「もし、お前がこうなったら、どうする?」


流してかけていたテレビだった筈なのに、何時の間にか二人で見嵌ってしまったドラマが終わり、牧は真摯な眼差しで藤真を見つめ、そう尋ねた。


「…お前のことまで、綺麗さっぱり忘れてしまうだろうな」


「お前らしいな」


そう云って牧は微かに笑うと、隣に座っていた藤真の肩を抱き寄せ、啄ばむように小さく口づけを落とした。






…まさか、それが現実になるなんて思いもしなかった。


それも、俺じゃなくて…お前が。





藤真は目の前の、今は眠っている優しい恋人を見つめ、気づかれないようにそっと吐息を漏らした。


だんだん、酷くなっていくそれ。


最初は、デートをすっぽがされた事から始まった。


時間には正確な彼が、二時間経っても現れない事に不安を覚えた藤真が連絡を取ると、『あぁ、今日だったな…すまない』と謝られた。

最近、物忘れが酷くてな、と自嘲気味に笑う牧に、ボケるにはまだ早いぞ、と突っ込むと、牧は曖昧に笑うだけだった。


その時は、珍しい事もあるもんだ、としか思っていなかったが、それがだんだんと頻度が増し始め、ある日とうとう練習中に牧は突然倒れたのだ。


病院の診断結果は、『若年性アルツハイマー症』

進行を遅らせることは出来るが、治療することは出来ない不治の病。

新しい記憶から順にどんどん、記憶が消えていく。

肉体の死よりも恐ろしい、精神の死。

そう、あのドラマのように…。


退院し、現在と過去を行ったり来たりする恋人。

牧の両親も、憔悴しきっている。

未来を約束されていた、自慢の息子が、居なくなっていく日々に。

いや、自分たちすら忘れていく息子に。

夜中に暴れる事も多くなった。

それでも、藤真が傍にいると、それが殆どないのだという。

それだけ、深い絆で繋がっているのかもしれない、と、牧の両親も藤真が同居することを認めてくれた。


あれから、1年。

最近は、眠る事が多くなってきた。


心配して尋ねてくる友人の認識も、調子が悪い時ならもう殆ど出来ずにいる。

一番近い記憶である、大学時代の友人の識別はもう不可能に近い。

先刻尋ねてきた、一番記憶が深い時期であろう、高校時代の後輩の神にすら、『初めまして』と告げたくらいだ。

もしかすると、更に病状は進んでいるのかもしれない。


不安と淋しさが混ざった瞳で、藤真を見つめる神に、藤真は「ごめんな」と云う事ぐらいしかできなかった。

いえ、いいんです。また来ます。

そう告げて帰っていった神。

恐らく、もうこの家の門をくぐる事はないのかもしれない。

皆、そうであったから。


そっと、額にかかった髪をすく。

あの頃よりも痩せ、日に当たらないせいか色素が薄くなった肌をぼんやりと見つめ、その薄い唇にそっと口づける。

暖かさはあの時のままなのに、その記憶からはどんどん暖かさが薄れていく。

中学時代からの付き合いがある藤真の記憶も、どのくらいもつのだろうか…?






『じゃあ、お前はどうなんだよ?牧』


唇が離れ、上目遣いに牧を見つめる藤真に、牧は優しく笑って口を開いた。


『オレか…?例え他の全ての記憶を手放したとしても、お前のことだけは忘れんぞ』





その言葉だけだ。

今の藤真が縋り、唯一信じている事。


それだけは、憶えていて欲しい。

この願いが、もしかしたらいつか叶わなくなるのかもしれないけれど。


ぽたり。

一滴、涙が落ちる。

起きている時は、泣けない。

不安がるから、心配するから。


「俺のこと…忘れてもいいから、憶えてろよ…」


細くなった指に自分の指を絡ませ、藤真は小さくそう呟く。


せめて、愛した記憶だけ。

愛された記憶だけでも。


…何もかも、失っても…それだけは憶えていてくれ。


そうすれば、生きていけるから。


絡ませた指をギュッと握り、藤真はそこへ顔を埋めた。





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4月8日。

今日の誕生花は、スイトピー。

花言葉は、『私を憶えていて』


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