幕末サムライ外交始末記①〜高杉晋作を驚かす戦争の高いツケ〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

ついに数年前まで、鎖国という名の堅牢な門の中に住んでいたサムライたちが、開国したことによって世界という大通りに出てしまった。
そこには恐るべき異文化があり異なる世界があった。
厄介なことにその大通りで生きていくためには外交が必須であった。

その外交が多くのサムライたちの運命を狂わせた。
本稿ではそんなことを考えてみた。

◉いろは丸事件に見る日本の常識と欧米の常識の対決

いかにも坂本龍馬らしいエピソードに、いろは丸事件がある。

1867(慶応3)年、龍馬ら海援隊が操船するいろは丸が瀬戸内海を航行中、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突して沈没した。
どちらに非があったかは諸説あるが、龍馬側に分が悪いらしい。
 
龍馬は、紀州藩から多額の損害賠償金をせしめることを考え、すぐに交渉することを提案する。
それにあたり持ち出してきたのが、当時の日本ではあまり知られていなかった「万国公法」だった。

このような海難事故は例のないこと。
万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい。


と、国際法をたてにとって交渉した。
結果は龍馬側の勝訴となり、紀州藩が海援隊に八万三千両の賠償金を支払うことで決着した。

 


いろは丸とみられる絵図 産経新聞ウェブサイトより

御三家が浪士団に負けたのだ。
負けた紀州藩のサムライこそ災難だったろう。紀州藩の現地責任者だった勘定奉行・茂田一次郎は免職となり、藩代表・三浦休太郎は後日、龍馬暗殺の容疑者と疑われ海援隊士に襲われて負傷している。

双方の事件当事者は、人も組織も日本に属していたが、実態は鎖国下の日本の常識と欧米の常識との対決であった。
日本の常識と欧米の常識の対決ではあったが、いろは丸事件は国内問題だった。
それが、真に国際問題となると話は変わってくる。

黒船来航の後の幕末。
日本の常識と欧米の常識の遭遇であり対決である外交にいったいどんなことが起きたのだろう。

日本の場合(近隣外交史についてはさておくとして)対欧米外交がはじまるのは、やっと十九世紀からである。
幕末の日本人にとって異人さんの顔さえ異様で、欧米両大陸の実景となると、夜空の天体よりも遠かった。


と、『この国のかたち』の中で、司馬遼太郎は言っている。

日本の武士階級でも、欧米の事情を知る者はきわめて少ない。
民衆は、まず驚いた。

司馬氏は続ける。

幕末における日本の世論は、いわば宇宙から異星が攻めてくるといったような荒誕な気分から発した。

荒誕とは、おおげさで全くでたらめであるという意味だ。荒唐無稽とでもいうべきか。

荒誕はかえって可燃性のガスを生む。
これによって、幕末、攘夷論が津々浦々に充満した。幕府が開国したのに、在野は鎖国を維持せよ、というのである。


特異だった鎖国日本の中華思想外交


鎖国。

鎖国がその後の日本にもたらした影響はすこぶる大きい。

鎖国を広辞苑で引くと、

国が外国との通商・交易を禁止、あるいは極端に制限すること。

とある。
制限ということは、必ずしも国を閉ざすことではない。
長崎を窓口にして、中国やオランダとは交流、貿易をおこなっている。
鎖国は、消極的な外交政策であった。

長崎和蘭陀屋舗圖 (立正大図書館収蔵) ナガジン!ウェブサイトより

徳川幕府は、あくまで幕府ファーストであって、その統治を脅かさないに限りにおいて異国・異民族との接触は不可ではなかった。

実は長崎以外にも世界との窓はわずかながら開いていた。

長崎
対馬
薩摩
松前

という4つの窓口を通じて、日本は世界との交流を維持した。


秀吉の朝鮮出兵後、徳川幕府は朝鮮と講和し、釜山に倭館が設置され、対馬藩主である宗氏が対朝鮮貿易を独占した。


琉球は、1609年以降薩摩藩の支配を受けるようになった。幕府は、琉球から江戸に来る使節にはみな中国風の服装、中国風の音楽を演奏させたという。


蝦夷地では、蠣崎氏が松前を本拠地として道南地域の支配者となった。蠣崎氏は家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって松前氏と改名し、幕府が松前氏にアイヌとの貿易独占権を与えた。


ということで、決して国を閉ざしたわけではなかったのだ。

幕府の外交方針はおおよそ特異である。
日本が自らを〝中華〟とし、周辺地域を支配するという姿勢をとった。

日本の首長は征夷大将軍(将軍)である。
征夷大将軍は読んで字の如く「夷」を征する者であり、清・蝦夷・琉球などは征伐の対象だった。
しかし、それは名目であって実際は

服従の意思を示す限りは実行を保留する

ものであった。
この理屈で将軍の権威を高めたのだ。

欧米の外交というものはそのようではない。
彼の地は、ひとつの陸地に多くの国家と民族がひしめき合っている。
欧米諸国は、平和を維持しながら利益を獲得するために、複雑で高等な外交が必要だった。
日本は島国であり、ある時期までは海軍力の脅威とは無縁であった。
鎖国下での外交関係は、例えればそれはあたかも縁台で遠雷を聞きながら夕涼みをする風情であった。
当時の欧米諸国の馬の目を抜くようなバランスオブパワーの嵐のなかの、利害に敏感でつねに緊張感をもった外交関係とはいちじるしく異なっていたのである。

しかし〝遠雷〟はついに江戸湾にその姿をあらわした。
1853(嘉永6)年。
西洋が黒船というかたちで出現したのだ。

 

黒船の旗艦・サスケハナ号 Wikipediaより

◉攘夷戦争と蒙昧で野心的な高杉晋作の外交

古代における大陸文明が形を成したものが仏像であったように、近代の西洋が形を成したものは黒船だった。
当時の民衆は近隣のアジア人の相貌は知っていても、フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイス、三浦按針のような欧米人を見たこともない。
ペリー提督の似顔絵が流布したが、実物とは似ても似つかない化け物のような相貌だ。
黒船とそこから降り立った異人たちへの驚きと恐怖は化け物のような似顔絵となり、民衆のなかに可燃性のガスを生み、幕末、攘夷論となって津々浦々に充満した。

幕府は欧米のシーパワーに戦慄し朝廷の勅許を待たずに開国したところ、民衆の可燃性ガスはたちまち爆発して「攘夷」の嵐が吹き荒れた。
幕府は朝廷に押し切られるように、1863(文久3)年5月10日をもって攘夷の実行を奏上し、諸藩にも通達する。

欧米諸外国からすれば、政府(幕府)の外交は首鼠両端、二枚舌にみえたであろう。

幕末の外交においてー。

日本の常識と欧米の常識の遭遇であり対決である外交に、いったいどんなことが起きたのだろう。

本稿の初めに戻ってこのことについて考えるとき、私はあるひとりの男を思い出す。

高杉晋作。

高杉の長州藩は天下第一の攘夷藩だ。
幕府は攘夷実行の通達を出したが、攘夷実行を軍事行動とは見ていなかった。

しかし、長州藩は軍事行動を起こした。
関門海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダなどの商船や軍艦を砲撃したのだ。
1か月も経たないうちに米英仏蘭の軍艦は報復を開始。艦砲射撃のほか陸戦隊を下関に上陸させ長州の砲台を占拠、ことごとく破壊した。
下関戦争と呼ばれる四国艦隊下関砲撃事件である。

連合国によって占領された長府の前田砲台 Wikipediaより

私が想起するのは、講和談判のときの高杉と英国側とのやりとり(外交)である。

ここに日本の常識と欧米の常識の異音のような衝突を見るのだ。

講和談判は英艦ユリアラス号の長官室でおこなわれた。
長州藩からは正使・高杉晋作と副使二名、通訳は若き日の伊藤博文。
英国側は、クーパー提督とその幕僚、通訳はアーネストサトーであった。

よく知られた話だが、サトーはその時の高杉の様子を、

魔王のように傲然とかまえていた。

と記録している。

 

アーネスト・サトウ Wikipediaより


講和談判の目的は、講和ための合意文書を取り交わすことだ。むろんその履行を約すことになる。

戦争は勝った方が負けた方に賠償金を要求する。それが欧米の常識だった。

最後にクーパーは、もっとも重要な議題を出した。(略)
西洋の慣習として戦いに勝ったほうが、敗者に勘定書を差し出す。勝利に必要だったいっさいの経費を敗者に支払わせるというもので、ヨーロッパにあっては戦争であれ、民事訴訟であれ、この道理はかわらない。
横浜から下関まで艦隊がやってくることに要した薪炭費、船の消耗についての費用、兵員の給料、八人の戦死者と三十人の戦傷者についての賠償、撃った砲弾の費用などである。
(司馬遼太郎『世に棲む日日』より)


この様子は、大河ドラマ『花神』で見るとさらにわかりやすい。

サトー
その費用、300万ドル!

高杉
300万ドル!?
(傍らの伊藤に小声で)
長州藩が50年かかっても払えんぞ。


伊藤
(英語で)
長州藩は36万石。しかし、実際に使える収入は6万石。とても金は無い!


サトー
戦争というものは、はじめから金の計算をして始めるべきものです。いまさら金が無いでは世界に通用しない!

この欧米の常識を高杉らは知らなかったことになる。
長州藩、というより日本は、300万ドルという金を支払うという莫大な代償によって世界を知ったのだ。

◉攘夷戦争の高いツケで焦燥する幕府

ただし、高杉は只者ではない、革命児だ。
相手がイギリスだろうが将軍だろうが怯まない。むしろ思考と行動を飛躍させる。

高杉晋作 国立国会図書館ウェブサイトより

わかった、と高杉は言った。

攘夷を命じたのは朝廷と幕府だ。
長州藩は単にてっぽうに過ぎん。撃ち手は幕府であり、この300万ドルは幕府が支払うべきものだ。


高杉はどこで用意したのか幕府の攘夷命令書を取り出した。

文久三年五月十日をもって攘夷実行の期限とする。
幕府の命令書だ。
長州藩に300万ドルの賠償責任はない!


講和談判で、300万ドルの賠償金は幕府が支払うことで合意。

幕府にしてみればつらかった。
外国に対して幕府は日本国政府であらねばならなかった。
高杉はそのことを熟知している。
幕府は日本国政府であるためには、はねっかえり長州藩の尻拭いをせざるを得ない。
幕府は賠償金支払いを受け入れ150万ドルを支払い、新政府が残りを分割で支払った。
完済に1874(明治7)年まで要したという。


これが世界というものか。
高杉は欧米の常識を莫大な賠償金で思い知らされた。
が、彼は平時の宰相ではない。
おそらくそのことはそれ以上深く考えなかったろう。

むしろ、困惑する幕府高官が思い浮かび、

この手にかぎる

と、ほくそ笑んだのではないか。
この5月、薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払ったのを高杉は知っていた。

幕府が、下関戦争は長州藩が勝手にやったことで、幕府はなんの責任もないと言ってしまえば、長州藩は独立国家であることになり、さらに拡大解釈すれば三百諸侯はみな独立国家ということになってしまう。
幕府が日本で唯一の政府であるというには、幕府は長州藩がやったことでも尻ぬぐいしなければならないのだ。

高杉の外交とは、そういうものであったと思われる。