「よぅ、待たせたな!」


小汚いカウンターだけの焼き鳥屋に、あの頃の笑顔のままで現れた越野は、仙道に向かってそういうと片手を上げた。



「遅かったんだね」

「ゴメンな。帰る間際に、明日のプレゼンの書類のミスが発覚してさ…」


社会人の顔をした越野は、コートを脱ぎながら店の大将に『生、ひとつ!、あとはお任せで』と元気に声を掛けて仙道の隣にどっかり座る。



大人な彼。

自分の知らない世界の事を話す彼。



でも、瞳の輝きはあの頃と変わらない。



あの頃は同じ世界を共有していたけれど、今はそうではない事に歯痒さも感じる。


その歯痒さすら、新鮮だなんて言ったら、越野は笑うのだろうか?



「じゃ、乾杯!」


既にジョッキの半分は空けている仙道のそれに、自分のジョッキを当てると、グイッと越野はそれを煽る。



昔はポカリを飲み干していた、その頃と全く変わらない喉の動きにドキリ、とする。



昔を回顧するようになったら、オヤジの証拠だって言ってたっけ…。



そんなことを思い出し、一人で笑うと、越野は不審気な眼差しで仙道を見る。



「お前、変わらねぇよな。そういうトコ」



クスクス笑いながら越野はそういうと、焼きたての焼き鳥を手にそれを豪快に齧る。







変わらない?



いや、変わったんだよ。





分からないよね、越野は鈍感だから。





アルコールのせいか、少し頬を赤く染め話す越野の笑顔に、安らぎを感じる自分。



人を本気で恋焦がれる、というのは、こういうことを言うんだ、と判ったのは、

こんな店に来ても、何も感じなくなった時かもしれない。






ねぇ、越野。



もし、この恋が成就しなくても、俺は結構倖せかもしれないよ。



だって、オマエさえいたら、それで倖せなんだから。





少し前の自分を思う。


越野への想いを誤魔化していた頃の自分。


背伸びをしていたのか、それとも誤魔化すための手段だったのか。







渋谷のカフェで待ち合わせ。

スーツはアルマーニ。

時刻を確認する時計は、カルティエ。





そんな場所に身を置いていた自分。

どこか違うと気づいたのは、その笑顔にもう一度出逢ったから。








洒落た会話、甘く香る香水、高級フレンチでディナー。

そんなおしゃれな恋なんて、もういらない………。









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4月25日。



今日の誕生花は、ストレリチア。



花言葉は、『おしゃれな恋』





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越野宏明、17歳。




青春真っ只中な彼は、最近妙な悩み事を抱える羽目に陥っていた。


陥っている原因は、同じ部活の仲間のツンツン頭のせいなのだが。


この悩みは、ついぞや先日勃発した。


親友だと思っていたその男-仙道-に、突然、級友達の前で告白されるという男としてはとてもありえないシチュエーションで、大サプライズを起こされたのだ。


まぁ、冗談、ということで級友達にはカタはついたのだが…。


その後の授業は散々で、どうしてやろうかと部活に行った途端に本人を吊るし上げると、悪びれもなく、『だって、好きなものは仕方ないじゃない』…などとほざかれ、挙句の果てには誰もいないのをいいことに、ギュッと優しく抱きしめられたのだ。


…………。


思い出しただけでも、腹が立つ。


こっちはあれから散々な目にあっているというのにもかかわらず、本人は至って涼しげな顔をしていて、重苦しい自分とは裏腹だ。


………それなのに。


アイツを嫌いになれない自分を。

どうしたいのか分からない自分を。

自分自身で持て余している。


どういう意味で自分を好きなのか分からないアイツに。

あれからそれ以上は仕掛けてこないアイツに。

どうしてこんなにイライラするのか。


堂々巡りする考え。

授業は当然上の空で、ただ機械的にノートに写しているという体たらくぶり。


部活だけは何とか根性でこなしてはいるものの、更に当然ながら、あれだけ日中身体を動かしているにもかかわらず、眠れない日々も続いている。


身体に悪いこと、この上ない。


最近かなりの量が増えたため息を重苦しくひとつ吐くと、原因を作った仙道が、大きな伸びをしながらやってきた。

どうやら、午前中の授業が終わったらしい。


のそのそと教科書やらノートやらを机に仕舞っていると、ニコヤカに笑いながら仙道が自分に近づいてきて口を開いた。


「…越野ぉ、昼メシ行こうぜ」




ぷちん。


その能天気な顔を見た途端、越野の中で何かが弾けた。




何でコイツの為に、こんなに悩まなきゃいけないんだ!!


それ相応の報復をしないと、治まらねぇ。



「おぅ」


口元だけは笑い、目つきは最悪そのものの、その凶悪な顔を見て、周囲はビビッたにも関わらず、動じなかったのは『恋は盲目』な仙道だけだった。





「う~ん、やっぱり気持ちいいよなぁ…」


学食で久しぶりにガツガツとスペシャル定食大盛りをかっ喰らい、屋上に上がり思い切り伸びをして深呼吸をした仙道に、越野は凶悪なくらいにニッコリと笑った。




最高に驚かしてやんよ!!




「そうだな…こんな気分になるくらいにはな!!」


グイッと学ランの胸倉を掴み、越野は驚いている仙道の前でもう一度凶悪な笑いを見せると、その唇に自分の唇を重ねた。


きつく吸い上げて、その唇を離すと、仙道は驚いた表情のままフリーズしている。


こんなコイツの顔なんて、初めて見た。

なんだか、かなり気持ちがスッとした。



「じゃぁ、オレ、次は移動教室だから戻るわ」



ニ~ッコリ。

満面の笑みを浮かべると、フリーズした仙道を後目に、越野は軽快な足取りで屋上を後にした。








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4月24日。


今日の誕生花は、パフィオペディラム。


花言葉は、『軽快』



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「まだまだ藤真さんには叶いませんよ」


ニッコリ。
厭味のない笑顔で言われると、納得してしまう自分もどうかと思うのだが。
藤真は持っていきようがないその感情を、マックシェイクのストローを噛み締めることでなんとか静めた。


元々のポジションはフォワードのオールラウンドプレーヤー。
今や神奈川で彼の名前を知らない人はいない。
天才的なバスケセンスに加え、そのルックスたるや並みの芸能人でも叶わない。


そんなイヤミな肩書きを引っさげているというのに。
この男はどこか憎めない。
それは人好きのする、そのタレ目にあるのか。
はたまたコートを降りれば、『ただの人』以下になるその性分か。


バスケ以外でも親交を深めあうことになったのは、この男のコート以外の真剣な瞳にノックアウトされたからだという事実は、他の人間には口が裂けてもいえそうもない藤真だったりするわけだが。


「でも、ポイントガードじゃ物足りないだろ?オマエ」
「そんなコト、ないですよ。まだまだ藤真さんの仕掛ける奇襲を見抜けませんからね。オレ」

ポイントガードとして、6年修行を積んできた自分のそれを見抜かれたりしたら、流石にヘコむぞ。
それも元々ポイントガードじゃない奴なんかに。
藤真のその本音は、シェイクと共に飲み込まれる。


「やっぱ、藤真さんには叶わないなぁ…」
今日のプレイを思い出しているのか、遠い目をしながら仙道は小さくそう呟いた。


その今日のプレイも目を見張るものがあった。
ポイントガードとしてもやっていけるんじゃないかという、その視野の広さ。
ゲームの主導権こそは藤真が握っていたが、危うくも覆されそうになったそれに何度奥歯を噛み締めたことか。
本格的にポイントガードを極めれば、きっと現在ナンバーワンの地位にいる牧すらその立場は危うい。




「またまた、ご謙遜を」
脅威と感慨深さが混じった複雑な心境で、藤真はそう告げる他に言葉がみつからなかった。



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4月23日。

今日の誕生花は、ロベリア。

花言葉は、『謙遜』


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「もう、終わりにしよう」


けだるい余韻が残る越野の肌を愛おしく弄る仙道の手が、ぴく、と止まった。


「…宏明?」


その手をやんわりと引き離すと、越野は仙道の薬指に絡まる銀の指輪をそっと抜き取った。
お互いがお互いに誓った、愛の証。
抜き取った越野の指には、一ヶ月前まではそこにあった同じ色のその証はもうどこにもなかった。


「…元々、ムリがあったんだよ…」


それでも、これまで8年やってきたのだ。
今更、何を越野は言うのだろうか…。


仙道には全く越野の真意が読めず、ただ呆然と仙道に背を向けシャツを身に着けている越野を見つめるしかなかった。
何もかもが見えない鎖で縛られたように、身動き一つとれない。


「オレは認めない…そんなの…」
搾り出すようにようやく声を出せた仙道を振り向きもせず、越野はドアに手を掛けた。



「…さよなら、仙道」
最後まで越野は仙道を振り向くこともなく、いつものように名前で呼ぶこともなくそう告げると仙道の視界から消えていった…。











『2000.7.7. H to A』
内側に掘られた文字は、かなり薄くなってきている。
その銀の指輪を眺めた後、越野はそっと自分の薬指に通す。
それは越野には少し大きすぎて。
でも、その指輪からは仙道のあの暖かな体温が伝わってくるようで。
そっと目を閉じる。


『愛してるよ、宏明』

耳元で優しく囁く、甘く低い声が響いてくるようで。

ツン、と鼻の奥が痛む。


最後まで悩んだ。
告げてしまおうかとも思った。
だが、それはきっと仙道のこの先一生の負担になるだけだと思ったから止めた。
その選択は間違っていないと信じたい。


本気の恋だったから。
真面目な愛だったから。


だからこそ、仙道には倖せになって欲しい。
自分の事など忘れて。


ここに来る以上、覚悟しないといけない事だった。
何もなければ、一生あのまま傍にいて…そのまま倖せだったのかもしれない。


でも、起こってしまったから。
それはもう変えようのない事実。


仙道は、知らない。
いや、知らないままでいい。
部隊が変わったことも、その赴任地がどこかも。
知らない方が倖せな事は世の中に多いのだから。


小さく吐息を洩らし、越野はその指輪を抜き取ると胸ポケットに仕舞う。
暖かさは、その指にそっと残っている。


途端、サイレンが鳴った。
何度これが最期だと思ったかしれない合図。
死と隣り合わせの恐怖すら、あの時仙道に別れを告げた時とは全く比にならない。
越野はライフルを手にすると、そこから立ち上がった。











『…次のニュースです』

あれから、どれくらいたったのだろう…。
淋しさを紛らわす為にだけついているテレビ。
その日付は、半年が経ったことを告げているようだが、もっと長い時間が流れているような気がしてならない。


世界の杞憂を垂れ流し続けるメディアは、ただ一人の欲しい情報は流してはくれない。
それは、当たり前の事なのだが。


生活は何も変わらない。
NBAで屈指のプレイヤーと呼ばれ、栄光に満ち溢れた生活は。

変わった事は、越野がいなくなったことと、それに比例して練習量が増えたことだろうか。
グッタリする程身体を動かしているのにも関わらず眠りが浅いのは、越野がいないからなのだろう。


あの後、越野とはまったく連絡が取れなくなった。
自宅も、携帯も、電話は全く繋がらない。
メールを何度送っても、エラーで戻ってくるばかりだ。
学校の仲間に連絡を取ってみたが、誰もその行方を知らないという。
実家に連絡をとろうとしたが、引越しをしたという話は聞いていたがどこに行ったかまでは聞いていなかった。
探そうにも、忙しい身である自分には、自力で探すことすら叶わない。


くだらないニュースを垂れ流し続けるテレビを変えようとしたところで、その音声に手が止まった。
『イラクで大型の爆弾テロが発生し、日本の自衛隊の隊員17名の死亡が確認されました』


自衛隊の言葉に反応してしまう自分。
それは…そこに越野が所属しているから。
ただ、そのニュースが告げている旅団は、越野が所属しているそれとは違う事に少しホッとする。

不謹慎だと自分でも思う。
ただ、それが人間というものなのだろう。


ただ…
妙に胸騒ぎがする。
チャンネルを変えてしまえ、と心が警鐘を鳴らす。

それでも仙道はチャンネルを変えることができずに、そのままニュースに釘付けになる。


『現在判っている方は、次の5人の方です』
淡々と次々に告げられる名前には、越野の名前はなかった。

それにホッとしたのもつかの間だった。
慌てた様子で回って来た紙を見て、アナウンサーがゆっくりと口を開く。


『只今、もう一人の方が判明しました』
背中に、冷や汗が流れる。

嫌な予感がする。
当たらないで欲しい、そんな予感は。




『コシノ、ヒロアキさん…』




くらり。
仙道の視界が回った。


まさか…越野が…。
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返すテレビを仙道は呆然と見つめる。






そして、いつかの越野の言葉が耳の奥に響く。


『真実の愛ってさ、本心は相手には判り辛いものなんじゃねーのかな』



別れを告げた理由。
離れていった理由。



それが判ったのが、こんな形だなんて…


非情な情報が垂れ流されるテレビの向こうに、越野の笑顔が映って…消えた。





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4月22日。


今日の誕生花は、チューリップ。


花言葉は、『まじめな愛』


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「あぢぃッ!!」


越野は休憩の合図があるが早いか、体育館の外の水飲み場へと猛ダッシュをぶちかました。


派手にカランの下に頭を突っ込むと、水道の蛇口を勢いよくひねる。


灼熱の真夏。


まだグラウンドでやっているサッカー部や野球部に比べれば、屋根がある分恵まれているのかも知れないが、それは直射日光を浴びないだけの話であり、実は蒸し風呂さながらの様相だとは彼らも思っていないに違いない。


日陰に設置されている水道のせいか、幾分か冷たい飛沫が越野をクールダウンさせる。


「ふぅ~っ、生き返るぅぅ~」


仕上げにバシャバシャと顔を洗い、そのまま水道の蛇口を止めると、越野はブルブル、と犬が水気を飛ばすように軽く頭を振った。


生暖かい風が頬を掠めていくが、水気のある今なら少しは涼しくも感じる。


あと10分もすれば、またあの『蒸し風呂』へと戻らなければならないが、今は倖せ。


ゴシゴシと乱暴に髪を拭きながら、ふと空を見上げる。


気持ちいいぐらいに、晴れ渡っている。



今頃…湘北の試合は始まっているのだろう。


ふと、越野はそう考える。


最高のメンバーを集めた、今年のスタメンでもそこへとたどり着くことは出来なかった。


最後の試合の、魚住の涙を思い出す。


あの悔しさを思えば、このくらいの暑さに負けてたまるものか。




来年こそは、自分達がインハイに行くのだ。


そして、あの真紅の優勝旗を掻っ攫って来てやる。



最強のメンバーで。


最高の舞台で。




越野は一つ不敵にニヤリ、と笑うと、また蒸し風呂へと脚を向けた。






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4月21日。


今日の誕生花は、ミヤコワスレ。


花言葉は、『しばしの憩い』


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「ごめんなさい…」


キミは何に対していつも謝るのだろう。
快楽を享受したこと?彼を忘れられない自分に?

決まってセックスの後、腕に抱き寄せれば首元に顔を埋めて、そう呟く。


「彰…」
名前を呼び、髪を撫でる。


普段は痛いのではないかというくらい逆立てた髪も、本来の姿に戻って俺の指先に柔らかく絡む。
優しくその額にかかる髪を撫で上げ、その生え際にそっと唇を寄せる。


しっとりと汗ばんだそこは、甘い香りがする。
ゾクゾクするような、狂わせるようなそんな薫り。


「…ごめんなさい…」


ほら、また小さく呟く。
不実な恋人に裏切られた可愛そうなキミは、まだその恋の痛みを忘れられない。


そう仕向けたのは、俺。
キミを手に入れたかったから。

どうしても、自分一人のものにしたかったから。


付け入るように、近づいた。
淋しそうな顔で俺を見つめるキミを手に入れた。


今まで恋人を抱いていたキミが、抱かれるというのは抵抗もあっただろうに。
大人しく身を委ねたのは、忘れてしまいたかったからなんだろ?



忘れさせてあげる。
忘れさせてみせる。



何度でも、甘い楔を打ち込んで。
俺しか必要がなくなるように。




繊細なキミが、あの不実な恋人を忘れるその日まで。





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4月20日。

今日の誕生花は、セイヨウオダマキ。

花言葉は、『想い出の恋人』


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それは、どんな表現も似つかわしく無い位に優美で。




「お先失礼します」


「あぁ、お疲れ」


日誌をつけ終わり、最後から二番目の一年生を見送ると、牧は体育館へと視線を向けた。


手前のコートの半面だけについている照明が、今日も彼が練習をしていることを窺わせる。


練習が終わり、自主練をする人間が一人減り、二人減り、そして誰もいなくなっても、黙々と自分に課したノルマを果たす、監督をして、『海南には天才は居ない』という事を証明するような、そんな彼。


チラリ、と腕時計に目を落とす。


そろそろ、終了する頃だろうか。


牧は日誌を閉じると、部室を後にした。




そっと体育館へと入ると、神は両手にボールを持ち、ゴールを見つめていた。


軽く、ボールを弾ませる音が響き、それが止まったかと思うと、ふっとその両手が上がった。


スローモーションにも似た、美麗なフォーム。


それは犯し難い位の優雅さで。


何時見ても、何度やっても、変わらぬそれ。


努力の果てにスタメンのユニフォームを手に入れても、尚も高みを目指すようにその地道な練習を続ける姿は、どこか牧に似通うところがある。


試合中と全く変わらない真剣な表情で、ただ一点を見つめる瞳。


基本に忠実に。


伸ばされた腕から放たれたボールは、緩い放物線を描き、その小さなリングの中に消えていく。


初めて試合でその姿を見た時は、さすがの牧も鳥肌が立った。


自分がいなくなった後どうなるのか、とぼんやりと考えていたその杞憂すら吹き飛ぶぐらいの衝撃だった。




パシュッ!


ネットから吐き出されたボールは、コロコロと牧の足元に転がってくる。


それを拾い上げた牧に、神は申し訳なさそうな顔をして一つ頭を下げる。


「そろそろ、やめたらどうだ?」


神がカウンター代わりに使っている得点板を見て、牧はそう告げた。


500で止まっているそれは、おそらくそれ以上の数をこなしていることを証明している。


牧の言葉に一度神は目を伏せ、額の汗を腕でぬぐうと、真っ直ぐに牧を見据えて口を開く。


「ラスト一本、お願いします」





自分と同じように、いや、もしかしたらそれ以上に餓えた瞳に逆らえる訳がない。


牧は一つ頷くと、その構えた手のひらに向けて、自分達が情熱を捧げるそれを放った。


乾いた音を立て、それが神に渡るが早いか、狂いもないその優雅なフォームで腕を伸ばした。


神の努力の証、そして、将来の海南大附属の姿を見せるかのように、神の腕から放たれたそれは、朱色の彼方へと消えていった。




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4月19日。


今日の誕生花は、コデマリ。


花言葉は、『優雅』


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「なぁ…なんか最近オマエ、おかしくね?」


昼休み。


とんでもないデカい弁当を平らげた挙句、2つ目の購買の焼きソバパンを開けながら、越野は仙道にそう尋ねた。


「…そう…かな?」


おどおどとそう答える自分は、いつも通りに振舞えているのだろうか?


越野の強い視線から、自然に見えるように視点を手元の弁当へ向けてそれから逃れる。


手元の弁当は、まだ半分以上も残っていて、仙道の好物である卵焼きにもまだ手をつけられていない。


「どっか調子悪いのか?」


直接見ているのは辛くて。


でも、見ていたくて。


仙道は弁当箱から、そっと視線を上げて、もぐもぐと口を動かす越野のその口元を見つめる。




健康的な彼。


不健康な感情を抱いている自分。




こんなに消極的になる自分は、寧ろ嫌いだ。


でも積極的になることもできない。




「ホントに、大丈夫か?」


自然に伸ばされた手は、仙道の心を知る由もなく、そっと額に触れる。


その指先の温度が、あまりにも熱くて。


そこから火でもついたかのように躯中が熱くなる。




そう、この『関係』を失うのが怖くて。


それすらなくなってしまうことには耐えられないから。




何もいえない。


何も行動に移せない。




まるで初恋をしている内気な少女のように、仙道は俯き、その長い睫を伏せた。




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4月18日。


今日の誕生花は、アマリリス。


花言葉は、『内気な少女』


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どうしても勝ち得たい信頼を持つ人がいる。


強いカリスマ性と、チームメイトから絶大な信用を置かれているその人に。


プレーヤーとして、人間として。


その人からそんな『信頼』を受け取ることが出来たら…どんなに倖せな事だろう。






ダムダム、


手元で一度、ボールを弾ませる。





そうする為にやるべき術は、今までに培ってきたモノでは不可能であることは既に宣告され、

暗中模索だった自分にヒントを与えてくれたのも、その人で。


それも、何気ないその一言で。





パシッ


床から戻ってきたボールを両手でしっかり受け止める。


その人からパスを貰った様に、それは大事に。





必ず決めなければならない。


どんなことがあったとしても。


それが自分にとって、『信頼』を勝ち得ることのできる、今出来る唯一のことだから。






視線と意識を集中させる。


朱色の、その一点に。






『オマエのフォームは、見ていて惚れ惚れするくらい綺麗だ』





腕を伸ばす。


何度も、何度もシュミレーションしているように。



高く、高く。


その人に少しでも届くように。






『信頼』の証が、両腕から飛び立つ。


見守る自分の想いを込めて。


その軌跡が、スローモーションで描く様にゆっくりと、その朱色の中に消えていく。





パシュッ!


…ダムダムダム…




勝ち得たい、そして絶対になくしたくない、その証の行方を辿るように動かした宗一郎の視線の先には、それを手にした「その人」が立っていた。





「そろそろ、止めたらどうだ?」


「牧さん…」




気配りを忘れない、こうやって残ってやっている自分を最後まで待っているようなそんな人。


どうしても、欲しいのだ。


このひとの、『信頼』を。





「ラスト一本、お願いします」


その腕から放たれる、パスを渇望している自分。


判った、というように一つ頷くと、牧は両手でそれを自分へと押し出した。




パシッ!!




受け取ったそれは、先程までの床とは比べ物にならない、強い力が手に伝わる。


痺れる位に熱い、その塊を受け取るが早いか、宗一郎はそれが冷めぬうちにその腕から解放した。





それが、自分が今彼に見せる事ができる、唯一の『信頼の証』だから。









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4月17日。


今日の花言葉は、ラクスパー。


花言葉は『信頼』




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どうしたら、キミはまた笑顔を見せてくれるのだろうか…?




「藤真、そろそろ窓を閉めようか」


先刻まで夕日が当たっていた部屋もうっすらとその影を残して消えていき、代りに夜の帳がうっすらと降り始めている。


晩夏とはいえ、朝晩は冷え込む今日この頃。


しかし花形のその言葉に、何の反応もすることもなく藤真はぼんやりと外を眺めているだけだ。


小さく吐息を洩らして、花形は窓へと近づくとそれを静かに閉めた。


窓を閉めれば、僅かに聞こえていた木々のざわめきすら消え、シンとした静寂だけがあたりを包む。




まだ、あの頃の方が良かったのだろうか…?


最近の花形の疑問だ。


あの頃は寝ても覚めても泣き狂うだけだったが、まだその方が良かったのかもしれない。


こんなに感情を無くし、虚ろな瞳で何を考え、何を見つめているのかわからないくらいなら。




牧が死んでから、かれこれ半年が過ぎようとしている。


現代ではまだ治療の方法が確立されていない、『精神の死』と呼ばれる病気にかかり、藤真が懸命に看病した甲斐もなく…発病から一年後、最期は藤真の手を握り締め眠るように逝ったと聞いた。


藤真の狂乱ぶりは、半端ではなかった。


通夜も、葬儀も、その痛々しさに誰もが涙したぐらいだ。


火葬場で自分も一緒に入る、と物凄い力で入っていきそうになるのを、何人がかりで留めただろうか。


ろくに食事も喉を通らなかった人間なのに、それでもどこにそんな力が残っているのか、という力で。


それ程までに愛し、愛される、というのは、どんな愛だったのだろうか。


誰もが口には出さなかったが、藤真の姿を見てそう考えていたのは事実だろう。




そして初七日の日。


とうとう藤真が倒れた。


連絡を受けた花形が病室へと向かうと、鎮痛剤が効いているのか眠っている藤真は、以前の面影もなく痩せ細り、青白い顔をしていた。


牧が死んだのだから、もう牧の家には居られないから、と実家に戻ってきたらしいが、父親によれば食事もとらず、ろくに眠りもせず、ずっと泣いていたらしい。


初七日の法要が終わり、帰る途中での昏倒だったらしく、牧の両親も相当に心配していた、という話だった。


ちょっと入院の手続きがあるので、と、父親が席を外した。


一番の親友である自分が居るのなら、藤真も安心するだろうから、という事でだった。


じっと見つめた。


高校時代から、ずっと見つめていた。


チームメイトとして、そして愛する人として。


花形がそれを自覚した頃には、既に藤真は牧とそういう関係にあったからそれを告げることはなかったけれど。


三年間、自分達を叱咤激励していた面影も消えうせているのに、あの頃の笑顔だけがふと浮かぶ。


あの頃が、一番倖せだったのか…?


ふとそう思いながら、色素の薄い髪を撫で上げた。


愛しい想いを込めて、そっと。




ぴく、


何度かそうした頃、小さく指が動き、睫が影を落としていた瞼がゆっくりと開かれた。


「…もう少し、寝てろ」


「………花形………」


少しホッとしたような、それでいてまた泣き出しそうな顔をしている藤真を、花形はそっと制し、髪を撫でていたその手をゆっくりと離そうとした。


途端、藤真はその指を、ギュッと握りしめてきた。


「…藤真?」


「傍にいてくれよ…頼む…」


懇願するような瞳の藤真に、花形が逆らえるわけがなかった。





それから…。


藤真の立っての願いで、藤真の父親が所有するマンションの一室で同居するようになった。


少しづつだが泣き喚く回数も減り、食事も摂る様になって安心しはじめた頃、今度は感情を現さなくなってしまった。

一日、ただぼんやりと外を眺めているだけの日々。


色んな事を試してみたけれど、何もかもが空振りに終わり、さすがの花形ももう何をしていいか判らなくなってきていた。


元に戻ってくれ、とは云わない。


せめてあの笑顔がもう一度見られるなら。




ふと藤真の見つめる窓の外を見やった。


窓の外には太陽を追いかけるようにそこに佇んでいた月が、宵闇の力を借りてぼんやりとその実態を現し始めている。





『…オマエの作るオムライス、すごく美味いんだよな』


つと思い出す、そんな言葉。


あの日もこんな夜だった気がする。

気が早すぎだよ、あの月、もっと根性出せよ、オレみたいに、と月に向かって毒づいていた藤真。


『お袋がさ、昔作ってた味にそっくり。オレ、すごい好きだったんだけどさ。もう食えないって思ってたから…嬉しくて…』


はにかみがちに笑った笑顔が同時に浮かぶ。





そうだ…これだけは試していなかった。


もう、何も手立てがないと思っていたけれど、もしかしたら…


花形は藤真の髪を軽く撫でると、キッチンへと向かった。




あの笑顔を、もう一度見るために。




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4月16日。


今日の誕生花は、ブルビネラ。


花言葉は『試行錯誤』


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