いま、警察官の人材確保が難しいそうだ。
警察庁によると、全国の警察採用試験の受験者数は2013(平成25)年の110,635人に対し、2022(令和4)年は58,329人。
約10年で半分に減っている。
いろいろと理由はあるようだが、求める水準の人材が集まらず警察官の人員が減れば、事件・事故に適切に対応できなくなる恐れがあるというのだ。
それが治安の悪化につながるならゆゆしき事態だ。
そのためか、ある県警ではすべての試験で握力検査を緩和し、男性で10キロ、女性で5キロと基準を引き下げたり、理由を申告せずに1~2時間の休暇をとれる制度を取り入れたりしているという。
警視庁では、
さまざまな働き方ができ、多様な能力を生かせる職場ということを知って受験してほしい。
と言っていることから、警察もいえども少子化の現代日本の中にあって変わりつつあるといえそうだ。
こうした世情とは関係はあるまいが、つい先月にはこんな事件も起きている。
川崎市内の交番に自首してきたのは、市内に住む容疑者。
「覚醒剤をやっている」と、覚醒剤が入った袋を所持していた容疑者は、現行犯で逮捕された。
その後、署内で取り調べが行われた際、事件は起きた。
取り調べが終わり留置場に移動するのを待つ間、監視を担当していた警察官がうっかり居眠り。
容疑者はそのすきをつき、腰縄をほどくと、取調室から出て行き、逃走。
この時、ドアの鍵はかかっていなかったという。
居眠りした警察官が物音に気がつき目を覚ますと、容疑者がいなくなっていて、大勢の警察官らが署を飛び出していた。
警察官居眠りを報じるニュース映像 FNNオンラインより
逃げた容疑者は、警察署から約50メートル離れた場所で警察官によって発見されると、約200メートル離れた路地で逮捕された。
逃走した容疑者は、路地の先で警察官に追いつかれ、確保されたという。
ネットニュースでは、「ドリフのコントか」と嗤われる始末と報じる記事もあった。
この事件を受け、警察は、居眠りしてしまった警察官に対し注意を行い、再発防止に努めるとしている。
この男、覚醒剤取締法違反に加え、単純逃走未遂の罪でも逮捕されてしまった。
警察官が居眠らなければ、罪を重ねることもなかっただろうに。
この警察官もふくめ警察職員は全員が以下の宣誓をおこなうことになっていることは、いまもむかしも変わりがない。
私は、
日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、
命令を遵守し、
警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体または組織に加入せず、
何ものにもとらわれず、
何ものをも恐れず、
何ものをも憎まず、
良心のみに従い、
不偏不党かつ公平中正に警察職務の遂行に当ることを固く誓います。
さて、本稿について。
警察は警察でも、話柄はガラリと変わる。
むしろ正反対の話になる。
いまから53年前のことだ。
人間が人間に狙いをつけて銃で撃っているということは、犯罪自体が異常であることはもちろんですが、そのままテレビで同時に中継され、これだけ長時間、茶の間に送り込まれている。
その異常さを思うと、非常に恐ろしくなります。
これは、ある事件を実況しているさなかに、アナウンサーが発した言葉である。
ある事件とはーー。
あさま山荘事件
私にとっては、物覚えついた時から今までのなかで、もっとも衝撃的な事件である。
小学校低学年だった私が学校から帰ってくると、テレビには谷底から聳え立つように建つあさま山荘が正面に映っている。
静寂をやぶる乾いた銃声、壁を打ち砕く大鉄球、飛沫をあげる放水流…。
私には目の前に映っていることが、唖然とするしかない異常な出来事というほかなかった。
事件の概要はこうだ。
連合赤軍のメンバー5人が1972(昭和47)年2月19日、軽井沢のあさま山荘に押し入り、管理人の妻を人質にとって立てこもった。
28日朝から始まった警察の制圧作戦に、犯人側もライフルや拳銃で応戦し、機動隊員2人が殉職した。
結局、午後6時過ぎ、機動隊が山荘に突入して犯人全員を逮捕し、人質を救出した。
あらましを書けばそれだけのことだが、50余年を過ぎたいまでも、多くの人々にとってあさま山荘事件はもっとも衝撃的な事件だと断言できる。
テレビでは、NHKをはじめJNN、FNNなどすべての民放が中継放送しており、最高視聴率は89.7%に及んだ。
ほとんどの国民が視聴していたことになる。
私も同様に、暗闇のなかで犯人たちが連行される場面までことのなりゆきを固唾を飲んで見守っていた。
何時間、テレビの前に座っていただろう。
その時は、子供ごころにこれが日本なのかという衝撃だけだったが、もうひとつ思ったことがあった。
山荘に立てこもるのが犯人で、対峙しているのが警察で、警察は敵の銃弾のなかで身をかがめ、ただひとりの人質のいのちを救うためにやがて突入するだろうということをである。
つまりは、ひとつのいのちを救うことの重さというものをこの時知ったのだ。
いま、事件の詳細を書く紙数はないし、筆力も、根気もさらにない。
しかし、今でもその衝撃が澱のように体のどこかにとどまっているような気がしている。
とはいえ、多くの出来事と同じように、この事件も風化して人の記憶から忘れ去られていくのだろう。
だからというわけでもないが、とりとめもなくまとまりなく、証言などから雑感を少しばかり、と思う。
人間が人間に狙いをつけて銃で撃っている…
と言ったのは、あさま山荘での一部始終を9時間以上も実況したNHKアナウンサーの平田悦朗氏である。
平田氏は、のちに事件を振り返ってこう言った。
あれほどの大事件になると、客観的であろうとしても渦中にいるわけですね、同時進行ですから。
立ち会ってしまう、ということです。
それは茶の間もそうだと思うのです。
同時中継でなければ、ある一定の距離をおいて自分の中で再構成する時間があるけれど、テレビはその時間を許さない。
そういう意味では、あさま山荘事件は、同時中継だから非常に迫力があってすごいんだけれども、価値判断や自分がそれを消化する時間を排除してしまう。
それがテレビの同時中継のすごさ、恐ろしさということではないかと思います。
私はこれを聞いて、なるほどと思った。
卑近な例えでいえば、野球場へ行って贔屓のチームを応援観戦するとする。
味方がチャンスになれば非常に盛り上がり熱狂する。
一方で、現場観戦は実況や解説がないので、そのプレーの意味や打ったのはどんなボールだったのか、選手の心理がどうだったのかまではわからない。
興味深いのは、同じく事件を実況した別のアナウンサーが、事件後にこう語っていることだ。
ちょうど9時間、現場から実況中継したんだけれど、終わった後に非常に放送したという実感と同時に、むなしさも感じたんですよ。
この事件を契機に、実はアナウンサーを辞めようと決断したんです。
といいますのは、起きている現象からしゃべることはできたんですけれど、起きている現象をアナウンスしただけであって、その中に閉じこもっている犯人たちが、どういう主義をもった人たちなのか、連合赤軍とは何なのか、ということもわからないまま放送していたんですね。
それはおそらくテレビをご覧になっていたみなさん方がイライラなさった部分があったと思うんですね。
そのイライラの部分にあのとき放送していたメディアがこたえられなかったと思うんです。
それにこたえるという視聴者の要求が、あさま山荘事件を機会に急速に高まっていったのではないかという気がします。
ニュースを含めて事件・事故へのみなさんの関心が急速に高まってきたニュースの時代の幕開けだったという気がするんです。
この人は、日本テレビアナウンサー(当時)の久能靖氏で、この後、ご本人がいう通り報道部へ異動を志願し、記者となった。
あさま山荘事件をきっかけに記者に転じた久能靖氏 読売新聞オンラインより
二人のアナウンサーが言っていることは、ある意味で共通しているように思える。
原稿を丁寧に読む、起きていることをわかりやすく伝えることがアナウンサーの役割である一方で、限界でもある。
伝える客体があさま山荘事件というあまりに異常な時空間であったことが、彼らに恐ろしさや虚しさを喚起させたのではあるまいか。
私が、というより多くの人々があさま山荘事件の詳細を知るのは、佐々淳行氏によってであろう。
佐々淳行(1930〜2018)。
佐々氏は、文筆家ではあるが、本職は警察官僚である。
事件当時は、警察庁警備局付警務局監察官。
階級は警視正。
彼は、あさま山荘事件の警備実施・広報担当責任者であった。
彼は退官後、その波乱万丈な官僚人生を記録文学として著述した。
そのなかで、私が小学生のとき衝撃をもってみたあさま山荘事件の全容を知ったのである。
何より、歴史好きの私を惹き込んだのは、
崖にせり出した三階建ての「あさま山荘」はまさに現代の〝千早城〟だった。
という一節があったからだ。
印象的だったので佐々氏が警備責任者として現場を見た印象をそのまま書く。
その斜面の上に空高く三階建ての「あさま山荘」がまさに〝千早城〟のようにそそりたっている。
下から見上げると、四層の城砦だ。南北朝時代の武将楠木正成が河内で旗揚げし、金剛山の上に築いた「千早城」という山砦で押し寄せる幕府の足利尊氏の大軍をさんざん悩まし、遂に千早城を守り抜いたの有名な故事だ。
「あさま山荘」はまさに天然の要害で、攻めるに難く、守るに易い地勢になっている。
山荘の玄関は三階にある。
建物の北側は断崖、南側が三階と道路が同じ高さになっていて、玄関は道路から手すりのついた石段を数メートルくだって、7〜8メートル進んだところにある。
警察が攻めるとしたら、この南側しかない。
あさま山荘 中日新聞ウェブサイトより
この事件をひとつのドラマとすれば、その始まりは佐々氏が指揮官に任命される場面だ。
彼は突然、警察庁長官に呼び出された。
この長官は、後藤田正晴(1914〜2005)という人である。
後に「カミソリ後藤田」と呼ばれ不世出の官房長官とうたわれた人だ。
後藤田氏の功績は、その危機管理と行政改革であろう。
とくに、政治家としての晩年の1989(平成元)年、おりからのリクルート事件で自民党は、汚辱にまみれた政治を再起させるために党内に政治改革委員会を設置した。
その委員長が後藤田氏だった。
その結果、まとめられたのが「政治改革大綱」である。あれから35年が経ち、政治とカネがまたぞろ問題化していて、討論などのなかでかつての政治改革大綱も話題となっている。
さて、警察には特別権力関係というのがある。
特別権力関係とは、特定の目的に必要な範囲内で、一方の国家機関が公務員を包括的に支配し、服従が求められる関係だそうだ。
あさま山荘事件を現場で指揮した佐々淳行氏 NEWSポストセブンより
佐々氏が後藤田長官と直接的にそういう関係になったのは1964(昭和39)年頃からのようだ。
その頃は、戦後の平和とはいっても警察にとっては物騒な時代で、幹部らは過激派の暗殺リストに載っていたらしい。
後藤田長官の公邸にも小包爆弾が送られてきたことがあった。
ある日、当時警備課長だった佐々氏が、後藤田長官に、自宅に警備をつけ身辺にはSPをつけることを進言すると、必要ないとキッパリはねつけられた。
長官の毅然とした態度を見て、佐々氏は
この人は死を恐れていない
と思ったという。
その後藤田長官が、当時、監察官だった佐々氏を呼び出して言った。
ああ、佐々君、あのなあ、野中(長野県警本部長)君はなあ、こういう警備、やったことないでなあ、君、ちょっと軽井沢行って、指揮してこいや。
その耳元を春風が過ぎるような、物見遊山に出かけるようなセリフとはウラハラな厳格な〝長官指示〟が飛んできた。
あさま山荘事件の処理方針である。
それを長官はサラサラとメモ用紙に鉛筆で6項目書いた。
一、人質牟田泰子は必ず救出せよ。これが本警備の最高目的である。
二、犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾をひく。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
三、身代り人質交換の要求には応じない。とくに警察官の身代りはたとえ本人が志願しても認めない。殺される恐れあり。
四、火器、とくに高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
五、報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
六、警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。
これに対し、佐々氏は、犯人の手か足を狙って撃つとか条件を緩めてもらえないか食い下がったが、却下となった。
事件当時警察庁長官だった後藤田正晴氏 文春オンラインより
特別権力関係の上官命令が下ったのである。
この場合、佐々氏以下、派遣団には服従が求められる。
佐々氏たちは、現場を指揮するために警視庁からあさま山荘事件解決のために編成されたプロジェクトチームのナンバー2だ。
一方、他の役所同様、警察も縦割り主義で、現場のある長野県警察を警視庁のPTが協力するという建て付けになっていた。
しかし、後藤田長官が意図したのは日本版FBI。つまり、佐々氏ら警視庁PTは全国をかけまわるFBI式警備指揮のハシリだというのだ。
佐々氏はこれを
八州見廻り
と称している。
なるほど言い得て妙だ。
しかし、いかんせん四半世紀早すぎたと言っている。
現場では指揮命令権をめぐって相当な軋轢や葛藤があったのだろう。ではあろうが、後藤田命令は絶対だ。
大事の前の小事にすぎない。
彼らは必死に、文字通り必死に職務を遂行したのである。
その職務とは、難攻不落といわれた千早城に似たあさま山荘での、史上もっとも困難な攻城戦であった。
映画『突入せよ!「あさま山荘」事件』のワンシーン 映画.comより