御心、本物、本当の事、神ご自身のことを求めているなら、何か新しいものを発見するでしょう。
神の教えを求めるならば、その真実、祝福はあなた対して開かれ、
あなたの目は神の語る真実に開かれ、あなたはそれを何度も何度も、神の命のサイクルのモアデイムを生きる時に何度でも、神の現実を
見ることができるのです。
人の教え、偽物、混ぜ物の教えは、神との出会い、距離を妨げる妨害です。
異邦人クリスチャンの中に浸透してしまった弊害、聖書とは違う
ローマ帝国が政治的理由で作った土着宗教=太陽神の教えを混ぜた
人造宗教を生きることを、国の勅令で強制的にさせられたこと、
その弊害にはっきり気がつけば良いのです。
聖書ではない教えが蔓延した理由。聖書に記されてもいない教えを、信じて実践している理由は聖書に反した教えをしよう!とローマ帝国が決めたからです。
モーセの五書に記された教えは終了!ユダヤ的なもの全部排除。
生きること禁止!記念日も排除!法律により禁止!されたのです。
どうして聖書にないことを言ったり、聖書に書いてない、日曜、
クリスマス、イースターを祝っているその本当の理由が理解できるでしょう。なぜ、イエシュアが祝われたシャバット、新月、過越や仮庵を、クリスチャンは全く祝わないのか?
その不思議を考えて、聖書の記述から真実を理解してください。
その理由は、神の教えを捨てよ!という勅令、教理、法律で、
ローマ帝国支配下に生きた人は、全部強制的に神の言葉に反する
冒涜的教えに屈して、実践しなくてはならなくなったからなのです。
日本にもあったでしょう。踏み絵。それと同じ。法律で自分の意思とは異なることを、強制的にやらせる、やらない人は処刑、投獄。
日本に入った教えは、最初からユニバーサル教ですから、その時点で、別物の教えが伝えられてしまったのです。純粋な神の言葉
イエシュアやパウロ達が教えた、トラーとは違う教え!
ヨハネ13-17章に記されている、使徒たちとの、過越の祭りの最後の晩餐でイエシュアが祈ったことの一つを思い出してください。
イエシュアは神に、彼らに慰めを送ってくださるよう祈ったのです。何をするためにですか?それは、私達がこれらのことを再び思い出せるように、主が語られた言葉を思い出すためです。
そして、彼ら使徒達は、イエシュア亡き後、重要なミッションがあったのです。タナック〜モーセ、預言書、諸書に記されたメシアが来られたこと、そして神の教え=トラーをイエシュアが解説された通り
人間が編み出した口伝律法の解釈ではなく、天直送の解説で、
人々にトラーを教えて、生きるように導くミッションを与えられたのです。
イエシュアが神と共にあるように、主が私達の内側に住む、私達も
主の中に住み、今天の現実の中に実は存在して生きている。
地上にいるけど、本当は天の神の家の御座の前に生きている。
メシアが語った言葉、そしてその教えがどのように積み重ねられてきたかを思い出してください。メシアの言葉は、聖書から語られた言葉を、さらに強調しているのです。
イエシュアは、100%モーセの五書=トラー=父の教えだけを、
語り、それを父の意図通り、天的解釈で人に教えたのです。
マタイ4:4で、荒野で敵対する者にイエシュアが語った言葉を覚えていますか?申命記から引用して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあります。詩篇119篇を読み進める中で、イエシュアはこの言葉を何度も繰り返して語られました。
聖書に書いてある神の教えとは、モーセの五書以外にないことを
クリスチャンは、正しく教えられていません。
モーセの五書を否定した、削除、破棄した別物の教えをイエシュアや使徒やパウロが教えたという偽情報〜ローマ帝国の勅令を神の教えだと勘違いさせられているのです。神が神の教えを終了、または人間の意見で自由に変えて良いなどということは、聖書に1つも書かれていません!それら、神の言葉が廃れた、破棄、終了だという教えが、
ローマ帝国の法律、勅令であることさえも、クリスチャンは教えられていないから知らないのです。
使徒10章、20章、1コリント16:1、ローマの手紙やガラテヤ、コロサイなどの、パウロの手紙の中に、神の教えや、食規定変更神の記念日を人間が変えて良いなどと、クリスチャンの間で解説されている、それら全ては、聖書を正しく理解していない人々、モーセの五書が廃れたというローマの勅令が聖書だと勘違いしている教師達により、ズレた解説がされている!という事に気がついて下さい。
驚くばかりに、パウロの意図とは全くズレた、ローマ帝国の勅令に
基づいた、モーセの五書が廃れたという思想を土台にした、
勝手な聖書解説だけがされてしまっているのです。
聖書を、人間の勅令、思想、教理に基づいて解説していて、聖書を
聖書で解説するという大原則を違反しているからです。
神は神の言葉を変えない!という、こんな簡単な永遠の真実、神ご
自身の口から宣言されたことを、どうしてクリスチャンは真っ向から
曲げ続けているのに、全く気が付かないのでしょうか?
人の教え、思想がそれ程までに、浸透し人の思想に洗脳されて聖書を正しく読み取れなくなっているからです。
詩篇119全て、トラーに関する、知恵、賛美、憧れ、慕う心が記されています。時には、同じことを125通りもの言い回しで何度も何度も繰り返しているように思えることがあります。
しかし、詩篇119で、記者がこう言っています。「私はいつも
あなたのトラーを心に留め、夜も昼もそれを思い巡らします。」
では、なぜこのようなことをするのでしょうか?
なぜ何度も何度も繰り返すのでしょうか?短期記憶障害があるから
でしょうか?それとも、単に強化が必要なだけでしょうか?
これは、証人という概念から来ているという意味でも、とても興味
深い考え方です。預言者はしばしば「証しするもの、あるいは再び
強化するもの」と呼ばれます。
預言書、例えばイザヤやエレミヤを読むとき、彼ら預言者はいつも何をしているでしょうか?これまで聞いたことのないような教えを取り上げているでしょうか?いいえ、全てはトーラー、つまりモーセの五書の記述、歴史的な事柄から直接引用しているだけです。
あなたはこれらの出来事が以前に起こったのを目にしました。
つまり、以前に起こったことについて聞いたことがあるのです。
さて、どうでしょう?そうです、同じことが再び起こっているのです。そして、再び起こっているのにはちゃんとした理由があります。
「モーエド」という言葉自体が、様々な概念、つまり巡り来る周期、証人、強化といった概念を強調しています。これは、十戒の二枚の石板が「証人の石板」あるいは「証言の石板」と呼ばれていることからも理解できます。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の主。
レビ記23章全体を通して、ミクラ コデシュ(聖なる会合)という
言葉が出てきます。「聖なるものとされるもの」という意味です。
主の名によって呼ばれる人々についてよく耳にするでしょう。
ミクラとは、区別されたものを呼び出すという意味です。コルとは
声という言葉で、呼び出すは、このクラという言葉から来ています。コーデシュ、つまり聖なるは、聖さを意味します。聖とは完全という意味でしょうか?いいえ、違います!
聖なるとは、「何かのために取り分けられたもの」という意味です。つまり、これらの任命は、召し出されるためのものだという考えが
ここにあります。神が意図した特別の目的通りに取り分けられる、
それが聖別の意味なのです。
だから、人間が勝手に作って決めた記念日を、人間が聖別しても、
それは神が目的通りに聖別した日には、永遠にならないことを理解してください。日曜、クリスマス、イースターは神が聖別した特別な目的の会合の日ではなく、人間ローマが作った日、宗教文化の記念日であり、神のミクラコデシュではありません。神が人をその日に呼び出してもいない、アポイントメントの日でもない、神はその会合を主宰してもいない。
続く