ポーツマス、そして日比谷〜坂の上の雲のあとの泥沼〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。そこに目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

義経、信玄、謙信、信長、秀吉、家康、西郷、高杉、龍馬、海舟…。

彼らに迫り私たちを魅了するのが歴史作家である。

吉川英治、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎、藤沢周平…などなど。
ひと昔前まではキラ星のごとく、それも巨星級の歴史・時代小説家がゴロゴロいたと思うんですが、最近全くいないのは何故ですか?
 
というSNS上の問いに対し、ある方が、
 
1.原書を研究した上で小説の世界を構築する能力ある作家が不在


2.歴史に現代風の解釈をつぎこんだ作品が多く、はっきりいってつまらない→読者離れ→作家も歴史小説から違う分野へ


3.歴史に対する関心の薄さ(読者も含めて)


4.大物作家を愛読した層がまだ残っており(かく言う私もそうですが)、今の作家の作品とついつい比較してしまう。


5.1.と共通しますが、原書・資料等を十分こなしきれておらす、その作家の特徴がでていない。格調がない。
 
と解答されていた。
そういわれるとなるほど、いちいちうなずける。

つい先日、歴史家の磯田道史氏のこのことばを聞いて、私は、それだ!と思った。

「昨今の歴史小説は出版数は多いが面白いものが少ない。」
わたしのまわりでもそういう人がふえている。なぜそうなってしまったのか。
やはり、歴史に題をとっているにもかかわらず、著者があまりにも架空の物語を想像で書いてしまっていることが大きいように思う。

このごろは、書いている作家たちも、ほとんどが戦後世代になっていて、筆で書かれた生の古文書が読める人は少ない。

漢文体の史料にも親しみのない世代になっている。

だから、誰かがすでに書いて活字になった本をもとに「想像をふくらませて」歴史を書くようになってしまっている。

これでは現物・現場・実体験の歴史からは離れていってしまうのはあたりまえであろう。
わたしが知りたいのは「歴史のほんとう」である。
歴史のほんとうが隠されていれば隠されているほど、探り出すことに興味を感じる。

(磯田道史「歴史の愉しみ方」より)
 

歴史のほんとう

そうなのだ。
私のような〝素人〟に歴史のほんとうを簡潔平明に読める機会があれば望外の幸せだ。

坂の上の雲」はテレビドラマにもなり、人口に膾炙した作品である。


前出の磯田氏も小説「坂の上の雲」を傑作としつつ、著者の司馬遼太郎が小説に書かなかったひとことを洞察している。


「坂の上の雲」を高く評価する人の多くは「明治はいい時代だった」と言います。

しかし、明治人が目指したのは坂の上の雲ですから、いくら坂を登ってもそれはつかめないということも司馬さんはわかっていているのです。

登りつめた坂はやがて下りになります。

坂の上の雲をつかめないまま坂を下っていくと下には昭和という恐ろしい泥沼がある。

司馬さんは書名でそんなことを言外に語っていると私は思います。

(磯田道史「司馬遼太郎で学ぶ日本史」より)

「坂の上の雲」は「昭和という恐ろしい泥沼」だったのだ。

日露戦争で、すでに海軍は日本海海戦に大勝している。
陸軍は奉天で辛勝したものの、兵力も軍費も払底していた。
一方、ロシアはシベリア鉄道を整備し終え、ハルピン決戦のため続々と大増援部隊を送りつつあった。

日本の諜報員の決死の工作が功を奏し、ロシア国内の政治社会情勢は険悪化していて、世界の指導者たちも日露講和を主張していた。
ただ、日本国内のマスコミの多くは、連戦連勝の勢いに乗じて陸軍を進撃させ、ハルピンからはるかウラジオストクを占領せよ、と主張していた。
思えば驚くべき思考である。


記念艦 三笠

 


手元に一冊の本がある。
吉村昭著「ポーツマスの旗」。


実は、私が学生の頃、NHKで放送されたドラマスペシャル・ポーツマスの旗(1981年)を見た。
日露講和会議に焦点を置いた人間ドラマで、日本全権の小村寿太郎の目を通じて外交の意義、情報の重要さ、個人と国家の関係などをテーマとしてとらえ、近代日本史を描いた作品。
外相小村寿太郎を石坂浩二が演じた。


ドラマスペシャル ポーツマスの旗原作:吉村昭/出演:石坂浩二、原田芳雄、大原麗子、秋吉久美子/1905年日露講和会議を軸に日本、アメ・・・リンクwww2.nhk.or.jp

 

 



歴史を楽しめた最高のドラマだった。

劇中、閣議で小村がいう。

国内の講和条件に対する期待は大きい。

満州前線の苦境、日露両国の戦力の差を公表すればどんな条件でも国民は一刻も早い戦争終結を望むでしょう。
だがそれはできない。
その場合、ロシア政府は日本の戦力が尽きたことを確実に知る。
たとえ講和に応じても不当な条件を押しつけてくることは明らかです。



日本全権・小村寿太郎 Wikipediaより

 

政府は、日本の楽屋裏をロシアに見せるわけにはいかなかった。
同様に国民にも秘匿した。

秘匿する政府。
煽るマスコミ。

小村全権とチーム小村の外務官僚たちは談判決裂という絶望的な状況に直面しながら、戦争継続回避のため、なんとか講和条約を妥結した。

日本の韓国に対する保護権の容認
遼東半島南部の租借権の譲渡
南満州鉄道の利権の容認
南樺太を日本に割譲
沿海州の漁業権の譲渡

これが、日本が得た戦争の成果だった。
 

ポーツマス会議  Wikipediaより

 

この戦争では、それまでの戦役とは比べものにならないくらいの死者が出た。

 

戦病死も含め死者は、約11万人。

負傷者は約15万人。

開戦当時の日本男性の人口は、2383万人だから、全国の男性200人に一人が犠牲になっている(死傷者だと90人に一人)。

 

銃後の国民の傷は大きく、彼らの求める〝戦勝〟の代償も相応に大きいものだった。

 

新聞は、

 

講和会議は主客転倒(朝日新聞) 

桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた(報知新聞) 

弔旗をもって小村を迎えよ(万朝報)

 

とまで書き立てた。

 

条約締結を終え帰国した小村が新橋駅に降り立ったとき、首相・桂太郎と海軍大臣・山本権兵衛は左右両脇から守って歩いた。

小村が狙撃された場合、 自らが楯になるとの覚悟であったという。

 

「坂の上の雲」を書いた司馬遼太郎は、その後に起きたことを、書かずにはおられなかったのだろう。

「坂の上の雲」から14年たって、随筆の形でそのことを書いている。
長い引用になるが、次のとおりである、。

ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。

調子狂いは、ここからはじまった。
大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。

ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。
(司馬遼太郎「この国のかたち」より)

 

講和条約反対を唱える民衆による決起集会  Wikipediaより

 

歴史の法則からすれば、劇中の小村がいったように、表面的にはあくまで大勝利を叫ばねばならなかったのだろう。

もし、国内の実相を公表すれば、ロシア政府は日本の戦力が尽きたことを確実に知る。

たとえ講和に応じても不当な条件を押しつけてくることは明らかだ。

ここでは、 自国の情報は公開されてはならず、 絶対に秘匿が必要だった。

 

しかし、講和交渉になった時、この矛盾が露呈してきわめて不本意な結末が起こる。それを恐れて、講和交渉をずるずると避ければ、そこにあるものは、完膚なきまでの敗戦であり、破滅だ。

 

沖縄玉砕、原爆投下、無条件降伏を見ればわかる。

太平洋戦争の結末はそれであったといえば言い過ぎだろうか。

日露戦争では、小村をはじめ当時の指導者たちは、きわめて不本意な結末の中に敢然と身を晒したのだった。

 

しかし、日比谷公園の群衆はどうしたか。

 

当日、三万人以上の群衆が公園にあつまり、警官隊と大乱闘になった。かれらの一隊は大臣官邸になだれこみ、ついには軍隊の出動をみた。

他の一隊は警察署、分署、派出所など二百余施設を焼き、十六台の市電をも焼いた。

また多くのキリスト教会を襲撃し、破壊し、とくにアメリカ人を目標とした。アメリカ人牧師を襲うだけでなく、米国公使館を襲い、投石した。

(司馬遼太郎「アメリカ素描」より)

 

これが、坂の上の雲のあとの泥沼への始まりだったのか。

 

司馬氏は呻吟するように、こう断じている。

 

私は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気のなかから、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義が、まるまるとした赤ん坊のように誕生したと思っている。

(同上)

 

歴史のほんとうは、愉しくもあるが、冷厳でもある。

そして後世の私たちへの問いかけでもあろう。

 

いまは、もう一度じっくり「ポーツマスの旗」を見てみたいし、願わくば一人でも多くの方に見ていただきたい。