清流は大河を流れず〜松平定信は何に敗れたか〜【後】 | 天地温古堂商店

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1790(寛政2)年5月の出版統制令。

いま放送されているNHK大河ドラマ『べらぼう』に登場する

朋誠堂喜三二
恋川春町
山東京伝

蔦屋重三郎の耕書堂から出した彼らの著作が、このとき幕府によって絶版を命じられている。

風俗をみだす好色本
政治批判
時事風刺  

これは幕府にとってはとにかく厳禁だった。

ところで、私は数ある狂歌の中でこれが最高傑作だと思う。

世の中に蚊ほどうるさきものはなし  
ぶんぶといふて夜も寝られず


むかしの教科書にも出ていたこの狂歌。
蚊がうるさいのではない。
世の中にこれほどうるさいものはない。
文武に励め励めと言って夜も眠れない、というのだ。

うまいものだ。
これなどは、時事風刺の見本みたいなものだ。

皮肉られているのは、定信の〝改革〟である。
大田南畝が作ったとされるが、さすがに幕臣である本人はこれを否定していたようで、いちおう「読み人知らず」になっている。

 

幕臣の狂歌師・大田南畝 Wikipediaより

作者不明ではどうしようもあるまいが、幕府の権威の回復をはかるためには、情報統制は不可欠であった。

同時に、定信は幕府の官立学問所である昌平黌で朱子学以外を教えることを禁じる命令を出した。
いわゆる寛政異学の禁である。

なぜ、定信は学問、思想、情報の統制を図ったのか。

日本のような島国は古来、国内に大きな体制変動が起こる原因は外圧であるとされた。

元寇しかり、鉄砲伝来しかり、黒船来航しかり。

定信がこのとき恐れたのは、ロシアであった。
当時、外国船がしきりに日本の近海に出没し、特にカムチャツカ半島を経て南下してきたロシアは、蝦夷地に住む日本人としばしば紛争を起こしていた。
さらに1792(寛政4)年にはロシアのラクスマンが根室に来航した。
ロシア初めての遣日使節であり、目的は通商だった。

 

ラクスマンを日本に派遣したロシア皇帝・エカチェリーナ2世 Wikipediaより

幕府の祖法は鎖国にある。
海防を焦眉の急と考える幕府は、蝦夷地の調査を実施していた。
一方で、林子平が『海国兵談』を著わし海防の必要を力説していた。
そこには江戸が海上から攻撃を受ける可能性が指摘されており、庶民に危機を感じさせるものであった。


幕府は、ガバナンスの効いていない民間人の勝手な言説は大きなリスクとなると判断した。
田沼時代の末期にあらわれた打ちこわしや百姓一揆にみられる民衆の反体制的なエネルギーと自由な学問・思想・情報が結びつきはしまいか。
定信が学問・思想・情報の統制を図ったのは、それを恐れたがためであった。

結局、田沼末期の深刻な財政危機は回避できたが、定信が推し進めた緊縮政策は成果を上げることはなかった。

白河の清きに魚も棲みかねて 
もとの濁りの田沼恋しき

幕府が率先して倹約し支出を減らすという、定信の改革は、1793(寛政5)年の老中解任をもって、わずか6年で終わった。

ただ、失脚後の定信は白河藩主として藩政に力を尽くしている。
産業を興して藩財政をうるおし、また、教育にも力を入れた。
藩士だけでなく庶民のための学校も建てている。
いまでも白河市を訪ねると南湖という素敵な公園があるが、これは定信が竣工した日本最古の公園である。
この公園(庭園)は、他の大名の造ったそれとちがい、塀も柵もなく庶民にも開かれており家臣や庶民の楽しむ場所となっていた。
このように白河にあって定信はすぐれた民政家であった。

白河藩の小峰城 Wikipediaより

さて、松平定信は決して誰かに負けたわけではない。
しかし、作家・司馬遼太郎のこの言葉を聞くと、歴史という大河をドローンで見るように明快だ。

日本国首相になるには、定信はなにかを欠いていた。
江戸後期の日本は、おそらくかれが思っていたよりも大国で、現代的要素を多量にふくんだ厄介な経済社会でもあった。


田沼意次を怨み、そのエネルギーで彼を追い落とし、宿願であったその者になってみると欠格者だったというのだ。
その理由について、少し長い引用になるが以下に続けたい。
彼が何者であったか、というより彼が対峙した日本というものが何であったのかが仄かに見えてくるようだ。

定信は、
「白河楽翁」
と号した。
江戸期を通じ、大名としては屈指の教養人だっただけでなく、渾身の民政家でもあった。

東北一円の飢饉のさなかに家督を継いだとき、
ーー領内から一人でも餓死者が出れば、国君であるわが天職にそむく。
と宣言し、藩を一丸としてあらゆる手を講じ、一人の餓死者も出さず、その後、灌漑工事をするなど、農業の基盤を強化した。
そういう実績があって、やがて諸方の期待がかれを幕閣の首班(老中首座)にした。

が、日本国の首相になるには、定信はなにかを欠いていた。
江戸後期の日本は、おそらくかれが思っていたよりも大国で、現代的要素を多量にふくんだ厄介な経済社会でもあった。


が、かれの国家観も政治論も、古典的な朱子学から多くを出ていなかった。
かれは朱子学の徒としては律儀な秀才だったが、政治という厄介なものを料理する天分はもっていなかった。


幕府を開創した家康は、秀吉の体制をひきついだ。
秀吉の体制には多量の貨幣経済(商品経済)がふくまれていた。

家康はおそらくそれについての理解ができないまま、幕藩体制を出発させたと思える。

幕藩体制は、むろんコメが規準であり、農業の重視のうえに成り立っていた。
ところが、江戸時代に進むにつれて、カネという商品経済が、コメという農業価値体系を食いはじめ、幕府も諸藩もくるしんだ。

もし江戸後期、諸大名をあつめて、
ーー日本の経済社会の本質は、コメかカネか。
と問うたとすれば、たれもが答えられなかったろう。

ただ諸大名はコメの上に載っているため、
ーーコメであるべきだ。
と、怒号する者はいたかもしれない。
コメを軽視すれば、大名も武士階級も、消滅してしまうのである。

 

コメか?カネか? いつか徳島ウェブサイトより

松平定信は、白河では名君だった。
農業を善とし、商品経済を悪とし、前者を奨励し、後者をおさえることで、民生を安定させた。
さらには、非生産者である藩士階級には、徹底的な節約をすすめた。つまり、
ーーカネで買わねばならぬものは、できるだけ買うな。
ということであった。
この流儀でもって、天下の政治に臨んだのである。

景気は死人のように冷えてしまった。
むろん、定信にすれば景気などはどうでもよく、そのもとをなす前期資本主義などは、死にたえてしまえばよかった。

自給自足の古代にもどるほうがよく、そのためには古代の政治学である儒学をさかんにし、とくに朱子学を重んじ、異学を禁じたのである(寛政異学の禁)。
(略)
定信は、六年、幕閣にいた。
が、労多くして功はすくなかった。
やがて白河にもどって藩政に専念した。
(司馬遼太郎『街道をゆく33』朝日文庫より)


日本国の首相になるには、定信はなにかを欠いていた。

出現した厄介な経済社会に定信は無力であった。

首相である者が無力であることは、ある意味で歴史の敗者ということではなかろうか。
しかし、彼を弁護するとすれば、家康以降、日本というものが、誰一人として大国で厄介な経済社会だということを分かるものなどいなかったのではあるまいか。
おそらくほのかに分かったのは田沼意次くらいだったのではないか。


定信は72歳の正月に風邪をひき高熱を出して寝込んだ。それから体調が思わしくなく4ヶ月後のある日の昼過ぎに、うめき声をあげはじめ、その夕、苦痛から解放され命は天に帰った。

辞世の句は、

今更に何かうらみむ うきことも
楽しきことも見はてつる身は

幕閣にあって政策がうまくいかず憂鬱だった日々も、藩政に専念して士民ともどもに喜びあった日々も、精一杯駆け抜け見尽くした自分としてはなんの心残りもない、という定信の素直な思いが伝わってくる。

白河楽翁

彼の異称である。
文字通り、彼が真に満ち足りていたのは、おそらく失脚後の白河の日々だったのではないかと思ったりもするがどうであろう。

 

松平定信がつくった公園は日本最古 白河市ウェブサイトより

 

【参考】

高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館)

司馬遼太郎『街道をゆく 33』(朝日文庫)

童門冬二『江戸管理社会反骨者列伝』(講談社文庫)