「血のめぐりがいい」という言葉があるが、司馬さんの場合、頭に流れる血の量が桁外れだったのだろうと思う。
血のめぐりが悪くなって、晩年にぼけてしまった父を持つ身として、司馬さんの血のめぐりのよさは、驚異としかいいようがなかった。
ある雑誌編集者が、司馬遼太郎をそう述懐している。『街道をゆく』で編集者を務めた人である。
血の量
とは、むろん比喩であって、血ではなく「知」ということであろう。そして無数のそれを解析する能力をも指しているであろう。
その脳内には、平生、無数の知とそれらが解析され巨大な整理棚がしずまっているが、ふと、思いのたぎることがあるのだろう。
私のたのしみというのは、毎日、書斎にうずくまっていることらしい。
杜子春が辻で人を待っているように、断簡零墨を見、やがてそこから人間がやってくるのに逢う。
むろん、無数の場合、逢いぞこねてもいる。
いまだにやって来ぬ人もいる。
旅には、そのために出かけるようなものだ。
司馬さんは、思いのたぎる理由をそう言っている。
『街道をゆく』
司馬遼太郎による大紀行文である。
1971(昭和46)年に連載を開始し、1996(平成8)2月の著者の逝去により、未完のまま絶筆となった。
その間、25年。
実に四半世紀も旅を通して、著者独自の視点でその国の歴史・地理・人物について思索し考察した。
旅した場所は日本にとどまらず、アイルランド、オランダ、アメリカ合衆国、モンゴル、中国、韓国、台湾に及んだ。
司馬遼太郎の思索紀行文学『街道をゆく』 NHKオンデマンドより
司馬さんは生前、こうも言っていた。
僕の書いたもので最後まで残るのは『街道』になるかもしれないね。
その真意はよくわからないが、たいそうゆゆしきことばである。
ただ、司馬さんが『街道をゆく』を書き始め、やがて数々の小説をさしおいてこの紀行文が最後に残るという思いを致すまでになるのだが、そのきっかけは意外と知られていない。
司馬さんの作家としてのメジャーデビューは1959(昭和34)年の『梟の城』だ。
以降、歴史作家として小説を書き連ねた。
そして、小説以外で書いたのはわずかな例を除いてこの『街道をゆく』が初めてである。
それまで十数年、脳内に溜め込んだ「知」は書斎の中でひたすら小説として、形づくられていった。もちろんそのために取材旅行にも出かけたろう。
そのなかで、司馬さんには忘れがたい仕事があった。
『街道をゆく』が始まる3年前の1968(昭和43)年に文藝春秋に一年間にわたり随筆を書いている。
忘れがたい仕事について、仕事が終わって一冊の本に綴じられたとき、こう言っていることでわかる。
私自身は、小説さえ書いていればいいという簡単明瞭なくらしを愛する者で、こういういわば余分なことは多少苦のたねでなくもなかったが、やってみるとじつにたのしかった。
さきざきで世話になったひとびととのふれあいは、もはやわすれがたいおもい出になった。
書斎を出ることが苦に思っていたことが、予想外の愉悦であることに、司馬さんは気づいたのだ。
その一冊が、『歴史を紀行する』(文春文庫)である。
司馬さんは12回の連載を1回読み切りで日本の各地を旅した。
高知
会津若松
滋賀
佐賀
金沢
京都
鹿児島
岡山
盛岡
三河
萩
大阪
『街道をゆく』のさきがけとなった『歴史を紀行する』 Amazonウェブサイトより
いずれもその土地には一様に傾斜のつよい特徴があり、なんらかの影響を歴史に与えた場所を選んだと言っている。
この『歴史を紀行する』が、その後の『街道をゆく』を始める大きな契機になったことは間違いないだろう。
司馬さんは『歴史を紀行する』で十二の土地を旅して、
風土
というものが存在するということに気づかれた。
『歴史を紀行する』のあとがきで司馬さんは、
風土などは、あてにならない。
西郷隆盛が豪放磊落だから、鹿児島県人は豪放磊落な人が多い、などいうことにはならない。風土的概念などたよりにならない、と述べている。
そう否定しておきながら、である。
言っているそばから、
しかしながらひるがえって言うようだが、風土というものはやはり存在する。
歴史的にも地理的にもどうにもならずそれはある。
と、一見矛盾するようなことを言う。
やや難解な解ではあるが、この解がやがて大紀行文『街道をゆく』を書き続ける原動力になってゆく。
司馬さんの〝解〟はこうだ。
要するに、個々のばあいはまことに微量でしかない粒子が、大集団をなしたときに蒸れてにおいでてしまっているものがここでいう風土であるかもしれない。
その風土的特質なら人間個々の複雑さを解こうというのは危険であるにしても、その土地々々の住人たちの総括として理解するにはまず風土を考えねばならないであろう。
ときにあっては風土を考えることなしに歴史も現在も理解しがたいばあいがしばしばある。
たとえば、司馬さんは武蔵・三多摩地方と播磨(播州)を引き合いに出してこう話している。
武州三多摩は将軍、武家の本拠地らしい。
新選組の近藤勇(1834〜68)が新たに隊士をを募るとき、
兵は関東に限り申し候
と言ったという。
三多摩の農民の間では剣術が流行った。
試合に勝つと鎮守様に奉納額がかかる。
私の祖父は数学のできた播州の人で、あるとき姫路の広天満宮に算術の試合があった。
播州の農民は和算を道楽のようにして学び戦い合った。
たとえば三条大橋の円の半径を出せという問いで祖父が勝って算額をかかげたことがある。そういう土地には新選組のような人はでない。
武州なら武州の、播州なら播州の、もっといえば日本なら日本の、オランダならオランダの「風土」もしくは「風土的特質」を考えて歴史といまを見よ、ということなのだろう。
それが『歴史を紀行する』の十二の旅で出た答えだったに違いない。
『街道をゆく』は、連載当初では、
近江
竹内街道
葛城
河内
など、著者にとって身近で懐かしい土地や、長州路や甲州街道といった小説の主人公と関わりの深い土地を旅している。
その後、徐々に北へ南へ旅する街道は広がってゆくが、その土地々々の風土を司馬さんは感じている。
越後は、
古代高志・越以来の大国で、大和政権の版図は「ぬったりの柵」からむこうは容易におよばなかった。戦国期に大統一をなし、一時期は関東平野まで越後に従属したために、関ヶ原以後、家康があやぶみ、物をこまかく砕くようにして分轄して統治した。
「潟のみち」では、新発田にある溝口藩という5万石の小さな藩が、努めて努めて沼とも陸ともつかぬ土地を開拓し、幕末には実高40万石になったという話をしている。
かつてはここを支配し300万石を領した上杉が会津からさらに米沢に去り10万石になったことを考えると象徴的だ。
佐渡は、
波の上にある。
地の文化はまったくといっていいほどの上方文化であり、支配層は江戸に属し、ほとんど江戸の郊外といえるほどであった。
「佐渡のみち」では、佐渡金山にゆかりのある大久保長安や辻藤左衛門、幕末に佐渡奉行になった能吏・川路聖謨といったあまり知名度のない人々が登場する。
司馬さんは書斎で出会ったこれらの人を土地の歴史の景色の中で再会しているようで、これもまた愉しい。
奥羽は、
物を考えさせる天地である。
首都である仙台やあるいは秋田よりも、最上川ぞいの地や、あるいは三陸の八戸の方が、奥州・羽州の気分がわかりやすいように思えた。
「陸奥のみち」では、八戸の人・安藤昌益について考えている。江戸中期の医師だが、共産主義のような思想の持ち主だ。外界からきた商業資本に翻弄された風土と昌益の思想を司馬さんは深く見つめていた。
このように書斎で溜め込んだ風土の外容は、旅に出てその五感で感じることで、自身の内面にある英知を呼び起こしてゆく。
司馬遼太郎記念館に保存されている書斎 毎日新聞フェブサイトより
司馬さんの旅のひとつの目的が、そうした
風土さがしとその答え合わせ
であることは確かなようだが、実はそれだけでもなさそうである。
私の想像だが、司馬さんが書斎で史料を渉猟して溜め込んだ無数の知は、不思議なことにその脳内で映像となっていきいきと躍動しているように思える。
脳内の歴史に関する情報の濃密さが、『街道をゆく』で訪れた先の眼前の山野や谷や川や海を、歴史と結びつけて意味を持った風土にしているように思える。
たとえていえば、賤ヶ岳近くの峠道では戦場へ向かう柴田方の将兵の馬蹄の響きや幟のゆらめくさまがその脳内のスクリーンにあざやかに映し出されていたかと思える。
たとえば、司馬さんはそんな自己の体験を、証言として残している。
『街道をゆく』最後の旅は「濃尾参州記」だ。
司馬さんは、このなかで桶狭間の古戦場を訪れている。
司馬さんは同行者の鶴田先生という医師の案内で、桶狭間が見下ろせるという緑高校に至った。
鶴田先生によれば、25年前に自分がこの高校にいた頃は民家は少なく、キジが出るような土地だったと言う。
二十五年前、鶴田少年が見た景観と、信長が見た景観とは、さほど変わっていなかったろう。(略)
崖になっている。のぞくと五十メートルほどありそうである。
少年時代の鶴田先生は、この崖の上によく立ったらしい。見おろす谷が、桶狭間ー田楽ヶ窪ーなのである。
信長がここに立ったのではないにせよ、このあたりの似たような台上の一点から、私どもが見る桶狭間を見たのにちがいない。
『街道をゆく』で司馬さんはそう書いている。
以下は、鶴田先生による後日談だ。
鶴田氏は、そのときのことをよく憶えていてこう言った。
当時、僕が見た30年前の風景は雑木林でしたからね。それに比べてまったく景色が変わってしまったということを、私、申し上げましてね。
そのときに、たしか言われたと思うんですが、
「400年、500年前のことでも、目を閉じると、そのころのことがなんとなく浮かび上がってくるんだ」
とおっしゃって、しばらくここにおられました。
ひとには見えないものが司馬さんには見える。
司馬さんはむろん霊能者ではない。
書斎で溜め込んだ無数の知から往時の実景がわきあがり、その土地をおおっている風土に氏の五感が感応している、というほかあるまい。
最後の旅で司馬遼太郎が俯瞰した桶狭間(桶狭間古戦場公園) Aichi Nowウェブサイトより
以下は余談になる。
私は学生のころ、『街道をゆく』の足跡を追ってしばしば旅をした。
『街道をゆく』の文庫本と地図を手に、たとえば坊津に行き、苗代川の窯元に行き、与那国島の西崎に行った。
いまでいうところの〝聖地巡礼〟だ。
あるときは、「壱岐・対馬のみち」をなぞって対馬に行った。
目的は、島の北端にある千俵蒔山に登ってそこから朝鮮半島を見ることだった。
『街道をゆく』には、ドラマティックな場面もある。
「壱岐・対馬のみち」の〈千俵蒔山〉の項がそうだった。
司馬さんの対馬の旅には、2人の同行者がいた。
作家・金逹寿(1920〜1997)
考古学者・李進熙(1929〜2012)
二人とも在日朝鮮人の方で司馬さんと親交が深かった。
〈千俵蒔山〉では、金達寿氏の小説『対馬まで』の内容が紹介されている。
学生だった私は、文中の記述に引きずられて小説『対馬まで』を読んだ記憶がある。
『対馬まで』は、中年と初老の在日朝鮮人が何人かで対馬まで旅をする話だ。
このころの朝鮮半島の政治状況は、そこ(韓国)に故郷を持つ在日朝鮮人が国籍を変えることなしに帰国することは許されていない。
重い話だが、『対馬まで』を少し続ける。
ある日、主人公(金氏)と丁と李、安の4人で朝鮮通信使の調査の目的で対馬を訪ねることになった。
主人公は20歳ぐらいの時に渡日してから30年、李も中学生の時以降30年ほど、丁にいたっては50年も朝鮮半島に戻っていなかった。
4人はビールを飲みながら、とりとめもなく話をした。
安などは、
ソウルの裏街のうす汚い居酒屋で一杯やりたい、それができれば死んでしまってもいい。
と言った。
その彼らは、対馬の北端から釜山までわずか50キロメートルに過ぎないことを知って、千俵蒔山に登ったのである。
前夜に強い風が吹いたため、登ったその朝は海は晴れていた。
やがて、釜山の絶影島がみえ、他の島々も見えた。
その帰路、丁が運転しながら山麓を蛇行していたが、急に車を停めブレーキを引くと、ハンドルに突っ伏して号泣した。
おれたちは、おれはいったいなにをしたというんだ!
金と李も涙ぐみ、目のやり場に困り果てた。
そういう話である。
対馬から朝鮮半島を望む金達寿(撮影・李進熙) 神奈川近代文学館ウェブサイトより
小説の主人公は司馬さんの「壱岐・対馬のみち」の同行者の金逹寿氏であり、李とは李進熙氏である。
『街道をゆく』の司馬さんは千俵蒔山に来ている。その後ろを金逹寿氏と李進熙氏が歩いている。
同行の編集者が、司馬さんに「登りますか」と聞いた。
司馬さんは首を振った。
山に登ってあの半島の山々を見ても仕方がないというのだ。
「登りますか」
と、金逹寿氏や李進熙氏にきこうとしたが、やめて車にもどった。きくのが同行者としての礼儀であるはずだが、なぜきかなかったのか、いまでもわからない。(略)
両氏にとっては単なる感傷でないにせよ、私にとって両氏につきあうことは感傷をことさらに触発するための行為で、なまなましすぎる。
だから、聞かなかったという。
私はこの感情がよくわからなかった。
しかし、変化はこのあと起きる。
『街道をゆく』のなかの司馬さんの記述は光景を書くのみだが、それだけで李進熙氏の内心がなんとなくわかる文章だ。
対馬の北端に立つ千俵蒔山 Yahoo!トラベルウェブサイトより
やがて山坂がくだりになって、海が見えた。
そのとき、李進熙氏が運転手に声をかけて車を停めたのである。
見えます
李進熙氏は陰気なほどのしずかな声でいった。
絶影島です
李進熙氏は、写真をとった。
肉眼でもとらえにくいあの淡いしみがフィルムにうつるとはおもえず、当然、考古学者として写真機の使い方に熟練しているしよく知っているであろう。
しかし何度もシャッターを切っていた。
「壱岐・対馬のみち」の〈千俵蒔山〉の項はこれで終わる。
司馬さんは〝それ〟を眺め見ることを避けていたが、李氏は〝それ〟を見ずにこのまま去ることに堪えられなかったのだろう。
私はこのときより5年ほど後に、千俵蒔山を訪れてその山頂まで登った。
北の方角を見た。
空は青くなかったが、曇りというほどではなかった。
海面と空のあいだに、釜山は見えないかと目を凝らすと、白い筋のようなものが見えた。
釜山の街の白壁だろうか
と、思った。
思いたかったというべきだろうか。
しかし、絶影島と言われる島影は見えなかった。
写真を撮った記憶はあるが、もう手元にはない。
おそらく釜山は見えなかっただろう。
ただ、私のは〝聖地巡礼〟である。
ここに立つことしか意味はなかった。
私の対馬の宿は厳原の民宿だった。
対馬はどこも閑散としていた。
いまも宿主の婦人との会話の記憶がある。
韓国の人はこの町にいますか。
と聞くと、
年に何度か、難破したりして漂着する漁師がいた。
自治体に頼まれて、国へ帰るまで面倒を見た。
彼らは風呂のことをモギョという。
そんなことを答えてくれた。
それがいまは、対馬と釜山の航路が開かれ、韓国人観光客は年間40万人を数えるという。
そういえば、「壱岐・対馬のみち」の当時の1977(昭和52)年には、在日朝鮮人が韓国に入国することはかなわなかった。
しかし、2018(平成30)年には在日朝鮮人のうち朝鮮籍をもつ人の韓国入国制限が大幅に緩和された。
安全保障上の脅威になるなど特別な拒否理由がなければ、申請から8日以内に入国に必要な証明書を発給することになったのである。
その瞬間、丁さんの号泣も、李さんのやるせない写真撮影も遠い歴史になった。
ある意味では、私の対馬での出来事も同じことなのかもしれない。
『街道をゆく』壱岐・対馬のみち 朝日新聞出版ウェブサイトより
『街道をゆく』のスタートから半世紀、その絶筆から30年が経っている。
私が対馬でのことを歴史と感じたように、『街道をゆく』のすべてがもはや歴史になってしまったようである。
いまの世は、この国のどこを歩いても同じ地域に、同じ情報があふれ、同じ文化が同じ民度で存在し、異なる人種や出自の人々が住み、お互いの多様性を尊重しながら生活している。
かつて、この国に風土というものがあった。
その風土は、いまは消え去るか、か細いものとなるか、あるいはいまの世の中に埋没してしまっているようにみえる。
だからこそ、司馬さんが二十余年をかけて全国(全世界)を歩きまわって書き集めた『街道をゆく』は、絶滅した昆虫の見本集のように後世に残るだろう。
そう考えると、司馬さんが生前言った
僕の書いたもので最後まで残るのは『街道』になるかもしれないね。
という意味がわからなくもない。
司馬さんは旅のはじめにこう言っている。
街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである。
私たちは、『街道をゆく』によって司馬さんの脳内に広がっている過去という時間的世界を見ることができる。
ただ、それが尾張の野で途絶えたことだけが残念でならない。
※タイトル写真は、『街道をゆく』の挿絵(画・須田剋太) 大阪府立江之子島文化芸術創造センターウェブサイトより
【参考】
司馬遼太郎『街道をゆく』(朝日新聞社)
司馬遼太郎『街道をゆく夜話』(朝日新聞社)
司馬遼太郎『歴史を紀行する』(文春文庫)
『司馬遼太郎「街道」の原点』(朝日新聞出版)