神の創造されたモアデイム 季節と訳されるアポントメントの日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

レビ記23:1 主はまたモーセに言われた、

23:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。

これらはわたしの定めの祭である。

 

神が創造されたアポイントメントの日〜定めの日は、ユダヤ人だけの記念日ではなく、創造主ご自身、人の子〜神が主役で招待者である

祝宴の日を、神ご自身が神の子らに伝えているものです。

主にユダヤ人だけが、神の教え、記念日をガードし続けているから、

あたかもユダヤ人だけの祭りを思い込んでいるだけなのです。

 

人間が作った宗教が編み出した記念日とは、全く別のもの、別の

性質、神ご自身が創造された「時」に神が特別な会見を神の子らに

出会う時を設けられたことが、記されているのです。

人間が、どのように、何と神の伝える真実を、変えようと、曲げようと、解説しようと、それは何も意味がないものなのです。

神の言葉を直接神から聞かないとならないのです。その方法は、永遠の証拠として記されているオリジナルの聖書=神の言葉に戻り確認することです。神が言われることが真実であり、人間はこの世界と、時を創造してもいない、ただの被造物であることを、すっかり忘れて、神に成り変わり、神の言われたことを

否定、却て、変えてしまっているのです。

さて、今読んだのは、神の口から直接宣言された大きな出来事です。飛び込み台の端から、まるで大陸棚まで行くかのように、とても深いプールに飛び込むようなものなのです。

飛び込んで後、端から覗き込んでも底が全く見えない、そんな状況を想像してみてください。

 

この小さな大まかな描写ですが、これは聖書のかなりの部分を占める、非常に大きな部分を占めているのです。特に、レビ記23章の最後の部分でに記されているものは、黙示録の記述の大部分を占めているのです。黙示録の多くの箇所は、第七の月に定められた時について

書かれていることと類似しています。

ラッパ、贖罪、神と共に住むこと、新しい天と新しい地などです。

これらは、秋の祭りの一連、角笛〜ショーファーを吹く日。

王の戴冠式は、この第七の月の1日〜新月に行われるものです。

そして、第七の月の10日目が、大贖罪日であり、15日からが、

仮庵の祭りの7日間、イエシュアと共に、地上で住まう日、そして

第8日目の単独の祝い日は、イエシュアが王の王として永遠の統治する時へ入る事を表している記念日なのです。

これらの意味を、全く気が付かないまま、祭りの意味も知らない、

祝わわないから、何が聖書に書かれているのか、神の言葉の真実の点と点が繋がらず、しかも、人間が作った宗教の教え、教理のおかげで、聖書〜神の言葉が、その思想を信じる場合には、神の言葉が1つに繋がらないままになっているのです。

繋がらないどころか、聖書とはまるでズレた思想を語る世界〜宗教の教えに変身した解説がされているのです。

神の言葉は最初から最後まで同じで、1本の大きな木、枝として完全に1つとして繋がっているものなのです。

それを、人間が木を真っ二つ、二つに裂いて、枝をバラバラにして、捨て去って、スカスカの枯れ木のような、別物を眺めているので、

神の教え〜本物が見えなくなっているのです。

 

レビ記23章〜神が創造された神が神の子ら全員を呼び出して、特別な会見を開く日は、神とその御子イエスの模範がどのようなものかを

学ぶための素晴らしい出発点です。

福音そのものが、神の創造された記念日の中で、全て教えられているのです。そして、それらの記念日は全て、預言的祭りであり、

実際に実践、生きて、学習するように、神がデザインされているものです。だから、それに参加しない人には、神の記念日の意味、深さ

祝福、体験を失ったままいるのです。

主の創造された祭りは、主が私たちを天の御国へ導こうとしているという、時代を超えた主のメッセージを伝えています。

なぜなら、その中で福音〜イエシュアの業そのものが、表され

教えられ、実際に生きて祝う時に、神が特別な出会いを神の招きに応答する人に対して与え、そして特別なことを、それに参加する

一人一人に教えてくださるものだからです。

 

レビ記23章〜神の創造されたアポイントメントの日〜モアデイムは、私たちの救いへの道しるべなのです。

イエシュア〜メシアが、レビ記の中に記されていることを通して、

直接的にイエシュアご自身、神とその性質、福音の全てを表していることが分ります。

イェシュアは、ミシュカ〜移動式神殿そのものを直接的に表しているのです。地上の仮庵は、イエシュアそのもの、ミシュカンで表されているのです。その中に神の言葉〜臨在があり、実際に雲と火の柱で

目に見える形で、神の臨在、守り、保護、供給を、五感を通して

ミシュカンの中の出来事と共に、神が人の内側に、人も神の中に

神の家=ミシュカンを中心に全ての人が神に向き合い、神が見る通り

本来の姿の相手を見て生きる学習を荒野でさせられたのです。

ミシュカンの中で、イエシュアの子羊の血の贖い、救い、許し、恵

神に完全に新しい人として受け取られている事実、神の前にどのように近づき癒されるのか、そして神の子らは一同でどのように生きるのか全てが教えられているのです。

神はモーセに、「山であなたに示された型通りに従ってミシュカンはを作りなさい」と言われた通りに作られたのです。

詰まり、天の中には神の家が実在する。その天の神の家をモーセが見せられて、地上にそれをそっくりそのまま、寸法も素材も神が言われた通りに作ってと神が言われたのです。

この言葉からも、神の言う通り、そっくりそのままにしないことは、

神の家、神の本質通りが現れないということを教えていることに

気がついてください。

人間の世界の設計図でも、楽譜でも、電子コードでも、デザインした

人の意図とは違うものを盛り込んだら、別物が出来上がります。

別の色の別の形の、別の姿の別物。

それら別物を混ぜてはならない!本物が現れ出ない、天の現実が地に正確に反映されないからです。

それらを、宗教〜人間が作った、神の言葉に人間の思想、教理を混ぜた物を通して、本来のものを隠す、歪める、なし崩しにするものを

作り続けてきてしまったことに、はっきりと神の言葉から気が付く

必要があるのです。

人間は神に造られたものであり、神ではない。人間が神の言葉や

神の記念日を別物に作り変えることを、神は断固とし拒絶し、拒否、

そのようなことを決してしてはならないことを、最初から厳重警告しています。

それが、エデンの園の出来事、神が食べてはならない〜それは人間の食べ物ではないから、あなたはそれを食べるように造られていませんという、警告を丸無視したことと全く同じことを、何も考えずに

やり続けてしまっているのです。

神に言われたことと違うこと、たかが食べることで、どうして死ななくてはならないの?と思うでしょう。似ていればなんでも良いでしょうと思っているでしょう?

でも、食べる〜生きること。食べ物、体を安全に育み、生かす。

神の言葉も食べ物〜命のパンは、人の全ての存在を生かす物

それに添加物、混ぜ物するから、不具合が起きて、死に至る。

これを人間が、余りにも小さいなことだと、軽々しく神の言葉を取り扱い、今日も今も神が言われたこととは違う、宗教の教えの方が

尊重され、実践されていることにさえ気が付かず、それが神のみ旨に叶うことと多くの人が信じているのです。

でも、世界は今、嘘に目覚め、本物に戻る軌道修正を続々し続けているのです。

クリスチャンの間で信じられていること〜神が神の教えを昇天以降変えたという教えは全くの嘘であり、聖書とは何も関係のない、ローマ帝国の勅令、法律なのです。それらを、18世紀以上、カトリックの宗教会議の中で確固たる教えにして行ったのです。ユダヤ的なこと、モーセの五書の教え、シャバット、新月、過越や仮庵の祭りを祝うことを、法律、勅令、教理、処刑、死刑を持って禁じた歴史の事実をはっきりと知って、どうして、聖書に書いてないことを、クリスチャンが言ったり、祝ったりしているのか、その本当の原因を知ってください。

神は神の教え、言葉、記念日を、人間が作り変えることを、厳重に

警告しているのです。そのことさえも、聖書を読んでも、全く気が付かないのは、古い教えは廃れた〜イスラエルへの見せしめの教えだからだ〜今はなんでも良い、いつでもよい、人間の考え、意見でそれ

ぞれが考えれば良いと、パウロが言ってもないことを、パウロが言った言ったと言い続けている、不正確な聖書解説だけを聞かされているからです。

聖書を正しく学び、聖書を知らない〜ローマ帝国が、神の言葉を否定した教えを教理として、宗教の教え、人間の思想神学を学び

パウロのようなトラー学者に聖書を正しく学んでこなかった大きな

損失、弊害の教えを聞かされているのです。

クリスチャンの世界で浸透している教えは、人間が作った宗教、その

教理、神学です。聖書とはズレた教えが満載なのは、聖書ではない

教えで、聖書を読み解き解説しているからズレているのです。

大体、人間が神になり変わるとか、神の言葉を自由に塗り替えるとか、これ、それ、あれは終了した教えだと言うその主張が、神に対する冒涜、神に敵対する行為であり罪だとも、クリスチャンが聖書の神の警告にすら、全く気が付かず、無感覚。これは異常事態でしょう。

でも、世界には、そして、どの時代にも、残りの民、2つの板、2つのパン、契約を保存する地の塩、神の家を神の意図通り治める、守る

世の光を、神ご自身が保存され続けて今に至るのです。

だから、聖書だけに戻り、聖書に書いてあることを曲げないで、

間違った聖書解釈を、正しい解釈に戻し、理解し、神の言葉に敵対することをやめる!イエシュアを信じる人は、神に敵対する思想、教理を捨てないとならないのです。

 

神が創造された時、時間、神のアポイントメントの日に於けるこれらの任命は、神の伝えた神の家の型と一致しているのです。

天に存在する神の家を、地上でそっくりそのまま作り、神の実態がそっくりそのまま反映される。神が言われた通りの生き方をする人たちを通して。そして神が

創造されたアポイントメントの日を祝うことこそ、イエシュアを知ることだからです。イェシュアの生涯もまた、この型を示しているからです。今日はレビ記23章を詳しく見ていきましょう。

 

神が特別な会見の時を設定し、神が私達を招いて下さったらあなたは出席しますか?それとも、無視しますか?クリスチャンは神の招きを無視しているという意識は全くないでしょう。日曜礼拝、クリスマス、イースター、人間の作った教えを、神の教えと勘違いしているからです。それを大衆が十何世紀にも渡りやってるから、それが神の教えだと思い込んでいるだけなのです。それらの人間が作った記念日に、神は誰一人招いてなどいません。その日は、普段の日であり、聖別された日、主日、聖日などでもありません!聖書の事実だけに戻り、人間が作った作り物と、神が創造された本物の記念日とが本質的に違う事を、聖書から理解してください。

イエシュアが祝われ、そして人に招いた記念日は、レビ記23章であり、春の過越の祭りも、イエシュアが代々皆で過越の祭りを祝うたびに、イエシュアが永遠の中にある子羊の血の贖いの事実を地上で

証明されたことを、思い出して!と遺言された意味は、クリスチャンには、全く通じていないのです。

聖書ではこれを「主の定められた時」ヘブライ語ではモアデイム

いう言葉であり、それを「季節」と訳しています。

神の季節は、神のモアデイム〜神が創造された「会見の時」をめぐり

人生の命のサイクルを生きるように、神が最初からデザインしていることが、ヘブライ語では分かりますが、翻訳ではまるで見えません。

 

神が創造された神の子らとの特別な会見の祝宴の日を、「ユダヤ人の」という言葉では一切表されていません。

神はアダムをユダヤ人として造っていません。アヴラハムも異邦人なのです。ある時、アヴラハムを呼び出し、そしてアヴラハムを通して

全世界へ、同じ福音、祝福が届けられるように、選び出されただけなのです。

欽定訳聖書以降のすべての翻訳では全く同じことが書かれています。

レビ記23章2節は、これらが主の定められた時、特に「わたしの定められた時」であると語っています。「定められた時」を意味するヘブライ語の単数形である「モエド単数」という言葉を見てみましょう。この「モエド」という言葉は、様々な翻訳が可能です。

1)定められた時2)会合3)定められた場所4)定められた会合

 

モエドという言葉は「任命」と訳すこともできます。

神の家はミシュカンと呼ばれていました。これは「住まい」を意味するシャハーンに由来します。ミシュカンは「住まいの場所」ですが、「場所」という言葉はミシュカンの適切な表現とは言えません。

ミシュカンは神の臨在が宿る場所、神が住まう場所です。

だからこそ、ミシュカンと呼ばれるのです。

 

こう書くと、神は時空に制限されないと考えると思います。

でも、神はご自身を神の考えた方法で、自由にどの様な形でも人に表す、現れ出るのです。

だから、神であるのに、人となったイエシュアも同じでしょう。

人間として、場所、時間、肉体に制限されていたではないですか。

それと同じく、天にある神の家を地上にそっくりそのままの型で作り、神の臨在、神ご自身、イエシュアを神の家を通して人に教えたのです。

神と人との関係があるとは、夫婦、家族には住まう家があるでしょう。そして、その家を治める家長、父がおられる。

そして、その家は、父が教える家訓で、安全に皆が生きる。

この神の教えの方を異邦人は捨て去るようにローマ帝国の勅令で強制され、後に

それが宗教の教理となり、聖書とは違う教えに、どんどん神の言葉が人間の教えにすり替えられてしまったのです。

そして、キリストを信じてさえいれば、後は違ってもどうでも良いと

考えているでしょう。でも、神は混ざり物、別物を、生ぬるい

イスラエルの神の聖別を汚す別物の異物だから吐き出そう、姦淫の罪と言って厳重警告しているのです。

 

続く