あの時代について。
あの時代とは、足利尊氏や後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞などが登場した南北朝時代のことである。
南北朝時代
この約六十年の間でも、名のある人物はきわめて多い。
北条高時、足利直義、高師直、護良親王、北畠顕家、佐々木道誉などなど、だ。
にもかかわらず、世上こんなことが言われている。
南北朝時代はなぜ小説になりにくいのか?
この問いに対して、作家・司馬遼太郎は、興味深いことを言っている。
わたしの感じでは、どうも小説にならない。
なぜ小説にならないのか。自分でもよくわかりません。(略)
吉川英治さんの『私本太平記』だとか、多くのかたがこの南北朝時代を小説に書かれています。
しかし、いずれも、これを書きあげると仕事が衰弱するか、亡くなってしまわれる。
司馬さんは、南北朝を書き出すと作家はかならず苦しくなる、という。
なぜかというと、みな水戸史観で訓練された目で南北朝を見ようとする。吉川さんも、残念なことに、水戸史観を頼りにこの時代を見ておられます。
水戸史観については、ややこしい世界なのでここでは触れない。
ただ、司馬さんはこの時代を水戸史観という言葉を使って、強烈なみきわめをしている。
そういうわけで、非常にきらびやかな、楠木正成などという人物が登場してくる。後醍醐天皇の悲劇もある。笠置を落ちていかれる道行きもある。
それを、水戸史観というものにまとわれた悲愴美だという。
ところが、その悲愴美は水戸史観を通してこそ出てくるわけで、通さなければこれは何でもない騒ぎなんです。
そう見ていくと、これはおよそつまらない時代なんです。
太平記絵巻 嵐山町ウェブ博物誌より
これは、一見暴論のようにも見える表現だ。しかし、リアルな歴史は、この不可解な水戸史観という〝虚構〟を剥ぎ取って進行していたと思えばよいのだ。
剥ぎ取ってみると、その下にある実像が何なのかが見える。
その答えはこうだ。
南北朝時代の抗争とは、ただそれだけのことで、そこに動いてある力やエネルギーはすべて権力、利害にからまるものです。
利権による抗争があるだけだ、という。
水戸史観というフィルターをかぶせると南北朝時代はイリュージョンになる、と。
南北朝時代は、これだけの人物を輩出しながら、
何でもない騒ぎ
であり、
およそつならない時代
なのだと思い切ってしまえば、私たちにも、この時代がより鮮明に見えてくるのかもしれない。
そして、司馬さんは作家の視点に立ちながら、たとえば吉川英治らがこの世界を書くことによってどうなったかを、読み解いている。
小説を書き始めると、そうした現実がわかってくるんですね。それで空しくなって、書きづらくなる。
創造的なことが出てこないために、しだいに苦しくなり、ちょうど胃液も何も出ないのにものを消化しようとするような、そういう身体の状態になって、衰弱してしまうのですね。
だから、司馬さんはこの時代を小説に書かなかったのだろう。
史観というフィルターを剥いだナマなこの時代を、史伝作家・海音寺潮五郎は、
この時代の豪族らが我欲旺盛で、無智で、暴悪なことは、後世の戦国時代よりまだひどい。
といい、歴史作家・司馬遼太郎は、
国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙を上げているような時代
という。
いずれにしても、我欲のために離合集散を繰り返し戦い続けた、およそつまらない時代だったらしい。
私本太平記(吉川英治著) 講談社ウェブサイトより
この本当はつまらない時代に水戸史観というフィルターをかかってしまったのはなぜなのか。
それは鎌倉時代の末期頃に、日本に入ってきた宋学という思想による。
簡単にいうと水戸史観の思想的原形が宋学である。
宋学
宋学の「宋」と中国王朝の宋のことだ。
唐のあとの統一王朝が北宋であるが、この王朝の後期は異民族の侵入に苦しられた。
北宋は一度、女真族の金のために滅亡し、皇族が南方に逃れて、南宋を建国した。
しかし、南宋は金に対して、形式的には臣下の礼をとり、銀や絹を毎年送る立場だった。
いうまでもなく南宋は漢民族の国、金は異民族である女真族の国である。
その南宋で宋学が起こる。
宋学の中心にある思想に、王を尊び、外夷をしりぞけるという考え方がある。
この場合の王とは、中国の皇帝のことであり、皇帝を中心とする秩序ある世界像を理想としている。
外夷とは、この場合の、異民族である金ということになろう。
しかし、現実は南宋にとってままならない状況だ。だからこそこの可燃性のつよい思想が世に立つのだろう。
宋学は、ある意味で現実と激突しうる強烈な思想である。
それが、鎌倉末期に後醍醐天皇の周辺の学問好きな若い公家や僧などのあいだで高まるようになった。
すなわち、
鎌倉幕府のような武家政治とは、すなわち外夷のことではないか。
これは中国でいう異民族の金王朝に相当するのではないか。
これは邪である。
よって、これを倒すべし。
後醍醐天皇もこれを自らの政治実現のための理念にした。
当然、目標は鎌倉幕府の倒幕になる。
しかし、国中の武士たちは、我欲が旺盛で、後世の戦国時代よりひどく、およそつまらない時代なのだ。
鎌倉時代の武士たちは、もとは土着の農民とかわらない。
それが平安貴族の支配を脱し、武家の棟梁を奉じて初めて政権をうばい、法と道理による自律的な政治をおこない続けた。
その精神は「名こそ惜しけれ(恥ずかしいことはするな)」であり、鎌倉武士のモラルは一様に高かった。
それが、鎌倉末期に向けて大きく崩れてゆく。
蒙古が襲来したのである。
蒙古襲来絵巻 文化遺産オンラインより
日本が、初めて外敵の侵入を許し国内本土が戦場になったのだ。
蒙古の最初の襲来から7年目に2度目の襲来があった。
幸いにして二度とも天運に恵まれて撃退することができたが、これで戦さが終わったわけではない。
蒙古はいつまた襲来するかわからない。
日本は戦時体制を継続して、北九州から下関の海岸線にはずっと警備の兵は詰め続けた。
皇帝フビライが死んで、蒙古に再襲来の意志のないことがわかるまで20年弱も続いたのである。
通算して30年もの長い間、日本は厳しい戦時体制にいなければならなかった。
当時の武士たちは実戦に出かける場合も、警備に出かける場合も、費用は自弁だ。
こんなに長い間それが続けば、当然、家計は逼迫する。
実のところ、鎌倉武士たちの貧困はこの時に始まったのではなかった。
以前から貨幣経済がすすみ生活レベルが向上すると、武士たちは贅沢になじみ、出費がかさんで、なかには重代の土地を手放す者もでてくるといった始末だ。
このように武士たちの貧困は、徐々に進行しつつあったが、元寇とその後の戦時体制が拍車となって急速に深刻になった。
まことに卑近なたとえだが、私の子供のころ、「人生ゲーム」というテーブルゲームがあった。
すごろくに似た遊びだが、プレーヤーは決められた額のお金を持ち、ルーレット目によって吉事凶事が決まり、その後の人生が左右されていく。
凶事が重なると出費がかさみ、借金するとその証しに約束手形という赤い紙札が手元に配られる。
いわば、貧窮した武士は、手元に大量の約束手形をかかえ、にっちもさっちもいかない状態となり、ゲーム盤をひっくり返してしまいたい衝動にかられているように見える。
しかも、ゲームの主催者がプレーヤーが不利になるように、ルーレットに細工をしていたことがわかった日には、その衝動は頂点に達するだろう。
さて、鎌倉武士の話。
貧困に苦しむ者は、経済トラブルを起こしやすい、ときている。
たとえば、所領の隣りあっている者同士が境界を争い、たとえば一族同士が遺産を争うなど訴訟問題が頻繁に起きた。
こういう問題を手際よく裁くところに、幕府の存立意義があるのだが、件数があまりに多いので裁ききれない。
また、裁判に手間取ると関係者らの間には、早く処理してもらうためだったり、有利な判決をしてもらうために、ワイロが横行した。
誘惑される機会が多くなり、汚職も増えて、裁判は公正を欠いた。
鎌倉末期には北条一門が全国の過半の守護職を独占した(画像は北条高時) Wikipediaより
そもそも源頼朝に始まる鎌倉幕府という初めての武家政権は
律令制国家から武士団の利益をまもり、武士団相互の紛争を公平に裁く
ことを実現するために、多くの犠牲をはらって勝ち取ったものだ。
しかし、こうなってみると、幕府の存在意義はまったく失われたわけで、何のための、誰のための幕府かという空気が、ほとんどすべての武士たちの間から起こったのである。
いわば、ゲーム盤をひっくり返したい衝動が頂点に達したのだ。
※タイトル画像は、大河ドラマ『太平記』の後醍醐天皇(演・片岡仁左衛門) NHKオンデマンドより



