〈前稿より続く〉
後藤田命令にそくして、いくつかあさま山荘事件を点描したい。
⚫︎報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
事態が膠着すると報道陣は、寒さと疲労でイライラし殺気立つ者も出てくる。
あるとき、県警の広報担当者が佐々氏に尋ねる。
午後3時の定例会見ですが、情勢に進展がなくて発表事項がないですから、会見は中止と言いましょうか。
すると、佐々氏。
いかん、いかん、発表事項があろうがなかろうが、約束の定例会見はやらないといけない。
キャンセルすると、本当に何もなくても、あッ何かあったな、隠してるな、他社に特ダネ抜かれちゃ大変と疑心暗鬼になる。
そう言って、600人の報道陣の前に姿をあらわすと、記者たちは一斉に居住まいを正し、メモ用紙とペンを構える。テレビ用のライトがつきカメラがまわりだす。
佐々氏が口を開く。
では午後3時の定例会見をおこないます。
午後3時現在、「あさま山荘」の状況変化なし。したがって発表事項なし。以上。
みんなガヤガヤしながらも納得して、会見室を出てゆく。
なるほど、芸能人の記者会見もこれに近いかもしれない。それが単なる噂でも事実でもやらないと支障がでる。
ひとつの危機管理の見事な答えだろう。
あさま山荘を見つめる機動隊員 NHKウェブサイトより
⚫︎警察官に犠牲者を出さないように。
2月28日午前10時からの制圧作戦は、城攻めでいえば総攻撃だ。
犯人らはライフル銃もあれば、散弾銃も持っている。鉄パイプ爆弾もある。
実は、総攻撃より前にすでにあさま山荘に勝手に接近した民間人が撃たれて亡くなっているし、山荘を撮影しようとした機動隊員が撃たれて負傷していた。
しかも、そういう連中の立てこもる城に突入し、攻める側にも攻められる側にも死者を出さず、しかも人質を無事に救出するというのだ。
山荘は現代の千早城。
南側正面から突入路を作って飛び込むしかない。
壁を壊して突入路を広げるために大鉄球と放水が行われていたが、それを指揮していた高見警部が撃たれた。
突入に成功した隊員も散弾銃で撃たれた。
また、突入しようとして土嚢を飛び越えようとした隊員は散弾を顔面に被弾した。
犯人たちが間断なく銃を発砲するのに対し、機動隊は催涙ガス銃と放水で対抗するしかない。
ついに、敵情を偵察していた内田尚孝隊長が撃たれた。
内田隊長を失った警察の衝撃は大きく、このあと3時間あまり作戦行動が停止してしまう。
高見警部と内田隊長は病院で息を引き取り帰らぬ人となった。
あさま山荘の壮絶な攻防 NHKウェブサイトより
⚫︎犯人は全員生け捕りにせよ。
夕方5時過ぎ、突入した機動隊員たちはついに犯人たちをベッドルームに追い詰めた。
バリケードを楯に銃を乱射する犯人たち。
最後の時は近い。
突入したら体当たりで検挙せよ。
犯人が人質を楯にしたら、大楯、防弾楯を前に立て一斉に検挙せよ。
内田隊長から交代した大久保隊長が叫ぶ。
隊長命令ッ、一斉に突入、検挙せよッ!
目の上に散弾を撃ち込まれながらも犯人と格闘し始める若い巡査部長。
弾切れになったところを見すまし、隊員たちは大楯を犯人たちに叩きつけ、銃を払いのけ馬乗りになった。
⚫︎人質牟田泰子は必ず救出せよ。
仲田という小隊長は、無我夢中で目の前に出ていた手首をつかんで引きずり出し、手錠をかけようとすると、その手首が細い。
私、ちがいます!
それが人質となっていた牟田泰子さんだった。
牟田泰子さんは無事、生きていた。
事件直後のあさま山荘の内部 中日新聞ウェブサイトより
犯人全員逮捕、人質を無事救出。
この吉報に、山荘を取り囲んだ数百人の機動隊員、1000人を超える報道陣からドッと歓声が上がった。
その感動は6千万人といわれた日本国民に生中継で伝わった。
こうしてあさま山荘事件は終結した。
しかし、現場を引き上げる佐々氏に、残酷
な記者の声が届く。
佐々さん、内田さんや高見さんを死なせてしまって、今はどんなお気持ちですか。コメントを。
心の重い凱旋だった。
警察庁に戻ってみると嫌な噂が流れている。
わずか5人の鼠族のために1500人の警察官が10日もかかって、しかも殉職者2人、負傷者24人も出して、よくオメオメと帰って来れるな、誰も辞表を出すのはおらんのか。
もしこの人が実在していて、現場の突入部隊のなかに、いや防弾装甲の特殊車両のなかでもいい、実況現場でもいい、そこにいたならばこんなひどい言葉を吐けるだろうか。
佐々氏は辞表を出す決心をした。
自宅に帰って、ねぎらう妻に警察を辞めると告げて、ベッドにもぐり込み深い眠りにつく。
やがて、妻からの呼びかけて目を覚ますと、後藤田長官から電話だという。
さてはお叱りの電話かと、ふてくされた声で電話に出た。
私(拙ブログ筆者)は、このあとの後藤田氏の言葉に心がふるえた。
何度でも感動できる、涙が出そうな言葉である。
佐々君か?あのなあ、いろいろ言うとる奴はおるが、だ、君をおいてあれだけやれる奴はおらんかった。
ようやってくれた。
お礼を言います。
御苦労様でした。
疲れたろう。
ゆっくり眠ってくれ。
佐々氏は男泣きに泣いた。
そして、このときの心情をこう書きしるしている。
士ハ己ヲ知ル者ノタメニ死ス
佐々氏は後藤田長官のこの一本の電話がなかったら、自分の警察人生は終わっていたと、のちに述懐している。
佐々氏に言わせれば、その後藤田正晴氏ほど多くの事件事故の危機管理を指揮した警察庁長官はいない。
以下はその一部だ。
よど号ハイジャック事件
瀬戸内シージャック事件
三島由紀夫事件
三里塚闘争
テルアビブ空港乱射事件
そして、あさま山荘事件
官房長官時代においても、それは変わらなかった。
レフチェンコ事件
中川一郎氏の自殺
大韓航空機撃墜事件
三原山噴火による住民の全島避難
また、イランイラク戦争で海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上したときには、閣議でサインを拒否するなどして猛烈に反対し、中曽根首相に派遣を断念させている。
日本が戦争に関与することに反対する氏の政治姿勢は一貫していた。
後藤田氏は、こうして50年も公職にあり、数多の閣僚ポストについて敏腕をふるい、中曽根康弘元総理をして〝不世出の官房長官〟といわしめた。
さらに副総理として政権を支え、最後は政治改革のために総理大臣に擬せられながらもこれを固辞したという位人臣をきわめた人であった。
そんな後藤田氏が官房長官を退任するときの挨拶を、佐々氏は忘れられないという。
まともな人でも、在任中の自慢話のひとつもぶちたいところだろう。
しかし、その挨拶は意外なものだった。
50年近い私の公職人生の中で、私には、大きな心残りがあります。
それは、過ぎし第二次安保闘争という騒乱状態を鎮めるため、警察はのべ600万人の警察官を動員し、殉職者十有余名をふくむ約12000名の負傷者を出しました。
なかには生涯なおらない後遺症をのこし、いまも苦しんでいる人々がおります。
私は警察庁長官として、警察官たちに忍耐を求め、必要以上の実力行使を慎しむように命じ、この騒乱を鎮めることができました。
だが、その蔭にこうした大きな犠牲を警察側に課したということについて、私は心が痛み、これからの私にとっても心の重荷となることでしょう。
そう言ったのである。
第二次安保闘争のなかには、あさま山荘事件も含まれている。
命令権者にその責任はある。
批判を浴びた佐々氏をほめた氏の心の奥には、常にその責めを負うのは自分である、という強い信念があったのであろう。
あさま山荘事件から15年9ヶ月後のことであった。
国会答弁する後藤田正晴官房長官 読売オンライン
そして、さらにそれから12年後、21世紀になってある雑誌で「20世紀 衝撃の一日」という特集があり、各界著名人にアンケートをとりそれが記事になった。
後藤田氏はその中にあって、20世紀衝撃の一日を
連合赤軍あさま山荘事件
に選び、こう述懐した。
人質は無事救出でき、犯人も全員検挙しました。しかし、残念ながら二人の警察官が殉職しました。あの処理が合格だったかといえば、私は65点しかつけられない。ぎりぎり合格というところです。
後藤田氏はこのときすでに政界を引退しており、このときから5年後にこの世を去る。
位人臣をきわめた氏であっても、その心にはあの籠城事件のトラウマが残っていたのだ。
この長い雑話もまもなく終わる。
あさま山荘事件を現場で闘った佐々氏ら25人は、その後毎年2月28日には必ず築地のレストランに集まって、殉職した内田尚孝警視長、高見繁光警視正の冥福を祈り黙禱を捧げるという。
ある事実がある。
あさま山荘事件の犯人で逮捕された一人の坂東國男は、1983(昭和58)年に起きたクアラルンプール大使館占拠人質事件のときの超法規的措置により釈放され、国外に逃亡した。
そして、いまも捕まっていない。
いまから53年前に私たち多くの人々が目撃した、壮絶で衝撃的なあさま山荘事件は、あの凍えるような夜に誰もが終わった思っていたに違いない。
しかし、後藤田正晴氏、佐々淳行氏が鬼籍に入られたいまも、あさま山荘事件は終わっていないのである。
(この項おわり)
【参考】
佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫)
佐々淳行『わが上司 後藤田正晴』(文春文庫)