今の日本国になる前

 

日本は一つ ではありませんでした

 

 

 

もちろん沖縄は

明治になるまでは琉球王国ですが

 

 

 

それ以外

 

 

日本列島は一つであったかというと

 

全く別々の文化が育っていました。

 

 

 

 

 

鎌倉時代まで

 

天皇家の掌握していた交通路支配権は

西国にあり

 

東国は管轄外でした。

 

 

 

 

もっとさかのぼれば

683年 律令国家が形成されましたが

それは畿内を中心としたものであり

 

日本海側は、若狭を境にそれより東側は管轄外でありました。

 

 

 

 

九世紀から十世紀にかけて

渤海使の来着

さらに十一世紀に入り

宋船の頻々たる来航によって

敦賀津は京への一つの窓口としての役割を果たすようになってきましたが、

 

(以上 参照「日本海と北国文化」 海と列島文化1 網野善彦 26ページ、35ページ)

 

 

 

 

      この地図で若狭敦賀、並びに京都の位置を確認してください。

 

 

 

それより東側、たとえば

 

927年に完成した延喜式には

実際に権力が及ばない東国を、東山道と呼び

近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国をまとめて、東山道としています。

(東山道は東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいません)

 

 

 

 

実際に

東国全域に別の権力が及んだのは

鎌倉後期であり、

(前九年の役・後三年の役の武力制圧を経て)

北条氏が津軽から若狭までの要津をほぼすべて直轄地に置いたことにはじまりました。

(「日本海と北国文化」 海と列島文化1 網野善彦 34ページ)

 

 

 

 

ということは

 

 

それまで日本列島西側において権力を握っていた天皇家

代々の記録として残っている「古事記」「日本書紀」は

東国の歴史書ではないということです。

 

 

 

鎌倉時代以前に、さかのぼったとき

「古事記」「日本書紀」は

東北・北海道にとって、よその国の歴史書ということになります。

 

 

 

 

ですから

東国と西国は別々の文化でありましたから

次のようなことが起こります。

 

 

 

征韓船十三浦漂着

 

人皇十四代仲哀帝庚辰九年、神功皇后三韓を征し

十五代応神帝の辛巳元年任那三韓に内宮家を置きてより

三韓より十三湊に来る韓人多く

是を追ふて征韓船十三湊に来るも、荒吐一族の矢に誅されて降る。

 

依て、臣船なる征韓船を修築し、茲に韓人の水路法に依る交易始めて十三湊に創まれり。

此の船を李源船と称し、爾来交易盛んならしめたり。

  

(十三湊覚書   東日流外三郡誌 第四巻 中世編㈢ 292ページ)

 

 

 

 

 

神功皇后による三韓征伐により

西国・倭国は、朝鮮半島南部を制圧・支配しました。

(なぜならそれは、朝鮮半島南部で鉄資源が豊富に採れたから)

 

 

 

そこに住んでいた人々は

半島にある他国に行くわけにもいかず

海に出ました。

対馬海流によってたどり着いたところのひとつが十三湊でありました。

 

 

 

 

西国・倭国の飛鳥文化とは一般に

 

仏教伝来から大化の改新までであり

朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、

インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化。

多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。」

(Wikipediaより)

 

 

仏教伝来とは

29代欽明天皇が、百済国王聖明帝から金銅の釈迦牟尼仏像を献じられたことに始まりますから

 

 

 

日本の飛鳥時代とは

 

三韓征伐により朝鮮半島に勢力を伸ばしていった時代のことを指し

 

 

 

 

 

663年 白村江の戦いに大敗した後

地政学上、日本列島で危険な地域(朝鮮半島や中国に近い地)を避け

(当時交通手段としてもっとも重要な)水路・海路により利便性のある地域に

都をつくったのが奈良時代のはじまりであります。

(日本海において、他国との交易可能な範囲内にある地であり、

琵琶湖を経由することで他国から攻めにくい地としての場・都の選定、奈良

※上に掲載した若狭、敦賀、そして京都の地図から、すぐ南、奈良の位置関係

またそれらの水路・海路も地図で確認してください

 

 

 

 

 

 

われわれの習ってきた日本の歴史は

明治期につくられた正史をもとに教育を受けていますが

 

 

この歴史観は

・(中央集権をつくるために)、ムリに一つにしてしまったこと

・対外関係(特に中国や英国・米国)において、その関係性・力関係を隠そうとしていること

 

において様々な矛盾が露出しています。

 

 

 

 

先ほど取り上げた書物

【「日本海と北国文化」 海と列島文化1 網野善彦 10ページ】にありますが

 

 

 

 

 

すでに考古学・文献史学の多くの研究成果が、

 

 

    縄文時代以来

 

この列島に均質・単一な「日本民族」が存在したという

「はじめに日本人ありき」ともいうべき

これまでの歴史像の破産を証明している。

 

 

 

 

 

 

 

海外に目を向けてみましょう。

 

日本列島ぐらいの大きさの島々はどうでしょうか?

イギリスはどうですか、

(ウェールズ・スコットランド)

 

 

 

大坂なおみさんのお父さんの出身地ハイチは

今もドミニカ共和国と島を二分しています。

 

 

 

 

 

 

わたしはイギリスに二年間住んでいましたが

それはロンドンとかではなくウェールズに住んでいました。

 

ある日パブで飲んでいるとマスターは

ローマに侵略された時の話をしてきました。

 

 

ローマ帝国がグレートブリテン島に渡ったのは

紀元前55年のこと

大陸とイギリスの間、ドーバー海峡は34キロあります。

 

 

 

倭国が朝鮮半島に渡り南部を制圧した時代

九州(福岡)から朝鮮半島までは132キロありますが

 

それを可能にしたのは対馬の存在

対馬から朝鮮半島(釜山)までは49.5キロであります。

 

 

それぞれ人類が獲得した

船という移動手段、航海技術があったから

海を渡った侵略が可能となりました。

 

 

 

 

 

 

それではなぜ

いまだに日本は元々ひとつであるという考えに固執するのでしょうか?

 

 

 

それは、東北・北海道による自分たちの歴史観を確立したときに

困る人たちがいるということです。

 

 

 

以前の記事で書きましたが

明治時代になり

東北・北海道の天然資源のある地はすべて

国有化、払下げという形で奪われましたから

 

 

 

 

 

たとえば会津の山々の莫大なる水資源で大きな利益をあげる東京電力等の大企業にとって

東北・北海道の歴史観は邪魔なものでしかなく

あらゆる手段をつかって疎外してきているのが現状です。

 

 

多くの研究成果によって破綻しているにもかかわらず

メディアをつかい、学術的ではない手法で現状維持を図ろうとする時代は

もう終わりです。

 

 

ヒステリックに、東日流外三郡誌や和田家文書を偽書と批判していた人たち

その時の状況はよくわかりませんが、それらに関する文献を読んでいると

目に余る言いがかりとしか言いようがありません。

 

彼らはどのような狙いがあってこのようなことをしているのか後日、記したいと思っています。