清流は大河を流れず〜松平定信は何に敗れたか〜【前】 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。そこに目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

面子

と書いて、メンツと読む。

面子が立たない。
面子をつぶされた。

などという。

果たして、面子をつぶされた悔しさから、やがて出世してこの国の舵取りをすることになった男は、面子をつぶした相手に何をしたというのだろう。

面子をつぶされた怨み。

人は愛や善意のエネルギーより、屈辱や怨念のエネルギーのほうが格段に強力だ。
果たしてホントにそうだろうか、というお話である。

狂歌にこんなものがある。

田や沼や 濁れる御世をあらためて
清く澄ませ 白河の水


「田や沼」とは、老中・田沼意次であり、「白河の水」とは、意次に代わって老中となった松平定信のことだ。
こう詠み流行らせたのは、間違いなく江戸の庶民たちである。
彼らに阿諛やうそいつわりはなかろう。
清廉潔白な殿様だったのだ。

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松平定信自画像(鎮国守国神社所蔵) Wikipediaより

徳川幕府では、老中など幕府高官の譜代大名は、ポストに就けない外様大名と比べて収入が少なかった。
田沼意次は駿河・相良で5万石、老中首座だった松平武元は上州館林で6万石、その後に首座となった松平康福は石州浜田で6万石だから、加賀百万石の前田や薩摩70万石の島津などにくらべ、かなり少禄だ。
ここに賄賂の温床が生まれる背景があった。
とはいえ、田沼の収賄は、濁れる御世と言われるくらいだから尋常ではなかったのだろう。

田沼意次が他の老中と異なるのは、側用人を兼務していたことだ。

側用人

将軍の最側近のことである。
いわば将軍と幕閣の唯一の伝声管だ。
おのずと権力はそこに集中する。
権力に人と金が群がるのは、古今の例をまたない。


意次は収賄を悪事と思っておらず、こう言ったという。

よい品物や金は、持っている人間にとって大切なものだ。それを他人にくれようというのだから、その人はよほど私に対して誠意をもっているのだ。
私はその誠意にこたえる。


そしてこう言い切っている。

くれる品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど、私はその人を重い役につける。

本人がそう公言するほどだから、田沼屋敷には賄賂が山のように積まれ、贈賄の客が絶えなかった。


松平定信の面子をつぶした田沼意次 Wikipediaより


田沼詣

とでもいうべきだろう。
平戸藩主・松浦静山は、若い頃しばしば田沼邸を訪れた。猟官運動なのだろう。
面会の座敷は30畳ほどの広さ。
対面の場合、他の閣老のところでは、たいてい訪問者は障子などを背にして一列に居並んでいるのだが、田沼屋敷では両側に居並び、それでも余るので、その中間に複数の列をつくって並び、さらには座敷の外に大勢が居並ぶありさまだったという。

彼は、田沼詣の様子を『甲子夜話』という著書に記録していた。
それによると、意外にもこの田沼詣のなかに、清いはずの〝白河の水〟若き日の松平定信がいた。
20代半ばのころと思われる。


定信は、8代将軍徳川吉宗の孫である。ある時期まで、将来の将軍の目があったにもかかわらず、諸事情により奥州白河藩の松平家に養子に出された。
そのころのことだ。

将軍がかなわなくなった定信の次の望みは、幕閣であった。
できれば老中首座になりたい。
老中首座とは日本国首相だ。


くれる品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど、私はその人を重い役につける。

と、時の権力者である意次がいう。
意次がいる限り、彼にひれ伏さなければ絶対に出世は不可能だ。
定信は懊悩しながらも、田沼詣をしてまでして、老中になりたかったのである。


『甲子夜話』の著者・松浦静山は頻繁に田沼屋敷に足を運ぶ贈賄の常連だった。
そのこともあって、大広間ではなく別室に通されていた。
定信は、悩みつつも田沼屋敷を訪れたものの、自己の良心を苛まない程度の軽い土産を持参した。
早朝なら人も少なかろうと思って出かけたが、大きな間違いだった。
門前には人が群がっている。
定信は将軍の孫であり、御三卿田安家から白河藩主の養子になった若い貴公子であった。


しかし、定信が通されたのは、大広間であった。
座るところもないくらい先客がひしめいている。
定信は後悔し帰ろうとも思ったが、「老中になるため」と思い直し、端にすわった。
定信の訪問は、たちまち一同の知るところとなって、ガヤガヤと騒いでいた一座の者たちは沈黙し、定信を盗み見た。

定信は屈辱感で、頭に血がのぼった。


ガラリと障子が開いて意次があらわれた。

お城では激務でしたが、家に戻って皆さんのお心づくしの品々と、わざわざお運びくださった皆さんのお顔を見ると、疲れを一度に忘れます。

というと、迎合するように大広間に歓声が上がったのである。
定信は表情をこわばらせうつむくしかない。

意次は、定信を見つけると、

これは白河さま。さあ、別室へ行きましょう。

と言った。
定信は別室で、自らの志を全霊をこめて語った。

老中になりたいのです。ご推挙ください。

続いて、おおむね次のようなことを言った。

私はきょうまで清潔な生き方を信条にしてきました。こちらへお伺いするのにもかなりの勇気がいりました。
目立ってしまいますので、これからはそう何度も伺えないと思います。
ですから、できれば今日、良いお返事をいただいて帰りたいのです。


また、ほかの記録では、定信が意次に対して、銀の花いけにみずから梅の花をいけて和歌を添えて贈った、とある。
定信の家紋は梅鉢である。
歌意は、自分が世間から将来幕政にたずさわることを期待されているというもので、これも猟官運動の一つであった。

 

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白河藩松平家の家紋・星梅鉢 Wikipediaより

意次にすれば、この苦労知らずの世間知らずの、人間の機微にうとい貴公子然とした青二才を嫌悪した。

名門貴公子の身を屈しての猟官運動に、意次はこの日、色よい返事をしなかった。
定信の面子は大いにつぶれたのである。


政変が起きた。
将軍の家治が死んで、家斉が新将軍となった。田沼意次は失脚し、定信は待望の老中になった。

徳川家斉像(徳川記念財団蔵)Wikipediaより

面子をつぶされた屈辱をはらす。
その執念か。

反田沼勢力である尾張、水戸家による意次処分の文書が上程された。
処分の方針は、失政や社会混乱の責任を意次一人にとらせて罰し、失墜していた幕府の権威を回復するということだ。

意次の所領である相良領は没収、城は破却された。江戸屋敷も没収。
意次本人は蟄居。
後継である孫の意明はわずか1万石に減封され、陸奥国下村に移された。
しかし、領地への下向も許されず、また、将軍へのお目見えも許されなかった。 
意次は、それから2年後、失意のうち江戸で死んだ。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

 

坊主が意次なら、袈裟は意次の政治だ。

定信の怨念の刀は坊主を斬ったあと、袈裟まで斬ったのだろうか。

 

意次に代わって首相となった定信は、意次とは正反対の政治をすることで、怨念のエネルギーを放散しただろうか。

答えは、否である。

市場経済のことを、神の見えざる手などというが、こと経済においては前政権の反対をやれば安定するという約束などまったくない。
定信の〝改革〟は、多くの政策を田沼意次のものを継続したのだ。


定信が講じた経済政策は、

株仲間
冥加金
公金貸付

など、実は意次のそれを継承したものが多かった。
蝦夷地開発の構想についても、実際には定信の政権では肯定的に支持されていた。

意次の経済政策は、積極財政のように受け取られているが、実は緊縮財政であった。
江戸時代中期からは、幕府、諸藩とも財政は赤字であった。

楢崎という役人が、意次の幕府の利益最優先の緊縮増税政策について述べた記録が残っていて、こう書いている。

役人たちは、幕府の支出を一銭でも減らすことを第一の勤めとして互いに競い合っている。
それが幕府の利益だととなえて、費用を切りつめて支出を減らし、その一方で、重い租税を取り立てて、その功によって出世をしている。


田沼時代は、旱魃や洪水などの天災、疫病、浅間山の大噴火そして大飢饉という受難の時代でもあった。
財政は赤字が続き、暴動が起き社会不安が高まっていった時代だったのだ。

 


江戸城付近の古地図 歴史文化探訪ラボウェブサイトより

あやまちては改たむるに憚ることなかれ

ということだろう。

意次の緊縮財政策の良い面を定信は継承した。


たとえば、従来の支出削減政策を改善して、予算制度を導入し各セクションで予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めた。いまでいう事業仕分けのようなものだろうか。
たとえば、朝廷の財政への支出を減らした。
たとえば、幕府が大名や旗本たちに無利子で金銭を貸与することを制限した。
たとえば、公共工事の工事費を大名たちに負担させた。
そして頻繁に倹約令を出し支出を抑制した。

これらはみな田沼の緊縮財政策の踏襲である。

ただ、明らかに意次の政策を否定したものもあった。

たとえば、1790(寛政2)年5月にこんなお触れが町人に対して発せられた。


好色本は風俗上好ましからず。
草双紙には昔のことのように装った不謹慎な内容があって社会に無用のものだ。


いわゆる出版統制令である。

古代中国に「焚書坑儒」という思想弾圧事件があった。
焚書とは、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物をことごとく焼き払うことをいう。
ときの為政者はそれが体制批判につながると考えたからだ。

定信がやった反田沼政策は、まさにこの焚書だったのである。