偶然か、必然か。
爆発前の圧搾空気のように、機は煮詰まった。
一、後醍醐天皇の周辺の宋学による〝尊王攘夷〟思想
ニ、鎌倉武士たちの貧窮と不公正からくる幕府に対するリセット願望
さらにいえば、後醍醐周辺は、日本には存在がしない夷狄を覇者に置き換えた。
むろん、覇者とは幕府ということになる。
リアルな南北朝時代が、およそつまらない時代であったことのわかる情景をみていきたい。
足利尊氏のことである。
ちなみに、尊氏はもとは名を高氏といった。
その後、倒幕の功績により、後醍醐天皇からその名の尊治から一字を与えられ、尊氏となった。
本稿では、尊氏で通す。
足利尊氏は、あの八幡太郎こと源義家の九代の孫になる。
足利の家には、
義家の置文
というものが伝わっていた。
それは、義家が、
自分の七代後の子孫に生まれ変わって天下を取るであろう
と書きおいたものだという。
この話は足利一族の今川了俊が著した『難太平記』に記されている。
その七代目の子孫は尊氏の祖父・家時であったが、時節到来せずして、置文どおりにできないことを無念がって、八幡大菩薩にわが命を縮めもうすにより、三代の後に天下を取らしめたまえとの願文をたてまつって腹を切って死んだ。
私は尊氏公、直義公(尊氏の弟)の御前で、たしかにその願文を拝見した
というものだ。
家時の自死が本当なら、壮絶といかいいようがないが、どうも後付けの話のようだ。
しかし、足利一族の野心と不満はよくわかる。
伝足利尊氏像(浄土寺蔵) Wikipediaより
1331(元弘3)年秋。
後醍醐天皇が幕府討伐の密議を図っている、との情報が幕府に届いた。
鎌倉幕府は、その討手に尊氏らに命じている。
その2年後は幕府滅亡の年である。
幕府は再び尊氏に大将軍として上洛を命じてきた。
このとき、尊氏には、幕府の衰退と横暴に対して、ひとつの覚悟が決まっていたようだ。
上洛を命じられて、尊氏は病気であったため断った。しかし、幕府は許さず、一日のうちに再度使いを出して督促してきた。
尊氏は怒りをあらわにして、こういった。
先年も、わしは父の喪中にあったのをむりやりに軍役にかりたてられた。
今また征けという。
いったい北条とは何者ぞ。
本来は、わが源氏の郎党の家柄ではないか。そんな輩に威迫されること、まことに無念である。
よーし、北条がこのように無理難題をふっかけるのならば、覚悟しておけよ。
上洛したならば、後醍醐帝のお味方をして、六波羅を攻め落とし、わが足利家を自立させるまでだ。
果然、尊氏は上洛して、幕府に反旗をひるがえす。
軍旅のなかの丹波・篠村八幡宮においてである。反旗というより、旗揚げといったほうが当たっていよう。
後醍醐天皇の命令に従って、幕府を打倒するという。
決起文のなかには、八幡大菩薩は都の守り神であり、我が足利家の氏神である、と書いてあった。八幡大菩薩はそもそも源氏の氏神だ。
源氏再興
という尊氏の思いがそこには強く出ている。
決起のとき、兵力は足利尊氏直属の3000騎だった。
それが六波羅にたどり着くまでに近国の武士たちが参集し、2万5千騎にまで膨れ上がった。
これら武士たちは、後醍醐天皇の綸旨を奉じたというより、後醍醐天皇の綸旨を奉じた尊氏を慕い、またこれに絶大な期待をもって参集したといえよう。
それはしばらくしてわかることになる。
足利尊氏旗揚げの地・篠村八幡宮 戦国ヒストリーウェブサイトより
***
ここで、足利氏という存在が当時において特別であることに少しばかり触れたい。
というのは、同じ源氏の末裔である足利尊氏と新田義貞に決定的なちがいがあるからである。
まず、その出自である。
足利も新田も、祖先は源義家だ。
義家の二男は義国といい、下野・足利庄に住む足利式部大輔を称した。
妻がいて、義重が生まれた。
まもなく妻が亡くなり、新たに妻をめとり、子が生まれた。義康といった。
父の義国は長子の義重より、年少の義康を可愛がったらしい。
やがて長子の義重は家を出て、亡き母の実家の遺領である上州新田庄に移り住んだのである。
足利の家督と所領は、義康が継いだ。
義重が新田氏を名乗り、その子孫が新田義貞である。
一方、義康の子孫が尊氏である。
足利氏は、頼朝とは義家を共通の祖とする別系ながら、頼朝とも姻戚にあたり、北条氏とも代々姻戚関係を結んでいた。
つまり、足利氏は源氏のなかでも、すでに滅んでしまった嫡流につぐ家柄だったのである。
その家勢はさかんで、一門も多く、それらの領地は全国にひろがって、尊氏のときは天下屈指の大豪族であった。
それにひきかえ、新田氏は始祖の義重からして、幕府とうまくいってなかった。
頼朝が平家打倒の兵を挙げたとき、これを無視して自分の城に籠っている。
源氏の一流として自立しようとしていたらしい。
たしか、中学の歴史の授業かなにかで、足利尊氏は六波羅を攻め、新田義貞は鎌倉を攻めて、鎌倉幕府が滅んだと教わった。
しかし、新田義貞の鎌倉攻めには多少さらなる説明が要るようだ。
つまり、義貞は挙兵の翌日に武蔵国に進軍。このとき、義貞の兵数はわずか5千騎。
そこへ、足利の郎党某が、鎌倉を脱出した尊氏の嫡子・千寿王(のちの義詮)を奉じて五百騎ほどで合流した。
すると、関東一円の武士たちがわれもわれもと馳せ参じて、わずか一日で27万騎になったと『太平記』は書いている。
それは大げさだとしても、数万は集まったのだろう。
千寿王はわずか4歳の幼児にもかかわらずである。
足利氏がどんな存在だったかがわかるエピソードだ。
歴史上の名前は通っていても、足利と新田では、求心力という意味で人気と実力がこれほど違っていたのである。
これはその後も変わることはなかった。
尊氏も自分の存在価値は知悉していて、丹波で挙兵のとき、協力してほしいと全国の武士たちに密書をとばせた。
史伝作家の海音寺潮五郎氏は、こうした天下取りの布石とも思える方策は尊氏から出たものではないという。
もっともこんな性格は、尊氏には出ない。
尊氏は日あたりのよい大家に、すべての人に可愛がられて苦労なく育った人らしく、大様で物おしみの心がなく、いささか気弱でお人好しで、つまり坊ちゃんかたぎの人物にすぎない。
尊氏を天下取りに仕立てたのは、直義と重臣の高師直である。
氏のこの見立ては、ありがたい。
なかなか実像がつかめない足利尊氏の人柄がよくわかるというものだ。
南北朝時代の動乱を描いた『太平記』 国文学研究資料館ウェブサイトより
***
さて、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇は京都に還御して、天皇親政を開始した。
まず論功行賞がおこなわれた。
最高だったのは足利尊氏で、従三位武蔵守に叙され、武蔵国、相模国、伊豆国の3か国を与えられた。
次いで、新田義貞は、従四位上越後守に叙され、播磨国、越後国、上野国、越前国などを与えられた。
また、楠木正成は河内・摂津国を与えられた。
ただ、北条氏という大族が滅んだのだから、没収した大領があって、ふつうだったら十分に武士たちを満足させるだけの行賞ができたはずだった。
しかしその所領は、天皇の領地、皇族の領地、公家の領地とし、なお、残ったものは、白拍子や蹴鞠の師匠、遊芸人、官女や僧侶にやってしまったのである。
王政に戻したため、地方では国司の権限を強くした。
国司になったのは、武士はごくわずかで、多くは下級公卿が任じられた。
しかも、その多くは京にとどまって赴任せず、代官を任地につかわして事務を代行させた。
まるで、時代が五百年、さかのぼったようだ。
後醍醐はじめ新政府の気分がよくわかるのは、『神皇正統記』の著者、公家・北畠親房の次の言葉である。
関東の高時が滅んで、天皇のご運が開けたのは、武士どもの力によるものではない。
神意によるものである。
一体、武士などという輩は、いわば数代の朝敵である。
お味方申したおかげで、その家を亡さないですむだけでもあまりある。
皇恩と思うべきである。
恩賞をのぞむなら、これからいっそう忠功を励んでからであるべきで、神意によってなりたち得た中興の業を、自らの功によると思うなど不届きである。
北畠親房像 阿部野神社ウェブサイトより
そこまでいうか。
これはさすがに驚きだ。
歴史の流れも、それを動かしている真の原動力もまったく理解していない。
なにせ国中の武士たちが、私利私欲で黒煙を上げているのである。
繰り返しになるが、後醍醐天皇に新政の精神を述べられよ、と問えばこういうはずだ。
この国における正当の支配者は天皇である。幕府は正当ならざる支配者だ。
正統な天皇が覇者たる幕府をたおし、奪われている大権を回復することは絶対の善である。
分断
といえるほど、リアルな歴史の進行との溝があまりに大きすぎるだろう。
※タイトル画像は、大河ドラマ『太平記』の足利尊氏(演・真田広之) NHKオンデマンドより


