江戸の敵を長崎で討つ
という古いことわざがある。
以前に受けた恨みを、意外な場所または筋違いなことで晴らすことをいう。
文政年間(1818~30)、ある大坂の見世物師が江戸で行った竹細工のイベントで、江戸の見世物師の人気を上回る人気を獲得し大成功を収めた。
しかし同じころ、大坂では長崎のオランダ船やギヤマン細工の見世物が人気を博し、大阪の見世物師を圧倒してしまった。
江戸で勝利を得た大阪の見世物も、大阪では長崎の見世物には及ばなかった、というエピソードから生まれたという説だが、厳密にいうと、ことわざ自体は「リベンジ」の意味合いが強い。
関ヶ原の敵を大坂で討つ
と言ったら、誰がだれのカタキ?と首をかしげてしまう。
関ヶ原の戦いの敗者は、石田三成であり、毛利であり、島津であり、長宗我部であり、ある意味で豊臣家だ。
関ヶ原の14年後に起きた大坂の陣で、毛利は申し訳ない程度の兵を家康軍に出しただけで、あとはすべてここでも敗者になっている。
関ヶ原で負けたのは、家康だというところから話は始まる。
石田三成にその知恵を授けたのは誰だろう。
関ヶ原の戦いで、三成は複数門の大砲を用意しこれを使用したのだ。
大砲、当時は「大筒」と呼称したが、この秘密兵器は黒田・細川両軍の撃退に使用され、それなりの成果はあったらしい。
当時の砲弾は円弾、ボウリングの球のように丸く、鉄の塊だ。ボウリングの球が空から降ってくるようなもの。炸裂こそしないものの、人体を引き裂くには充分な威力がある。
石田三成が大筒三挺を使用したと史料にある。
かねて大坂より大筒三挺取り寄せけるを、高所に置きて、三挺一度に放ちければ、関東勢三十人計殺されぬ
(「関原御合戦当日記』」藤井治左衛門 )
平野の多いヨーロッパでは地面に対して砲身を水平にした状態で撃つということがしばしばあった。
これを零距離射撃というそうだ。
球形の砲弾は、地面をバウンドしながら直進。まさにボウリングの要領で敵兵を跳ね倒していく。
いまだテレビドラマではこういうシーンはお目にかかれていない。
いずれにせよ三成の西軍は、火力の面に限れば家康の東軍を上回っていた。
その点、家康は三成に一歩、遅れた。
家康は桃配山の陣地からこの情景を見ていたかもしれない。少なくとも伝令から何が起きたかを聞き知っていただろう。
家康がこのことについてどう思ったか、記録は沈黙している。
石田三成(東京大学史料編纂所所蔵) Wikipediaより
家康は天性の模倣者だ。
しかも、決して陽気で淡白なタチではない。
関ヶ原以降、大砲のことは喉に刺さった小骨のように痛みをともなった課題として強く心に宿っていたはずだ。
歴史小説やドラマではあまり注目されないが、関ヶ原の戦いのあとの14年間は家康と豊臣の大砲製造・購買競争だったといえる。
家康は、大阪城という難攻不落の巨城の攻略を長年かけて構想し、準備したにちがいない。
家康は城攻めが苦手という評価がある。
この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大の苦手とした。
(司馬遼太郎「国盗り物語」より)
丸根砦の戦い、高天神城の戦いなど攻城戦の経験があまりないこともあるし、上田城で二度にわたって真田昌幸に大敗を喫したことも評判を落とした。
ただ、あの戦さは家康が当事者ではないが。
家康が、大坂の陣の戦略を考えたのはいつごろだろう。
ただ、結果から逆算すると、驚異的な大砲の運用で豊臣家中枢を恐怖におとしいれ、いったんは講和に持ち込む。これが第一段階。
講和を利用して詐欺漢のように大坂城最大の武器である石垣と堀を消失せしめる。これが第二段階。
こういう戦略を立てていたことになる。
第一段階を実現するために必要なものは、豊臣中枢=秀頼・淀君と女官団を恐怖させ驚倒させる大砲による「空爆」だ。
家康は、近江の鉄砲鍛冶・国友集団や堺の鉄砲鍛冶に大量の大砲を作らせた。
とくに堺の芝辻理右衛門には新式の芝辻砲を作らせた。これは青銅ではなく鍛造鉄でできているのが特徴だ。
芝辻砲は、いま靖国神社遊就館で見ることができる。
鋼鉄製の巨砲で、全長3.13メートル、口径は9.3センチ。
また、家康は1600(慶長5)年に登用した英国人・ウィリアム・アダムスを使って英国よりカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダ製4・5貫目の大砲12門を購入した。
カルバリン砲はヨーロッパで15〜17世紀に使用された大砲で、砲の長さ335センチ、重さ2トン。
火薬が入っていない鉄の砲丸が発射されていた。
テレビ番組で、大阪城から最も近い家康軍陣地・備前島から放たれたカルバリン砲の威力をシミュレーションしてもらうと衝撃力は厚さ40センチのコンクリートも貫通する力だったという。
カルバリン砲 wordowホームページより
カルバリン砲は射程2Km。実際にヨーロッパの陸戦で騎兵や歩兵に被害を与えたほか、有効射程は500mあり、90m先の厚さ15㎝の板を貫通している。
城と備前島の距離はわずか500m。
城壁の破壊がカルバリン砲の用途だった。
一方、芝辻砲はちがう。
芝辻砲は5㎏の砲弾しか飛ばせない、威力の弱い砲ではあるが、カルバリン砲より射程距離が長く、狙い撃ちできる距離が600mと100m長いのだ。
ターゲットへのピンポイント攻撃に用いられた。
1614(慶長19)年10月16日、家康軍より一斉砲撃が始められた。
北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に。
南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に。
砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった、と記録にあるほどだ。
城の南北から100門の砲口が一斉に火を吹き、炸裂弾ではないものの砲弾が雨のように降り注ぐのだ。
しかも、狙撃先は秀頼・淀殿の居住区。
ついに家康が狙撃目的で買い揃えた芝辻砲の放った砲弾が、大坂城の本丸に命中し、淀殿の侍女8名の命を奪ったらしい。
あるいはちがう砲だともいう。
家康の予想どおりになった。豊臣中枢はパニック状態に陥り、淀殿は和議に応じた。
芝辻砲(靖国神社蔵) 東京湾要塞ホームページより
大坂の陣の切所や名場面はいくつかある。
真田丸の攻防
道明寺・誉田の戦い
八尾・若江の戦い
天王寺・岡山の戦い
しかし、大坂の陣は、そうした純軍事的な事象が全体の勝利を決してはいない。
同年12月16日、大坂城本丸に撃ち込まれた運命の一弾が、自分の侍女たちをなぎ倒した光景を目の当たりにしたとき、
大坂城は10年でも持ち堪えられる
とほんの数ヶ月前まで豪語していた淀殿は、一転、和議を叫んだ。
大坂冬の陣図屛風 デジタル想定復元 徳川美術館ホームページより
司馬遼太郎の小説「城塞」になると、大砲はまるでひとつの生き物のように描かれている。砲弾の一発一発はまるで意思があるように淀殿らに災禍を成した。
やがて「四海波」が咆哮しはじめ、最初の一発は命中こそしなかったが、おどろくべきことに天守閣を越えるほどに遠くへ飛んだ。
次いで一発は、片桐且元が、
「あれに」
と、遠くを示した淀殿の居室へ落下し、三ノ間の茶箪笥をくだき、台子をひっくりかえし、侍女七人を傷つけた。淀殿が悲鳴をあげ、侍女たちが泣きながら走りさわいだ。
続いて三発目が、天守閣の柱の一つに命中し、それを砕き、ために天守閣が西に向かってわずかに傾いた。
さらに四発目が千畳敷に落下したとき、おりからそこに侍女たちが集まっていたため、騒ぎはいよいよ大きくなった。
家康がもくろんだとおり、この砲撃の心理的効果は大きかった。
「早うお扱いに致されよ。致されよ」
と、淀殿は両耳をおさえながら叫び、使いを秀頼と大野修理のもとに走らせた。
お扱いとは講和のことであった。
このときすでに、家康のまぶたの奥では、不落の巨城の塀が壊され堀が埋められた無残な裸城が明滅していたのだろう。
家康のなかで勝利が決まったと瞬間といっていい。
関ヶ原の折には多少冷や汗をかいたわい。
だが、治部少(三成)の大筒のおかげで、ワシは今日のこの戦い方に思いをいたしたのじゃ。
豊臣潰しの恩人と言わずばなるまいよ。
などと家康がつぶやいたとすれば、さすがにできすぎだろうか。
家康は天性の模倣者だ。
しかも、決して陽気で淡白なタチではない。
むしろ敗者や弱者の目で、物事を見、真似びして、素知らぬ体で万全の策を起こしていたにちがいない。
このようにして、家康は自家の天下を盤石にした。
ついでながら、徳川の天下の終わりを決定づけたのもこの城だった。
1868(慶応4)年1月27日、旧幕軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって、大阪城にあった徳川慶喜は船で江戸へ退却し、謹慎恭順。
大坂城は新政府軍に開け渡された。
そのことは城のもつ奇妙な運命のことで、家康とはなにも関わりはない。