鎮魂の先にあるもの〜戦争が歴史になる前に、平和が過去になる前に〜
戦後81年。戦争の記憶は遠くなりつつある。戦争を語ることのできる人が、この世を去りつつあるからだ。今年、ある元海軍兵がお亡くなりになった。『桜花』搭乗員の生き残りの最後のお一人だという。『桜花』は、攻撃機というより兵器といったほうがあたっている。1.2トンの爆弾に翼とロケットをつけ、それに操縦席をつけたような形の特攻兵器で、人間爆弾 とも呼ばれた。陸上攻撃機に吊るされ、敵艦隊の手前で投下されると、滑空して敵艦に突入するものだ。恥ずかしながら、私はつい先ごろ、人間爆弾『桜花』というものがあるのを知った。作家・城山三郎(1927〜2007)の著書によってである。NHKでも、戦争経験者の証言を丁寧に取材して公開している。『桜花』出撃を命じられた電信員の菅野善次郎さんは、証言している。「メイン電信員 菅野二飛曹」、と言われたときにもうこの辺、スーッと冷たくなりましたよね。これは本物ですね。立って聞いていたときにね。命令受けて、名前を呼ばれたときにね、何かほっぺたが冷たい、ここがヒヤッとしましたよ。いよいよ来たな。死ぬ時期なんだという。菅野さんが乗り込んだ陸上攻撃機の人間爆弾である『桜花』の搭乗員は土肥三郎中尉。土肥中尉は、師範学校を卒業後、自ら志願して入隊。当時22歳だった。一式陸上攻撃機の機体下部に搭載された『桜花』 産経新聞Webサイトより1945年4月20日、『桜花』を吊るした9機の陸上攻撃機が出撃。目標であるアメリカ軍の艦船を目指した。出撃から2時間後。菅野さんと土肥中尉を乗せた陸上攻撃機は、ついに目標を発見した。菅野さんが見たのは、哨戒活動を続けていたアメリカ軍の駆逐艦でエイブリーといった。ただちに菅野さんから土肥中尉に『桜花』の出撃準備が告げられた。このときの土肥中尉の様子を菅野さんは、鮮明に覚えていた。飛行帽取って、これはいらないと、鉢巻きしめましたね。そして首に提げたピストル、手に入るぐらいの、短いやつね、それ士官持ってますから、自決用にね。で、これをあれして、これ宮下中尉っているんで、もしも帰ったら、これ、おれの遺品だってやってくれと、そしたら『兵曹、どうもご苦労さん、お世話になったな』って言ってスッと。なんとも言われなかったですね、そのときは。もう目先死ぬのはっきりしてるわけですからね。最後の会話を交わした後、土肥中尉は、『桜花』に乗り込んだ。『桜花』を切り離すレバーを引いたのは、菅野さんだった。落ちるときは、見ていられなかったというのが本当の気持ちですね。私も目つぶると一緒に引いたと、こういう形ですね。魚雷と違うのは人が乗っているという1番はそこですね。人の乗る爆弾という問題はそこじゃないですかね。で、落ちる瞬間は見ることができなかったということでしょうね。あれはいくら軍人でも見られないですよ。本当の非情の爆弾ですよね。人が乗ってるというのは。午後2時46分、土肥中尉を乗せた『桜花』が、突入していった。米軍の記録によると、駆逐艦エイブリーは、大爆発を起こし、沈没したと記されている。その後、『桜花』による特攻作戦は、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わるまで続けられた。米軍によれば、10回にわたる桜花作戦によって沈められた艦船は、わずかエイブリー1隻のみだっという。それに対して、搭乗員とともに突入する人間爆弾『桜花』。終戦までに、陸上攻撃機、そして、掩護にあたった戦闘機の搭乗員を合わせ、430人を超える命が失われた。***城山氏も、戦争経験者のお一人だ。1945(昭和20)年5月、日本の軍部は新規に大量の特別幹部練習生を採用、動員した。15,000名余という。城山氏もその中の一人だった。彼は動員ではなく、志願だった。純な熱い気持ちがあったのだろう。この大量採用は何のためかといえば、特攻兵器の要員確保だ。人間爆弾『桜花』のほかにも特攻兵器はある。特攻目的で大型爆弾を搭載するジェット攻撃機『橘花』、木製で松根油を燃料とする『梅花』もいうのもあった。水中の特攻兵器もある。人間魚雷『回天』モーターボートに爆装した『震洋』乗組員5人の特殊潜航艇『蛟龍』600キロ爆弾を詰めた二人乗り潜水艦『海龍』など、兵器によって差はあるものの、乗員の生還の可能性がほぼない、極めて過酷な乗り物だった。そして、戦果に比べて犠牲のほうがはるかに大きかった。きわめつけは、大量の特攻隊員を必要とした『伏龍』という兵器である。潜水具を着た兵士が、浅い海底に、縦横50メートル間隔で立って待ち構え、棒付きの機雷を敵艦の艦底に突き上げて爆破させる。隊員の多くは、10代後半の予科練出身の少年たちだったという。当時17歳の城山少年はこの『伏龍』部隊に配属させられた。元隊員有志が寄贈した伏龍特攻隊のブロンズ像 徳島新聞Webサイトより城山氏は、書いている。少年兵の命など花びらよりも紙きれよりも安しとする日本海軍ならではの発想である。そういえば私たちは、「きさまらの、代わりは一銭九厘で、いくらでも来る」と、幾度聞かされたであろうか。奇しくも、似たような文句を聞いた記憶があると思ったら、やはりそうだった。元陸軍伍長の方からの手紙には、次のようにあった。中隊長が言うには、「お前等は爆雷を抱いて敵戦車に体当りせよ」ということでしたが、その爆雷すら最後まで配給されませんでした。(中略)「兵隊は一銭五厘の葉書で幾らでも集められる」と人の命を虫けら同様に扱い、科学を軽視した、当時の軍首脳部に対する怒りはいまだに解けません。今からすれば、人命など塵芥のごときものだったことがよくわかる。お国のためは、問答無用の聖なる枕詞であるが、この枕詞をもって、そのためにはどんな人命の犠牲も厭わなかったのである。お国のため、の心理はいまでは想像しがたい。しかし、人は状況次第でそうなるという例も少なくない。この年に13歳だった鹿児島の男性は当時をこうふりかえる。大本営発表をずっと聞いてきたので、大人も子どもも日本が負けるとは思っていなかった。島に帰省した先輩が身に着けていた海軍の制服、帽子がとてもかっこよく、憧れていた。小学生の頃の夢は海軍大将。「国のために喜んで死にたい」と本気だった。国民のほとんどがそう考えるよう仕向けられていた。まさにマインドコントロール。洗脳されていたのだろう。本当に怖い。城山氏の三歳下の作家・澤地久枝(1930〜 )は、いう。彼女は終戦時、14歳だった。戦争中、日本が負けることなど想像もせず、戦局が不利になればなるほど、となって戦闘員となってたたかわねばならないと自分を追いつめる使命感。生き死にに迷うのは、非国民というつよい思いこみが、少年少女をしっかり縛っていた。城山さんより三歳下のわたしは、志願した城山さんの気持を、わが心をうつすように感じとることができる。あとからふりかえれば、愚かということになろう。しかし、真面目であればあるほど、感性が豊かであればあるほど、戦場へ出ることへ心をかきたてられていたのだ。***私は、特攻隊の生き残りを少なくとも三人は知っている。作家・童門冬二俳優・鶴田浩二そして、作家・城山三郎そのうち鶴田浩二は後年、特攻隊員ではなく、海軍航空隊の整備科予備士官だったことが明らかになった。自らが出撃するのではなく、特攻機に乗り込む戦友を見送る側だったのだ。しかし、鶴田も内心のどこかには特攻の生き残りのように、戦友を失った深い悲しみや生き残った者の罪の意識を抱えていたのだろう。ドラマ『男たちの旅路』では、脚本家の山田太一が鶴田のそうした内心を主人公のガードマンの核心にして、鶴田はそれを見事に演じている。一方、童門冬二は、17歳で明日は死という特攻の恐怖と懸命にたたかいながらも、生き残り、復員した駅で戦争未亡人から浴びせられた憎悪の視線で、激しい原罪意識に襲われている。童門は、この体験に打ちのめされた。闇市を歩き回り、博打と酒に明け暮れた。古本屋街でふと手にした、内村鑑三の著書によって、国家が意図的につくった歴史観の存在と、日本人は決して好戦的で野蛮な民族ではないことを知り、童門少年は救われたのだ。さて、城山三郎のことである。彼は、作家になりなくてなったというのではなかった。特攻という戦争中の体験だけは書き残したいと痛切に思ったのだ。自費出版でもいいから、書き残したい。その思いにしたがうまま、結果として作家の道がひらけた。彼は、前述したように1945年5月の大量採用の機に志願して兵隊になった。17歳だった。配属されたのは特攻『伏龍』の部隊だった。水中特攻『伏龍』少年兵を10人1隊としてゴム製の潜水服を着せ、空気ボンベを背負わせて海底に沈めさせた。進攻してくる敵艦の艦底を、機雷を取り付けた竹ざおで突かせ、自爆させるという水中特攻だった。しかし、同年8月15日。特攻の出動命令は出ぬままに、城山少年の海軍生活は3カ月で終わった。この3ヶ月が城山氏の原体験になったことは間違いない。特攻隊員でもあった作家・城山三郎 茅ヶ崎市Webサイトより彼はいう。 軍隊の腐敗を見、戦後のあらゆる価値の大転換を見て、国家とは何か、歴史とは何か、社会とは何か、人間とは何か、信じるとは何か、私はいったい何者か、死んでいった者たちの代りにできることはあるか——さまざまな問いを自分の手だけで解いていこうと決めていた。いくら時間がかかってもいい、ひとつひとつの問いに答えていくことで、ばらばらになった私自身を作り直そうと思った。そう言って彼は、後年、特攻のことを書いたーー最初の特攻で出撃した男と、最後の特攻で飛び立った男のことを。***81年前。1945年8月15日は、終戦の日である。その日、最後の特攻機が大分海軍航空基地を飛び立っている。城山氏が書いたのは、最後の特攻に出撃した中津留達雄(1922〜1945)大尉のことである。8月15日正午、昭和天皇による玉音放送が放送された。天皇自らが戦争終結の決定を国民に伝えるために行った「終戦の詔勅」といわれるものだ。その日の朝、最後まで天皇の身柄の安全にこだわった陸軍大臣・阿南惟幾は、一死を以て大罪を謝し奉るの遺書を残して、割腹自殺している。戦争の指揮をとった者が「戦争の責任」をどう取るか。阿南の自殺はそのひとつの形であろう。大分海軍航空基地には、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとい)(1890~1945)中将がいた。宇垣は、この方面の戦争指揮官である。宇垣には、ポツダム宣言受諾や終戦の詔勅などが、刻々と伝えられていた。大分基地にも、8月14日夜になって、海軍総司令官から、対ソ及び沖縄積極攻撃中止の命令が届いている。この命令も、終戦も知っている宇垣は、しかし、次の命令を出している。七〇一空大分分遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを親率す。宇垣中将が直接率いて、特攻をかけるというのだ。部隊長の中津留大尉は、この命令を受けた。むろん、彼らは情報統制を受けていて終戦を知らない。いよいよ出番が来た、と思った。ひたすら特攻の成功だけを考えた。こうもいえる。
宇垣は、部下たちには戦争が終わったことを隠し、ただ自分の死に場所を求め、中津留大尉の隊を道連れにした、と。中津留達雄は、1922(大正11)年、大分県津久見に生まれた。23歳。セメント会社社員の父と小学校教員の母、その一人息子。生来、運動が好きで、泳ぎが得意。汽船のマストから飛び込みをやってのけ、船員から喝采を浴びたりした。達雄少年は、海軍兵学校へ進学した。もともと明るい性格なのだろう。厳しくつらい兵学校生活でも手紙には、「愉快」とか「明朗」など、屈託のないポジティブな言葉がつづられている。達雄は長身、端正な顔立ち。帰省のときには、駅前で彼を一目見ようとする女学生が一人や二人ではなかったという。最後の特攻に飛び立った中津留達雄大尉 関行男記念館Webサイトより父は我が子を教師にしたかったらしい。軍人にはしたくなかった。それが海軍へ行った。それはあきらめるとして、飛行機乗りにはなってほしくなかった。父は本人にもそう言ったが、達雄は自分の意志を押し通して、1944(昭和19)年1月、宇佐航空隊付教官となった。同年4月、仲立ちする人がいて、四つ年下の女性と結婚。父は、海軍航空隊に入った達雄に言ったことがある。本当は、「特攻だけは志願するな」と言いたかったのだが、それだけはわずかにこらえ、無駄な死に方はするな。軍人だから、いよいよとなれば、身は国に捧げなくてはならぬが、生きていても御奉公はできるのだから。と言った。敵艦隊体当たりの特攻が始まったのは、1944年10月である。時期は不明だが、中津留大尉が言った言葉が聞いた戦友の記憶に残っていた。中津留はその人に薄く微笑しながら、ぼくは死に急ぎしません。と言った。特攻は、九死一生ではない。十死零生だ。特攻出撃に気分が昂揚する隊員のなかにあっても、その熱に浮かされず、ふつうの人間が抱くふつうの思いがあったようにみえる。1945年7月28日、中津留は大分基地を出て妻子の住む津久見に戻った。中津留は、娘の鈴子のお七夜に当たるこの日に、初めて娘を抱いた。これが、父娘の最初で最後の対面だった。わずかその18日後。宇垣中将が直接率いて、特攻をかけるという出撃命令が出たのである。城山氏は中津留の内心を推測している。最後まで温存しておいた精鋭部隊を出撃させる以上、もはや五航艦の最期であり、宇垣としては艦と運命を共にする艦長同様に、自らも運命を共にしたいーー。そう思ったのではないかと。宇垣は、すでに戦死した山本五十六元帥からもらった短刀を中津留らに見せ、わしはこの特攻が成功しようが成功しまいが、機上で腹切って死ぬ。と言った。宇垣中将の乗る機は中津留が操縦した。全機が大分を飛び立ったのは、1945年8月15日午後5時頃とされる。終戦の詔勅から5時間後のことであった。目標は、沖縄県伊平屋島前泊であった。ここは、この2ヶ月ほど前に、一万の米軍が上陸してレーダー基地を設けていたのである。中津留が操縦する機がここに近づくころ、飯井という少尉が島民にまぎれこんでいた。そして、ある光景を目撃している。その夜、前泊の米軍キャンプでは、戦争が終結と敵襲のないことを喜び、あかあかと電灯をつけ、勝利を祝うビアパーティーが開かれていた。賑やかな音楽や騒ぎ声が、山ひとつ隔てた島民の隔離地まで聞こえていた。そして、突然、爆音が迫ったかと思うと、その前泊から大爆発音がし、大きな炎の柱か立ち上がった。何事かと思っていると、さらに近くで、もう一度、大爆発音がしてまた炎の柱が。夜空を明るくしていた米軍キャンプの明かりが消え慌ただしく人や車の動く気配がしたが、飯井には何が起こったのかわからなかった。米軍が上陸午後駐留した伊平屋島 沖縄リピートWebサイトより以下は、城山氏の推理だが、私もそれを信じたい。尾翼に残った01という数字から七〇一航空隊の彗星とわかったのだが、終戦後になぜ、そこへ突入してきたのか、合点が行かない。その手前の砂浜ではジープが動き出したが、飯井はまたまた目をみはった。砂浜に三人の搭乗員の遺体があり、その足首にロープをかけ、無造作に曳きずりはじめたのである。(略)そして、その帰途、いま一機の突入現場も知った。そちらは米軍キャンプの真上を通り越す形で、その先にひろがる水田の中に突っ込んでいた。すでに片づけたらしく、そちらに遺体はなかった。二機とも米軍キャンプ目がけてまっすぐ進入しながら、その直前で一機は左の岩礁へ、一機は直進したが、米軍キャンプをかすめて、その先の水田へという形である。それは爆弾もろとも爆発というのではなく、両機とも、爆弾は海中に投棄してきたと思われる。(略)大分からの機中、宇垣と中津留との間に伝声管を通してどんな会話があったのかわからない。ただ、敵機も敵戦艦の姿も全く無いことから、中津留は疑問を感じ、その結果、戦争が終わり、「積極的攻撃中止」命令が出ていたことを知る。同時に宇垣も考え直し、キャンプ突入をやめさせたとの推理もあるが、そうであれば、危険を冒してまで接近する必要は無い。二人の間で話がつかぬまま、あるいは、長官命令に逆らうことになろうとも、その長官が勅命に反いている以上、中津留は長官の言うがままにはなれない。そのとき、天地の暗闇の中で、ただ一ヶ所、煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は、中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命ずる。もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前、左へ旋回する。突入を知らせる長音符がふつうより長かったという司令部通信室の証言が、それを裏付ける。編隊での高等飛行で中津留に鍛え上げられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間に読みとり、もはや方向を変える余裕も無いまま、機を引き起こし、キャンプの先へーーというのが、現地に立っての私の推理である。終戦を祝うビアパーティーのキャンプに特攻機が突っ込んだとしたらーー。宣戦布告なしに真珠湾攻撃をした日本は、今度は戦争終結後の米軍基地へ突入したことになってしまう。城山氏は、自らの推理をこう結んでいる。中津留機とその列機が、とっさの間に、第一から第四の攻撃目標を捨て、目標でない目標、岩礁や水田という第五というか番外の目標に突っこんだことで、日本は平和への軟着陸ができたといえるのではなかろうか。中津留達雄。わずか23年の人生であった。特攻によってその短い生を終わらせた人たちは、戦争末期に「志願」という名のもとに、しかし半分以上は命令によって、十死零生の作戦に参加した人たちである。その数は海軍で2,632人、陸軍で1,983人、合計4,615人。中津留もそのなかの一人であった。***ひとつ、どうしても紹介したい話がある。城山氏は、中津留大尉について作品を書き上げるとき、特攻に関して多くの取材をしている。その一つに、大分県中津市にある創業明治34年の老舗料亭「筑紫亭」がある。その離れの一室を訪ねたとき、城山氏は、座敷正面の床の間の柱に、するどい刀疵が刻まれているのをみた。出撃前夜を迎えた宇佐航空隊の特攻隊員たちが、最後の夜に床柱や鴨居へ刀を振るって残した無数の刀疵であった。その場面を読むたび、私は胸が締め付けられるほどの苦しさを感じてしまう。以下に書きとめる。浅く細くて見落とすところだが、そのすぐ横の鴨居にも、何かで鋭く引っ掻いたようなものがある。やはり刀疵であった。それも一つではない。二つ、三つ、四つ……。(略)見ているうち、一つ一つの刀疵から、耳には聞こえぬ叫び声がしてきた。あと一日の命。こんな元気なのに、あと一日。なぜ、そうなんだ。なぜ、おれたちだけが……泣きながら振り上げた刀。酔いのためはじかれた刀、さらに激して斬りつけた刀。刀疵がふえれば、ふえるほど、隊員たちはさらに激して、刀を振り上げる。身も裸、心も裸になる。きれいごとの世界を踏みにじるように、隊員たちは白刃をかざして踏みこむ。世界も世間も、真二つに裁ち割り、世界も世間も消える。残っているのは、妻の顔、婚約者の顔、親兄弟の顔……おれは死ぬ、死ぬんだよ、お母さん、こんな元気なのに。ごめんね、お母さん。おれの分まで達者でね、お母さん。そして白刃。なんで、なんで、おれが。なんで、えいっ!掛け声とも、叫びとも、泣声ともつかぬ声。この世にこんなことがあっていいのか特攻を考えた奴は、修羅だ特攻を命じた奴も、修羅だよおし、それなら、俺たちが本当の修羅になってやる見てろよ、本当の修羅とは、どんなものか!私は痛ましくて、たまらなくなり、ごめんね、ごめんね、心の中でつぶやきながら、刀疵を撫で続けた。これを書く城山氏自身も、かつて『伏龍』というむごさきわまりない特攻作戦の出撃を待つ身であったのだ。きさまらの、代わりは一銭九厘で、いくらでも来る……と言われながら。中津市の『筑紫亭』刀疵のある離れ 筑紫亭Webサイトより***先の大戦では、特攻での4,615人のほかに、それぞれの戦地戦場で多くの方が命を落としている。ガダルカナル島 戦死8,200人、餓死または病死11,000人。アッツ島 戦死2547人。ニューギニア 戦死・病死157,000人。タラワ島 戦死4,690人。マキン島 戦死690人。ケゼリン島 戦死3,472人。グアム島 戦死18,400人。サイパン島 戦死30,000人、民間人の死亡10,000人。インパール作戦による戦死35,000人。ビルマ、中国本土での戦死29,000人。ペリリュー島 戦死10,650人。フィリピン 戦死476,800人。硫黄島 戦死19,900人。沖縄 戦死109,600人、市民の死亡100,000人。本土空襲などによる死者299,485人。さらに、八年間にわたる日中戦争などによる死者は411,610人。最近の調査では死者の総合計は三百万人を超えるといわれている。これだけの人が、はからずも人生の途中でその生を終えなければならなかった。これだけの数の語りきれない鎮魂が、この国には存在するのである。最後に、作家・半藤一利(1930〜2021)の大著『昭和史(戦前篇)』の一節を書きとめて、本稿の結びとしたい。よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しくきちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。同書には、戦争を生きた人がいなくなり、戦争が歴史になる前に、平和が過去になる前に、学ぶべき教訓が書かれてある、と私は思っている。いま尋ねようとしても、半藤さんは、もういない。国家とは何か、歴史とは何か、社会とは何か、人間とは何か、信じるとは何か、私はいったい何者か、死んでいった者たちの代りにできることはあるか——さまざまな問いを自分の手だけで解いていこうと書き続けた城山さんも、もういない。できることといえば、彼らの残した〝真実〟を正しく学ぶしかあるまい。紙数も尽き、ここでは触れることはできないが、いまの世界情勢や国内情勢をみて、いまだからこそ、先の大戦から、戦前の昭和史から学ぶ教訓があるように思う。81回目の終戦の日に、今だからこそ、今だからこそ、と。鎮魂の先にあるものをいま考えたい 毎日新聞Webサイトより◾️NHKアーカイブス太平洋戦争の体験者の証言記録や関連資料をもとに整理戦争|NHKアーカイブスこのサイトでは、NHKの過去の映像コンテンツを放送でみるアーカイブス番組、インターネットでみるデジタルアーカイブス、最寄りのNHKでみる番組公開ライブラリー等と、保管しているコンテンツの情報を紹介しています。www.nhk.or.jp【参考】城山三郎『指揮官たちの特攻』(新潮文庫)半藤一利『昭和史(戦前篇)』(平凡社)NHKアーカイブス『“人間爆弾” 桜花 出撃が続き、多くの仲間を失い、自分の死と向き合う中で』