「やっぱスゲーよな…」


ほうっと吐息を洩らしながら、仙道を見つめる越野を実に複雑な心境で神は見ていた。


上気した頬、キラキラと輝く瞳。


どこから見ても、立派な『をとめ』ちゃんである。





神奈川選抜、合宿5日目。


周りには腹黒いと呼ばれている自分と、竹を割ったように真っ直ぐな性格の越野とは、どう考えても正反対なのだが、どこかウマが合ったらしい。


同じ学年であり、同室であることも相成って、急速に仲を深めていった二人は、この何日かはしょっちゅうツルんでいることが多い事実に周りは別な意味で驚愕していたりもするわけだが。


越野という男は、知れば知るほど実は面白いヤツだった。


目つきはかなり悪い部類に入りそうだが、実はカワイイヤツで、上下関係にはかなり厳しく、真面目な性格をしている。

本人は至って無自覚なのだが、実は軽く天然も入っていて、そこがきっと憎めないところなのだろう。

計算高く生きている自分とは、まるで本当に正反対だ。


しかし、ここまでの「天然」だとどうしたものか。


目の前では試合形式の練習が繰り広げられている訳だが、さっきから越野の目はプレイ中の仙道に釘付けである。




神は、昨夜の出来事をふと思い出す。




バラバラバラ…

「うわ、やっちまった」

ジュースを買おうと自販機に向かった越野は、財布からカード類を全部落とすという離れ業をやってのけた。

「越野って意外に抜けてるよね」

一緒に行った神は、思わずそう云いながら笑うと、そのカードを拾い集めるのをつい手伝う。


レンタルの会員証。

キャッシュカード。

学生証。

スポーツショップのポイントカード。

テレカにSuicaに、AKB48のファンクラブの会員証。

まぁ、どこにでもいる高校生の財布のカードの中身だ。


そして、ふと手にしたカードで思わず固まった。

「………アキラ、ファンクラブ?」

にこやかな表情をした仙道彰が全面に写っている、ラミネートパウチされたいかにも手作りのカード。

会員番号は、7番と表示されている。


「うわ、ヤバいもん見られちゃった?」

一緒に拾いながら、拾い上げたそこで固まった神を見て、その手元を見た越野が照れながらそう呟くと、テレ隠しのようにいつのまにか買ったらしいコーラを神に手渡す。

物々交換のように、神もカードを手渡す。


「いや~、学校で出来ててさぁ、もう聞いた途端、一も二もなく入ったんだ」

深夜なだけに誰もいないロビーに二人で腰掛けると、ほぼ同時にふたりでリングプルを上げる音をさせて顔を見合わせて笑ってしまう。

実は炭酸が苦手だという越野は、紅茶花伝を一口飲むと、カードを財布へとしまいながらそう話す。

「もしかして、会員は7人だけとか?」

まさか、あの仙道に限ってはそんな事はないだろうと思いながらコーラを口にした神は、その次の言葉に思わずそれを思い切り吹き出しそうになった。

「まさか。こないだの会報には、300人突破したとか書いてたけど」


…会報??

意外に本格的らしいファンクラブに、神は驚きを隠せない。

「結構、本格的なんだ…」

呆れつつ、思わずそう呟いた神に、越野はそれは嬉しそうに話を続ける。

「そうなんだぜ。会員証のヒトケタ台を取るのも結構至難の業だったんだからな」

「男はお前一人だけなんじゃないの?」

「いや、ソレが意外にそうでもないんだよね。今度、男組を立ち上げようか、って企画も出てるらしいし」

一体、どういうファンクラブなのだろうか。

…というより、なまじのアイドルのファンクラブよりも凄いのではないだろうか。

嬉々として話す越野は、ある意味夢見る乙女よりもすごいパワーを醸し出している。


「…っていうかさ、越野。お前ファンクラブに入らなくても一番近くにいるんじゃない?」

「ま、そうだけどさ。それとこれとは別ってカンジ?本人目の前にして、きゃあきゃあ云ってもなぁって思うし。やっぱファン同士だともっと話が広がるじゃん」


それに、オレの知らない仙道もいるしさ。

そう云って嬉しそうに笑った越野は、どう見ても盲目な恋をするような「をとめ」ちゃんの瞳をしていた。






…それもどうかと思うのだけれども。


昨夜の「をとめ」ちゃんと同じ、いやそれ以上のうっとりとした表情をしている越野を神は飽きることなく思わず見つめてしまう。


無自覚ほどタチが悪いのは、自分もよく経験している事だけれど。


熱病に冒されたようにうっとりと見つめられる視線は、仙道にとっては拷問だろうな、とふと思う。




越野は、気づいていない。


仙道が時折、切なげな表情で越野を見つめていることを。


仙道を見つめる越野の視線を、複雑な表情で受け止めている事を。




アイドルとファンの関係以上には、いつなれるんだろうね。




ふと突き刺さった仙道の嫉妬深い目つきに、神は軽く微笑んで見せた。







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4月15日。


今日の誕生花は、カーネーション。


花言葉は、『あなたを熱愛します』



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藤真はふとため息を洩らして、窓の外を見やった。


真っ青な青空に、ぽっかりと浮かぶ真昼の月は満ち満ちている。


血が騒ぎ出す、というのはこういうことをいうのかもしれない。


一族の定めだ、と言われれば、そうなのかもしれないが、こと若い人間が多いこの学校にいるだけで、すでにクラクラするくらいの眩暈に襲われる。


舌で口の中を探る。


チャームポイントだと人は云う、八重歯がいつもよりも更に鋭くなっているのは気のせいではないだろう。


さてと、どうしたものだろう。


早いところ一度学校を抜け出してどうにかしなければ、放課後の部活の時間に間に合わない。


ただ、今日はそれをどうしても許されない状況にある。


学内一斉学力テスト。


普通の試験であれば、1日に2時間、もしくは3時間で終了し、部活もなく家路へと足を向けられるのだが、このテストだけはそうもいかない。


1日、6時間。


びっしりと試験が目白押しなのだ。


その上、この試験は1日で終わるので、その後にはしっかりと部活が待っている。


このテストを受けなければ、進学先の選択の余地がなくなる、というぐらい重要な試験なだけに、途中で抜け出すなど言語道断なのだ。


何とか、昼休みまでは切り抜けた。


そして、最後の6時間目の授業の今、うっかりと外を見やったばっかりに、その考えはピークに達している。


夜の光とは違う、その弱々しい姿にさえ反応してしまう自分が疎ましい。


とりあえず、放課後…


何とか理由をつけて外に抜け出して、どうにかしなくては…。


藤真はそう考え、目を閉じると、ころん、と鉛筆を転がした。





…そして、放課後。


何とか衝動を押さえつけつつ、掃除当番を笑顔でサボり、生徒で溢れる校舎を抜け出すと、部室棟へと藤真は向かっていた。


とりあえずまずは部室に行って、花形に伝言を残さなければ。


部室の前で鍵を取り出して、鍵穴にそれを差し込もうとした瞬間、中から人の気配がした。


…マジ、もう誰かいるのかよ?


藤真はため息をつくと、仕方なく扉に手を掛け、そのドアをガラリ、と開けた。


「よぅ、藤真」


「うっす、早かったな…花形」


中には既に花形が居て、練習着に着替えている最中だった。


プン、と漂う、芳醇な薫り。


誰とも交わった事のない、純潔な者だけが醸し出す、藤真にしてみればまさに魔性の薫り。


餓えている藤真には、それはもう拷問のようなもので。


「…花形…」


微かに残った理性が、止めろ、という声すら、もう聞こえない。





「どうした、藤真…?」


いつもと違う気配に花形が振り向いた瞬間に見たものは、今にも倒れそうな藤真の顔と、それとは対照的に鋭く尖った八重歯で…


次の瞬間、藤真に抱きつかれ、首筋にチクリ、と小さな痛みが走った後、花形の意識はフッと途切れた…






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4月14日。


今日の誕生花は、フリージア。


花言葉は、『純潔』


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ぎぃぃ、と重い音が響き、暗闇の世界に明るい光が差し込まれる。


越野は虚ろな瞳で、けだるげにその光の方向から視線を逸らした。


光の先に居る人物は、いつもただ一人。


かれこれ、もう何ヶ月たつというのだろうか…。


「…まだ、開放されたいと思わないの?」


くい、と顎に指を掛け、自分の方に向けながら、そういう彼の表情は逆光で殆ど読み取れない。


ただ、瞳だけが何かを求め、餓えた様にギラついているだけだ。


ふい、と瞳を逸らした越野の髪をギュッと掴み、無理矢理自分の方に向けさせる。


噛み付くような、口づけ。


その舌を噛み切ろうなんて考えは、随分昔に捨ててしまった。


何度かそうしてみたが、決まって嬉しそうに笑うだけだからだ。


どうやったら、抜け出せるのだろう。

この、狂気の世界から。



「…ねぇ、越野」


唇を離しながら、彼はそう呟く。


「一言云ったら、開放されるんだよ?」




…判っている。


開放されるのは、この暗闇からだけの話。


その先には、もっと恐ろしい、二度と抜け出すことなど出来ない監獄が待っているに違いない。





「ねぇ、越野」


愛おしそうに、自分の名を呼ぶ。


少し、憂いを含んだ声で。


「…たった、一言だけだよ?」


にこやかに笑う。


狂気の宿った瞳で、あの頃と同じ声で。






「オレを愛します、って云えば、それだけで開放してあげるよ、ここから」


なおも優しくそう告げる仙道から、越野は瞳を閉じることでその世界を遮断した。




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4月13日。

今日の誕生花は、アネモネ。

花言葉は『あなたを愛します』

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人生、16年。


まだまだそう長く生きている訳でもないが、今迄の人生で緊張した事など皆目なかった信長だったが、今、まさにとんでもなく緊張したその場面に遭遇していた。


ちなみに、昨夜からドキドキとした胸の高鳴りは収まることもなく、横になったら最後、3秒後には華麗な高いびきが披露される、と誰もが感心する自分が、一睡も出来なかったという事実もある。


そう、今日信長は、神の家に招待されていた。


お誂え向きに、明日は珍しく部活は完全に休みだ。

更に神の両親は、山形で法事があるとかで家には神と自分の二人きり。


一応、高校生と呼ばれる自分である。

スポーツで性欲が昇華されるなんて、きっとどっかの朴念仁が言ったに違いない。

付き合っている相手と一晩、一つの屋根の下…といえば、そういう気分になるに違いないし、きっとそうしてしまうことも予想できる。




…いや、実はそれ以前の問題であったりするわけだが。




「どうしたの、ノブ?」


「…えっ、あっ、神さん…」


タオルで髪をゴシゴシと拭きながら現れた神に、心底ドキリ、とする。


一つ年上の、この美麗な彼は、信長の恋人である。


「あ、ポカリなくなったね。何か別の飲む?」


緊張のあまり、ガブ飲みしてしまったペットボトルは既に空で、神は優しく笑うと冷蔵庫へと向かう。


タンクトップにショートパンツ。

練習中にもいくらでも見ている姿なだけに、見慣れている筈なのに…。

それなのにこんなに心臓が高鳴るのは、緊張のせいなのか、湯上りのせいなのか。


「はい、ノブ。これ好きだったよね」


手渡されたのは、セブンアップ。

リングプルを上げ、一口飲むと炭酸特有のピリッとした感触が舌に広がる。


寒いくらいにクーラーは効いているはずなのに。

躯はどんどん、熱を帯びていく。

それは隣に寄り添うように座っている神の触れている肌から広がっているようで。


セブンアップの缶を握り締め、ふと瞳を閉じた信長の耳に、同じようにプシュッとリングプルを上げる音がして、つとその音の方を見やると、神は缶ビールを手にゴクゴクと喉を鳴らして煽っていた。


長い指と、白い喉が扇情的で。


信長は思わずじっと神を凝視した。


「ノブも飲む?」


視線に気付いたのか、神が缶から唇を離してそう尋ねる。


首を振ろうとした信長を見つめ、神は缶ビールを一口口にすると、その白く長い指で信長の顎を捕らえ、そのまま口唇を重ねた。


缶に触れていたせいかほんのり冷たい、それでいて温かい、初めて触れた唇。

触れられた顎と、重なった唇から伝わる熱は、もう、とんでもなく熱くて。


あまりの息苦しさに、酸素を求めるように唇を開いた信長の中に、苦い味と、今迄よりももっと熱い舌が侵入してくる。


ごくり。


苦い味のはずなのに、何故なのかほんのりと甘い気がした。


信長がそれを飲み込むと、神の唇が緩やかに離れる。


神の、何時の間にか閉じられていた瞳がゆっくりと開かれ、そこは濡れた様に艶を放っていた。


ほんのりと目の淵が朱く染まっているのは、酒のせいなのか、それとも………?


顎を捉えていた指に、自分の手を重ねると、信長はその自分と同じように熱を帯びた熱い躯を引き寄せた。




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4月12日。

今日の誕生花は、ブプレウルム。

花言葉は、『初めてのキス』


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「…よう、藤真」


日曜の昼下がり。


久しぶりに練習もなく、何となくのんびりと過ごしていた藤真は、チャイムの音でいやいやながら玄関に出たところで、アラブの民族衣装を着た男がヌッと立っているのを見て、思わずドアを勢いよく閉めた。


…だ、誰だ?


オレに、アラブ人の知り合いなんて居ない筈だ。


ただ、見たことあるような顔をしていたような…。


それに、日本語話してたし。


表札も出してないこの家なのに、オレの名前呼んだし。


そういや、聞き覚えのあるような声をしていたような…


そっとドアをもう一度開けてみる。


そこには、先程と同じようにヌッと立っているアラブ人らしい姿がある。


足元から順に、すっと視線を上げていき…そして、顔に来たところで、ようやく気が付いた。


「…牧…」


ナリはかなり変わっていたが、そこには高校時代に『神奈川の双璧』と呼ばれた片割れでもある、牧紳一が立っていたのだった。


「やっと気づいてくれたか…」


元々色黒だったが、更にグレードアップした牧を見て、藤真はとりあえず家へと招き入れた。


コイツには、色々と聞かなければいけないこともある。




高校を卒業して、突然姿を消した理由。


バスケット界からも、姿を消した理由。


そして、恋人である自分の目の前から姿を消した理由。




何から尋ねようか、と藤真がじっと牧を見据えていると、牧は一つ大きく息をはき、それからゆっくりと口を開いた。


「…まずは謝る。すまん」


「スマン、ってお前…それだけで済むか?!」


上目遣いで見据える藤真の頭を、それは牧はいとおしそうに優しく撫でる。


「…で、用件を単刀直入に言う。結婚しよう、藤真」


謝った直後の発言としては、かなり突拍子もないそれに、藤真は元々大きな瞳を更に大きく見開く他に術がなかった。


全ての理由をすっとばして、一言謝った挙句に、それはなんなんだ?


「…なぁ、牧」


それは心底倖せそうに藤真の髪の感触を楽しむように撫でている牧を睨み付けながら、藤真は口を開く。


「何だ、藤真」


「いきなりアラブ人なコスプレ、ブチかまして、この3年間音信普通だった理由も言わずに、出てきた言葉がそれって何だ!!」


一気にまくし立てた藤真を見つめ、あぁ、そうだっけ、という表情をした後、牧はにこやかに笑った。


「コスプレじゃない、これが普段着だ」


「…は?」


更に牧は続ける。


「確か、お前には云ってた筈だ。高校を卒業したら、地元に帰ると」


「………」


確か、そんなことを云ってた気がしたが…。


3年前の記憶なんざ、遠い過去の話。


そんなセリフを憶えていろ、という方が難しいんじゃないのか?


…てか、地元っていえば、普通に国内だろう?




藤真は突っ込み所満載の牧の言葉を、呆然と聞いているしかなかった。


元々、突拍子もない爆弾発言をすることが多かった牧だが、ここまでくればもう天晴、としか言いようがない。


「………あのさ、牧」


藤真の質問に答え終わり、満面の笑みを浮かべている牧に、藤真はため息をつきながら口を開いた。


「…まずは、そのコスプレが普段着である、という説明から始めてくれないか…?」


藤真の言葉に、牧はどうしてそこからなんだ?という不思議そうな顔をした。


…不思議な顔をしたいのは、オレの方だ…。


藤真はそう思いながら、その不可解な『恋人』を見つめた。





「………やっと、わかった」


それから1時間後。


ようやく話の全貌が飲み込めた藤真が、ふぅ、と大きなため息を洩らしてそう呟いた。


突っ込み所満載の牧の話を、要所要所で更にツッコミを入れながら聞いた話は、常人の頭では納得し難いような、むしろ、納得しないとどうにもならないようなそんなものだった。


話は、こうだ。


元々牧は、アラブの石油王が日本にやってきた時に見初めた牧の母親との間に出来たハーフだったらしい。


地黒だと思っていたのは、やはり父親の血が激しく作用したらしい。


そして、このフケ顔もその恩恵に預かったシロモノであったようだ。


父親は、他の3人の妻との間には娘しか出来ず、唯一の息子である牧に家督を継がせたいと思ったが、牧の母親がせめて義務教育が終わるまで、と懇願したことで、日本にいることになった、よって高校まで日本にいた、ということらしい。


でも、高校は義務教育じゃないだろう、という突っ込みに対しては、母親が何とか丸めこんだらしい、ということぐらいしかわからなかったが。


そして高校卒業後、父親直々に帝王学を叩き込まれ、やっと一人前になれたので日本に居る恋人を迎えに行く、ということで今回の来日になった。


…ということらしい。




しかし…


「………なぁ、牧?」


ふと思い出したように、藤真は口を開く。


「うん、何だ?」


「確か、イスラム教って戒律が厳しいんじゃなかったか?」


「まぁ、それなりにな」


「同性同士の結婚、って…ムリじゃないのか?」


藤真の言葉に、真摯な目で見つめていた牧は、その言葉に一つウィンクをしてみせた。


「まぁ、何とかなる。お前は口さえ開かなければ充分『美人』で通るからな」


そうにこやかに笑われて、ここで断ったらどうなるのだろうか、と藤真はぼんやりと考えながら、近づいてくる牧の顔に条件反射的に目を伏せた。






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4月11日。


今日の誕生花は、アルストロメリア。


花言葉は、『エキゾチック』


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いつからだろう。


見つめることが多くなったのは。



言葉にしなくても、分かり合えるようになったと思ったのは。




「ふぅ…」

小さく吐息を洩らすと、花形は壁を背にコートの端に座り込んだ。

ようやく先刻自分の練習が終わり、別のポジションの練習に移ったコートをぼんやりと眺める。


神奈川選抜の合宿も、かれこれ3日目を迎える。


最初は同じ学校同士で固まっていた選手たちも、いつしか学校の垣根を超え、仲間という意識が芽生えてきたらしい。

あちこちでパスやドリブルの練習、また、シュートの練習をするようになってきた。


中心になるのは、やはり3年だ。


花形がぼんやりと視線を向けている先には、恋人である藤真が、同じポジションで一番親交が深い牧とバインダーを片手に何やら話をしている様子が見える。


あぁでもない、こうでもない、と云っている藤真の声を、目を細めて見ていた花形の耳元で、聞き覚えのある声が響いた。


「お疲れ様です、良かったらどうぞ」


それと同時に、目の前にポカリスエットが差し出される。


「すまない、神」


遠慮なく花形がそれを受け取ると、神は人のよさそうな笑顔で一つ笑って、いいですか?と尋ねた後、隣に座る。


藤真の話によれば、あの堅物の牧の恋人であるらしい、この可愛らしいという表現がぴったりの神は、花形の中学の後輩でもある。


自分と同じように身長でセンターに選ばれた彼は、高校に上がってからは自分の様に体格が良くなることがなかったせいで、ガードのポジションについた。


本人が気にしていた体格は、やはり華奢なままで今も中学とあまり変わらないが、服の上からもわかる筋肉は昔とは比べ物にならないくらいしなやかさでしっかりとついている。


どれだけ努力をしたのだろうか…。



「仲、いいですよね。牧さんと藤真さんって」


ぽつり、と神がそう呟く。


「まぁ、『神奈川の双璧』と云われる位だからな…」


他人が立ち入れない雰囲気を、二人が話すとどこか持っているようだ。


誰一人として、その空間には近寄ろうとしていない。


「…不安に、ならないですか?」


「…え?」


驚いた表情で花形が神の方を見ると、神は切なげな表情で牧を見つめていた視線を外し、花形を見つめる。


「…まぁ、ならない、と云ったら、嘘になるか」


そう云った花形に、神は睫を伏せてふと吐息を洩らす。


「似てますよね、花形さんって…」


誰に、というのは、訊かなくてもその視線の先で判る。


バスケ以外は不器用な、それでいて実直な性格そうな彼。


バスケのこととなると、煩いくらいに饒舌なのに、プライベートでは無口もいいところだ、と藤真がボヤいていたことをふと思い出す。


ふと、その神の眼差しが誰かに似ているような気がした。


そのまま、何と話していいものか考えあぐねていた花形に、ポツリ、と神が呟く。


「見てれば、判るんです。どれだけ、大事にしてもらってるかって…でも…」


キュッと唇をかみしめる。


その仕草も、どこかで見たような気がしてならない。


「…言葉に出して欲しい時もありますよね…信じてないわけじゃないですけど…無性に不安になって」


神の言葉を聞きながら、つと花形は視線を感じてそこへ目をやると、藤真がこちらに視線を向けていたのを不意に逸らした。


一瞬映ったその瞳が、先刻の神と重なった。


あぁ、そうか、もしかして…


神のように言葉には出さなかったが、少し曇った眼差しで自分を見つめた後、キュッと唇をかみ締め、押し黙ってしまった、つい先日の藤真の仕草を思い出す。




見つめるだけで、

瞳を合わせるだけで、

分かり合えていると思っていたけれど…


それは、独りよがりだったのかもしれない。




花形は、その時の藤真とよく似た表情をして、じっと牧を見つめる神の頭を、ポン、と軽く叩いた。


驚いて目を見開いて自分を見返す神に、優しく笑うと口を開く。


「オレにそうやってちゃんと云えるんだからさ、神」


「花形さん…」


「牧にもそう云ってみろよ、きっと判ってもらえるから」


何で相手がわかったのだろう、と顔を赤くする神の肩を軽く叩くと、花形はそこから立ち上がった。





今夜、きちんと伝えてみよう。


言葉にして、瞳を合わせて。



花形は何かを決意したように一つ深呼吸をすると、コートを後にした。





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4月10日。


今日の誕生花は、ブルーレースフラワー。


花言葉は、『無言の愛』



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最初はまるでどこかの歌の様に、動悸・息切れ・眩暈で始まった。


まさか、ヘンな病気じゃないだろうか…と、自分でちょっと驚きを隠しきれなかった時期もあったが、それがある特定の一人にだけ反応する症状であることに、ある日気づいた。


…そこからだ。

仙道がこの『感情』と付き合い始めたのは。

相手は、どこにでもいる、生意気なイマドキの『高校生』。

ただし、冠には「男子」という文字も付く。


そうなのだ。

仙道彰、17歳。

生まれてこの方、女にしか興味を持っていなかったと思っていた自分が、まさか、よもや、同性相手に恋するヲトメちゃんになっているその事実がもうすでに重たい。


その上その相手は、同じ部活で、同じ学年で、人付き合いが実は苦手な仙道からいくと一番気楽に付き合える、そんなヤツだというのに。



…悪夢としか、いいようがありません、神様。



はぁっ、とひとつ大きなため息を洩らし、机にうっつぷす。


ずっとその感情をひた隠しにするのも、もう限界一歩手前だ。


最近は、夢にまで見る始末の悪さ。


その上、その夢で朝から反応している自分自身を思えば、もう自己嫌悪まっしぐら…。


どうすればいいというのだろう。


この自分でも持て余している『感情』を。




「なに、このジメジメした季節に、もっとジメジメしてるんだ?」


困り果てた顔でもう一度ため息をつくと、同じクラスの明治がそう尋ねてきた。


「あぁ…もう、何がなんだか…」


「俺でよければ、相談に乗るぞ?…まぁ、成績優秀な仙道クンが、学業の悩みとは思いがたいが…」


俺の机の前の席に腰掛け、明治がそう呟く。


「その方がかなりマシかも…」


「…まさか、天才プレーヤー仙道サマが、極度のスランプにでも陥ったとか?」


「スランプに陥っても、何故か身体はうごいてるからなぁ…」


やっぱり、んな訳ないよな、と明治は小さく呟き、それからふと暫く窓の外を眺めた後、仙道に視線を戻してまさかな、という顔で口を開く。


「…もしかして、恋の悩みか?」


「…まぁ、そんなトコかな…」


珍しく素直に応えた仙道に、ふぅん、と小さく頷くと、晴れやかに笑って明治は一言云った。


「ウジウジ考えてるんだったら、いっそ当たって砕けてみたらどうよ?ラクになるぞ」


………なるほど。


それは考えつかなかった。


パッと真夏の空のように晴れやかな表情になった仙道に、明治は心底ビックリした顔をした。


「さんきゅ~、明治!今度ラーメン奢るよ」


そう云うが早いか、仙道はものすごい勢いで教室を出て行った。




「越野!」


部活であれだけしごかれるのに、どこにそんな体力があるんだというのか。


教室を飛び出した仙道は、グラウンドで友人とサッカーに精を出している、その『恋煩い』の相手を見つけるが早いか、ダッシュでその相手に近づいた。


「…どうした、仙道?」


「オレ、お前の事、好きだ!愛してる!!」


何か憑き物でも落ちたように晴れやかな顔をしてそう告げ、仙道はギュッと越野を抱きしめ、あまつさえその頬にチュッと音を立ててキスをした。


…と共に、予鈴が鳴る音が響き渡る。


「ま、そういうコトだから。考えておいてよ」


屈託のない、巷では『アキラスマイル』と呼ばれる、人のよさそうな笑顔で仙道はそう言うと、ヤバイ、次は体育だったっけ、着替えなきゃ…と鼻歌まじりに呟きながら、スキップとも見れる軽快な足取りでまた校舎へと戻っていった。






後に取り残された越野が、暫くその姿勢で固まっていたが、同じように固まっている友人達に今のが仙道特有の冗談であることを告げる事でその場を何とか取り繕い、この落とし前をどうつけてやろうか、と怒りに身を震わせていたのは、当たり前だが全く仙道は知る由もなかった。





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4月9日。

今日の誕生花は、ポリポジウム。

花言葉は、『軽快』



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「もし、お前がこうなったら、どうする?」


流してかけていたテレビだった筈なのに、何時の間にか二人で見嵌ってしまったドラマが終わり、牧は真摯な眼差しで藤真を見つめ、そう尋ねた。


「…お前のことまで、綺麗さっぱり忘れてしまうだろうな」


「お前らしいな」


そう云って牧は微かに笑うと、隣に座っていた藤真の肩を抱き寄せ、啄ばむように小さく口づけを落とした。






…まさか、それが現実になるなんて思いもしなかった。


それも、俺じゃなくて…お前が。





藤真は目の前の、今は眠っている優しい恋人を見つめ、気づかれないようにそっと吐息を漏らした。


だんだん、酷くなっていくそれ。


最初は、デートをすっぽがされた事から始まった。


時間には正確な彼が、二時間経っても現れない事に不安を覚えた藤真が連絡を取ると、『あぁ、今日だったな…すまない』と謝られた。

最近、物忘れが酷くてな、と自嘲気味に笑う牧に、ボケるにはまだ早いぞ、と突っ込むと、牧は曖昧に笑うだけだった。


その時は、珍しい事もあるもんだ、としか思っていなかったが、それがだんだんと頻度が増し始め、ある日とうとう練習中に牧は突然倒れたのだ。


病院の診断結果は、『若年性アルツハイマー症』

進行を遅らせることは出来るが、治療することは出来ない不治の病。

新しい記憶から順にどんどん、記憶が消えていく。

肉体の死よりも恐ろしい、精神の死。

そう、あのドラマのように…。


退院し、現在と過去を行ったり来たりする恋人。

牧の両親も、憔悴しきっている。

未来を約束されていた、自慢の息子が、居なくなっていく日々に。

いや、自分たちすら忘れていく息子に。

夜中に暴れる事も多くなった。

それでも、藤真が傍にいると、それが殆どないのだという。

それだけ、深い絆で繋がっているのかもしれない、と、牧の両親も藤真が同居することを認めてくれた。


あれから、1年。

最近は、眠る事が多くなってきた。


心配して尋ねてくる友人の認識も、調子が悪い時ならもう殆ど出来ずにいる。

一番近い記憶である、大学時代の友人の識別はもう不可能に近い。

先刻尋ねてきた、一番記憶が深い時期であろう、高校時代の後輩の神にすら、『初めまして』と告げたくらいだ。

もしかすると、更に病状は進んでいるのかもしれない。


不安と淋しさが混ざった瞳で、藤真を見つめる神に、藤真は「ごめんな」と云う事ぐらいしかできなかった。

いえ、いいんです。また来ます。

そう告げて帰っていった神。

恐らく、もうこの家の門をくぐる事はないのかもしれない。

皆、そうであったから。


そっと、額にかかった髪をすく。

あの頃よりも痩せ、日に当たらないせいか色素が薄くなった肌をぼんやりと見つめ、その薄い唇にそっと口づける。

暖かさはあの時のままなのに、その記憶からはどんどん暖かさが薄れていく。

中学時代からの付き合いがある藤真の記憶も、どのくらいもつのだろうか…?






『じゃあ、お前はどうなんだよ?牧』


唇が離れ、上目遣いに牧を見つめる藤真に、牧は優しく笑って口を開いた。


『オレか…?例え他の全ての記憶を手放したとしても、お前のことだけは忘れんぞ』





その言葉だけだ。

今の藤真が縋り、唯一信じている事。


それだけは、憶えていて欲しい。

この願いが、もしかしたらいつか叶わなくなるのかもしれないけれど。


ぽたり。

一滴、涙が落ちる。

起きている時は、泣けない。

不安がるから、心配するから。


「俺のこと…忘れてもいいから、憶えてろよ…」


細くなった指に自分の指を絡ませ、藤真は小さくそう呟く。


せめて、愛した記憶だけ。

愛された記憶だけでも。


…何もかも、失っても…それだけは憶えていてくれ。


そうすれば、生きていけるから。


絡ませた指をギュッと握り、藤真はそこへ顔を埋めた。





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4月8日。

今日の誕生花は、スイトピー。

花言葉は、『私を憶えていて』


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当たり前だけど、それまで何も気にしたことはなかった。



一つ上の、努力家の先輩…ぐらいの認識しか、信長にはなかった。



オンナノコみたいな顔立ちの、そのくせ身長は自分を遥かに凌ぐ位に高いその『先輩』は、毎日500本のシュート練習を欠かさない。



「358…かぁ、あと142本…」



今日の練習場の鍵当番は、信長である。



後片付けは一年生の仕事と相場が決まっているのは、どこの部活動も一緒だ。



全部の部員が帰るまで居残りが確定されるのは、特待生である信長も同じであり、月に1回のその仕事は疲労困憊した身体には中々に重労働である。



それは、この先輩のせいに他ならないのだが…。



途中までは、同じようにシュート練習をしていた信長だったが、今は既に着替えてその先輩のシュートの様子をぼんやりと眺めている。



狂いもない、同じフォーム。



伸ばす腕はゴールリンクに直結しているかのようだ。



シュッ



ボールが腕から離れる音と、パシュッとリンクからボールが吐き出される音、そして時折キュッキュッと床を移動する音だけが響くコート。



規則正しく流れるその音に、いつしか信長は心地よい睡魔に襲われていた…。







「清田、清田…?」



ポンポン、と肩を叩かれ、ハッとする。



「ごめんね、俺のせいで遅くなっちゃって。鍵なら返しておくから、先に帰って良かったのに…」



寝ぼけ眼で声のする方を見上げると、着替え終わって申し訳なさそうな顔で信長を見つめるその先輩 ―神 宗一郎― がいた。



「いや、スンマセンッ!オレの方こそ寝てしまって…」



「あんまり気持ちよさそうに寝てるから、起こすのが忍びなくて…少しでも寝かせておいた方がいいかなって思ったから…」



本当に申し訳ありませんッした、と深々と頭を下げた信長が顔を上げると、神は、あ、そうだ、と呟きながら、バッグを探っていた。



「………?」



「はい、ちょっとだけど待ってくれたお礼」



差し出された大きな手の中には、チョコレートが一つ。



「こんなもんじゃ、足りなかったかな…?」




優しく自分に向かって笑う、その表情に、信長の胸が一つどきり、と高鳴った。







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4月7日。


今日の誕生花は、ライラック。


花言葉は、『愛の芽生え』


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何をやっても、許してくれる。


何があっても、信じてくれる…というのは、一体どういう感情からだろうか?


藤真はぼんやりと、目の前の優しい男を見つめた。




ライバルであり、同士であり、そして恋人でもあるこの男。




どんな我儘をぶつけても、笑って応えてくれる。


淋しいといえば、夜中でも自分の元へ駆けつけてくれる。


もしかして、自分が想うほどには、この男は自分の事を愛していないのかもしれない。


そう思う自分は、可笑しくないのではないか、と最近思いはじめた。




…そして。


今日、初めて浮気をした。


この男が夜に泊まりに来ることは、既に前日から決まっていた事実。


それを判っていて、わざと。

相手は、一つ下のこの男も良く知っている他校生。


いつもと勝手が違う情事に、躯は反応しながらも、これを知ってもこの男は動じないのだろうな、と冷静に考えている自分がいた。




チクリ、と何かが刺さる音がしたような気がした。


気がつけば、目の前の優しい恋人は、いつもと違った目つきで自分を見ている。


視線の先を辿れば、自分の胸元。


どぎつくつけられた情事の痕跡が恐らく残っている場所。


「…どうした、牧?」


何も知らない振りをして、いつも通りを装って藤真はそう尋ねる。


ふと、視線が合う。


いつもの優しいまなざしとは違う、棘々しい視線に射抜かれる。




…怖い。


ビクッと身体が震える。


こんな表情のこの男なんて、今まで見たこともない。


猛々しい野生の雄のような顔で自分に近づいてきた牧に、藤真は愕然とした表情でそれを見つめる他に術がなかった。


牧は、その顔のまま、不気味なくらいにこやかに笑うと、藤真の両肩に手を置くと耳元に口を近づけた。


「今まで、大概の事は目をつぶってきていたがな…」


いつもよりも更に低い声でそう囁き、そのままベロリ、と耳を舐められる。


そして、肩にあった片方の手がボタンシャツの前を引き裂いた。


飛び散るボタン、そして肌に残る他の男との情事の痕跡。




「俺が何をしても、怒らないと思っていたのか?藤真」


強い力で床に押し付けられ、付けられた痕跡を辿るように強く指で押される。


「…ま…牧ッ…」


「…俺はそれほど大人じゃないんだ。ある程度の事までは許せても、それ以上は…な」


激しい後悔が藤真を襲う。


自分を愛していてくれるからこそ、許してくれていたという事に。


広い心で、受け入れてくれていたという事実に。



それなのに…。


信じられなかった、狭い心の自分。


わざと試すようにあんな事をして、牧を傷つけた。


これは、それを感じる事すら出来なかった自分への罰だ。




いつもとは全く違い、荒々しく自分を扱う牧を、涙に濡れた瞳でぼんやりと藤真は見つめるしかなかった。





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4月6日。


今日の誕生花は、ベニバナ。


花言葉は、『包容力』



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