天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

大河ドラマで北条高時を演じた片岡鶴太郎が持つ狂気と稚気は、観る者に、権力を握った無能な暗君であることを暗示した。

と前回書いたが、史料でみる高時の狂気と稚気は、どうも本当らしい。

増鏡には、

心構えや性格なども、どういうわけか思慮分別がなく、しっかりした考えがない

と、手厳しい。
他の史料には、「ほとんど妄気」などとある。

妄気

とは、中身のないとか暗愚の意である。

これだけ見れば、とうていまともな政治判断のできる人とは思えない。

劇変する世の時勢におされ、貞時の晩年ころから得宗(北条氏惣領)は、神輿のように装飾的な地位にまつりあげられた。
妄気である高時も、神輿だから執権がつとまっていた。
重臣・安達時顕と内管領・長崎円喜が高時を後見して、政治はなんとか無事におさまっていたのである。

執権は妄気の人でも、後見がしっかりしていればなんとかなった。
長崎円喜が隠居すると、息子の高資が内管領となって幕府の実権を握った。
高資は狡猾で強欲の人であった。

1322(元亨2)年。
津軽地方の安東氏の一族で内紛が起こり、訴訟になると、高資はその両方から賄賂をもらい、その両方に都合のよいことを言ったので、騒ぎが大きくなった。
ついに安東氏が二つに割れ、合戦になった。
高資は幕府から派兵したが、死傷者ばかり増えて、数年もの間平定することができなかった。

史料にはこうある。

代々なかりしかども、関東の政道正しからざるによりて、武威も軽くなり、世も乱れ、人もそむき、郡県の軍隊蜂起す

このときの高時はというと、朝に夕に闘犬と田楽に夢中になっていたという。

 

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大河ドラマ『太平記』の長崎高資(演:西岡徳馬=左)と長崎円喜(演:フランキー堺) NHKアーカイブスより


このときの高時と高資を見るにつけ、私は史記にある秦の二代皇帝・胡亥と宦官・趙高を思い起こす。

各地で反乱が起こり情勢が悪化しても、胡亥は宮廷にこもり、報告されてくる臣下や地方官の報告を軽んじ、趙高だけを頼みにした。
趙高は胡亥に、世間は平穏で皇恩が天下に満ち満ちていると、ウソをささやき続けた。
その結果、真の情報は遮断され、状況判断を誤り続けた。
胡亥は、趙高に裏切られて自殺を強いられ、秦はわずか二代で滅んだ。

高時は政治を高資にまかせて、闘犬と田楽に傾斜した。
鎌倉に錦衣飽食の猛犬が4、5千匹もいたし、闘犬日が月に十二回もあった。
驚くのは闘犬や田楽に、譜代・外様を問わず大小名たちが堂上から庭先まで居並んで見物したことだ。
形だけは幕府の権威が、彼らを居並ばせたのだろうが、彼らの心はいっそう幕府から離れていった。

***

ここに後醍醐天皇が登場する。

後醍醐天皇の祖父の亀山天皇から大覚寺統が始まった。
有名な両統迭立である。
これを決めたのは幕府であった。
後醍醐が即位したとき、皇位は二代あとまでつく人が決まっていた。
いずれも自分の子ではなかった。

後醍醐は、英邁な人である。
と、同時に我欲の強い人であった。
自分の子孫で皇位を独占したかった。

皇位のことは幕府が容喙すべきではない。時の天皇の意志によって決定されるべきものだ。

そう思っていたに相違ない。
それだけでも後醍醐にとって、幕府は倒さなければならないものであった。


1324(正中元)年、後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てた。
しかし、事前に漏れた。
高時は驚き、朝廷に使者をつかわし、日野資朝と日野俊基の二人を逮捕して鎌倉へ連れて来させた。
取り調べた結果、後醍醐の密謀が明らかになったので、高時は後醍醐を廃位しようとした。
天皇は側近の万里小路宣房を鎌倉に下向させ、身の潔白を弁明した。

中身はこんな具合だ。

天皇が謀叛を起こしたなどと言われる筋合いはない。
もし本当にそんな陰謀を企てた者がいるのなら、法に則って徹底的に真相を究明し、責任者を処罰すべきだ。


これを知った政敵である持明院統の上皇は、

まるで正気とは思えない開き直りだ。

と呆れ返ったと記録にある。

 

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後醍醐天皇 日本経済新聞Webサイトより

 

泰時や時頼だったら、有無を言わさず廃位させただろうが、高時は違った。
恐懼して、こう返答した。

朝廷のことは朝議にお任せし、臣等のかれこれ申すべきことではございませんでした。

後醍醐は廃位をまぬがれた。
高時の政治家としての甘さ、というより人としてお坊っちゃまなのであろう。

(ただし、最近ではこの倒幕計画はなかったという説もある。)

***

前出の安東氏の乱の鎮定の失敗は、高時の長崎高資への信用を落とし、不信の念を増大させた。
高資の専横、と高時の目には映ったのだろう。
1330(元徳2)年、高時は高資の叔父・長崎高頼らに高資追討を命じた。
しかし、事前に露見してしまう。


高時は、

自分は何もしらん。高頼が思いついたことだろう。

とシラを切ったため、高頼が陸奥に流罪、余党も諸国に流された。

高時は、自己の保身や目的のために、結果として部下を過酷な状況へ追いやったのである。

自己の保身や目的のために、結果として部下や親族を過酷な状況へ追い込んだ例は、後醍醐天皇にもある。

その一。
1331(元弘元)年、倒幕計画が六波羅探題に漏れたとき、後醍醐は女装をしてひそかに御所を脱出した。
このとき、側近の大納言・花山院師賢を天皇の替え玉として比叡山へ向かわせた。
比叡山の僧兵たちは本物の天皇が来たと思い込んで幕府軍と激しく戦ったものの、後からだまされたと知って激怒。
師賢は幕府に捕らえられ、配流先の下総で没した。

後醍醐はこの時間稼ぎのあいだに笠置山に逃れたのである。

その二。
笠置山にたどり着いた後醍醐は、ここで兵を集め、ついに挙兵した。
籠城したものの、幕府軍の奇襲により笠置山は炎上し陥落。
後醍醐は首謀者でありながら、側近らと真っ先に脱出。
天皇の命を受けて別の城で必死に幕府の大軍を引きつけていた楠木正成は、ハシゴを外される形でいきなり孤立無援となった。

天皇自身は逃亡途中で捕縛され隠岐へ流されたが、残された武士たちは自害や城を討ち死にする過酷な戦いを強いられたのである。

その三。
後醍醐が隠岐に流されている間、皇子の護良親王は、吉野や熊野の山中で過酷な潜伏生活を送り、反幕府勢力を結集に尽力。
親王は天皇の代わりに令旨を発し、自ら絶え間なく激しい戦闘状態におかれ、いつ落命してもおかしくない状況で戦い続けた。
しかし幕府滅亡後、後醍醐は苦労した護良親王よりも足利尊氏を重用。
尊氏と対立した護良親王は父である後醍醐に見捨てられる形で捕らえられ鎌倉の土牢のなかで殺されたのである。

利用するだけ利用して見捨てた、というのがいまの感覚だろう。

 

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土牢の中で法華経を読む護良親王 戦国ヒストリーWebサイトより

 

後醍醐天皇にすれば、こう言うだろう。

自分が体現する天皇親政の理想を絶やしてはならない。

そのためには他者の犠牲を厭わなかった。
見方次第では政治信念にもなるしエゴにもなる。


史伝作家・海音寺潮五郎は、高時や後醍醐のこうした性(さが)をこう断じている。

生まれながらに最上位にある人は、人に奉仕されても奉仕する習慣がない。従ってその人々のモラルは一般の人間のモラルとはおそろしく違っていて、人を犠牲にすることに全然平気なのである。

中世、近世、近代、そして現代。
時代によって、この見方はさまざまだが、人間の普遍の課題という意味では、海音寺のこの言葉は、未来の歴史に対するひとつの教訓ではあるまいか。

***

後醍醐の笠置山挙兵以降、建武新政の2年をはさんだ約六十年。
日本は国中で明けても暮れても戦乱という世がつづいた。

四海大いに乱れて一日もいまだ安からず、狼煙天をかすめ、鯨波地を動かし、一人として春秋に富めることを得ず。

万民手足をおく所なし。

『太平記』はそう嘆いている。

さて、高時。

鎌倉幕府に対する人心は離れ切ってしまい、澎湃として全国各地で勤王倒幕軍がおこった。
1333(元弘3)年5月18日、新田義貞は軍勢を三つに分け、鎌倉の入口、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻撃を開始。

戦いは市街戦となった。
いまでも鎌倉では、発掘調査などで地面を掘ると多くの人骨が出土するという。

幕府方は四日間、奮戦した。

むろん、高時もその中にいる。
高時は人望がなかった。
勝者の悪口かもしれないが、思慮分別がなく、しっかりした考えがない、と言われた。

しかし、その最期は特筆されていい。
それには、司馬遼太郎の『この国のかたち』の一節を借りるのがもっともふさわしい。

そのようにとりとめのない人間でありながら、麾下はかれを捨てず、高時と鎌倉の府を守るために侵入軍に対し、全滅するまで戦った。

さらには高時の側近はかれとともにこぞって自刃した。
(略)
侵入軍によってあちこちに火があがり、市街の諸方で全滅が相つぐと、高時は葛西ヶ谷の東勝寺に入り、自刃した。

この愚者に従って腹を切った者は、この一カ所だけで数百人にのぼった。

そして、その稿をこう結んでいる。

鎌倉の世の信は、北条執権家から恩をうけると、死をもって返すというものであった。
さらには、返す場合、ためらいをみせないことが潔いとされた。
坂東武者が日本人の形成にはたした役割は大きい。


これは、高時の最期から導き出した日本人論という一つの解ではある。

 

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北条高時ら一族郎党が自害した東勝寺腹切りやぐら Wikipediaより

 

北条氏が作り上げた政治体制は、人々の暮らしが進化するにつれ、武士とりわけ御家人らが生存するためのサステイナブルな体制とはいえなくなってきた。
そうしたなかで未曾有の国難、元寇に遭遇した。
見事に撃退はしたものの、不適合な度合いは急進し、矛盾はいっそう大きくなった。

貞時の治世にいたっては、善政をしきたいとの十分の情熱をいだきながら、どうすることもできず、鎌倉幕府の基礎はゆらいできた。

高時が、たとえ相当に賢明な人物であったにしても、こうなってはどうすることもできなかったろう。
お坊ちゃん育ちの、いささか精神薄弱の人物であったとすればなおさらのことだ。

北条氏を滅ぼしたのは、高時の暗愚ではない。
時勢であり、長い歴史の必然の結果であるといえよう。


***

高時とは何者か。

書きながら、私には、高時が生身の人ではないように思えてきた。
歴史という大河を宙空から眺めたとき、時代という潮の流れの一点が、綺羅のように激しく輝き、一筋の燈明が消えて漆黒の闇に包まれる。

綺羅とは、高時らの東勝寺での集団自刃のことであり、燈明とは、その命が消えたことにより、歴史に鎌倉時代がいま終わったと知らせる合図のことである。

高時は、暗愚でも悪人でもない。
歴史の変わり目を後世に知らせるための、綺羅であり、燈明であった。

私は決して詩人ではないが、どうもそのように思えてならない。


(この項おわり)

 

タイトル画像は、北条高時を描いた歌舞伎『高時』(坂東巳之助) 歌舞伎美人Webサイトより

 

【参考】

海音寺潮五郎『悪人列伝』(文春文庫)

海音寺潮五郎『新名将言行録』(河出書房)

司馬遼太郎『この国のかたち⑶』(文藝春秋)