打倒池上彰(さん)!? 元局アナ・元日雇派遣労働者がニュースの深層を斬る!!【毎週土曜更新】 -7ページ目

打倒池上彰(さん)!? 元局アナ・元日雇派遣労働者がニュースの深層を斬る!!【毎週土曜更新】

テレビ局ディレクター、アナウンサー、国家資格予備校講師、W杯ボランティア、本書き、日雇派遣、不動産飛込営業、コールセンターマネージャ、ITベンチャー人事総務課長という多彩な経験から多角的な独自視点で、今起きているニュースの深層を、徹底的に好き勝手に斬ります。

安倍首相が、インドを訪問し、モディ首相との間で、
ムンバイ-アーメダバード間の高速鉄道に、
日本の新幹線方式を採用することが固まった。


海外の高速鉄道では、インドネシアにおいて、
受注確実な段階まで来ておきながら、
中国に取られてしまったトラウマから、
今回は安どの声が聞かれる。


しかし油断するのはまだ早い。


日本の新幹線方式は、車両や線路等の基盤だけでなく、
信号等も含めた運行管理、システムにらず触る人員等
全てを一括したものを「新幹線」としている。
一括でこそ、新幹線の強みが発揮される。


台湾新幹線は、受注競争の経緯から、
その一部が欧州の方式になったため、
すんなりと開業とはいかず、紆余曲折があった。


インド側は、雇用の面などから、
建設に当たり現地受注を求めている。
現地受注なら、日本から技術を持ち込まなければならない。
しかし出せない技術もあるだろう。


資金面では、同区間は東京-大阪間の距離があり、
需要も相当見込めるので、心配は薄いだろう。


細部の面はこれから詰めていく、ということで、
交渉はハードになると予想される。
折り合いがつかなければ、白紙になることもありうる。


だからまだ油断することはできない。


白紙になることがありうるのは、インドネシアでも同じだ。


中国は、資金面に当たり「インドネシア政府保証は要らない。」
「(ジョコ大統領再選の)2019年には開通させる。」
と、日本より破格の条件を示して受注を勝ち取った。


しかしその中身をみると、インドネシアの銀行が、
中国の銀行から融資を受ける。
政府間保証が銀行に移っただけだ。


インドネシアの銀行が資金回収できなければたちまち破たんだ。
国家間での保証よりリスクが高い。


資金回収には、如何に予定通りに開通させるかだ。
工事は中国側が行う。計画通りにいくかどうかの
主導権を握られてしまっている。


しかも中国には、フィリピンで工事を遅延させ、
計画そのものが凍結してしまった「実績」がある。
そして日本の円借款で再開された。


さらにいえば、インドネシアでは、中国案に決まる前に、
「高速鉄道」から縮小し「準高速」鉄道に変更されている。
例えれば、「フル規格」が「ミニ新幹線」になったようなものだ。

中国に取られたことでの痛手は、一定の緩和がある。


計画が行き詰まり、「やはり高速鉄道が必要」となった時、
インドネシアでの巻き返しが、現実のものとなるだろう。


そのためには、インドに多少足元を見られても、
インドのでの計画の成功はもちろんのこと、
アメリカのワシントン-ボルチモアのリニア計画を、
是が非でも勝ち取ることが重要である。

NHKの地域ニュースの天気予報で、
画面に映しだされた地域が、予定していた地域と違い、
予定地域をコメントしたことをきっかけに、


キャスターが動揺し泣いてしまい、しゃべれなかったことが、
大きな話題を呼んでいる。


正直言って、民放の情報番組やスポーツ紙、
引いては週刊誌まで話題になっているが、
果たしてそんなに騒ぐことなのか。


確かに動揺したことで泣いてコメントが出来ないというのは、
厳しい言い方をすれば、キャスターとしては失格だ。
しかし予定と違うことが起きれば動揺するのは自然な感情だ。


筆者を含む気象予報士の仲間では、同業者もいるので、
話題になるのは当然だが、巷間での話題は、
過去のグラビアも出てきたりなど、直言すれば、
「下衆の勘ぐり」みたいなものになってきている。


皮肉にもこのことが、ネットが発達した現代でも、
やはりテレビはそれなりの影響力をもった
メディアであることが浮き彫りになった。


ネットでは、そのテレビや新聞を「マスゴミ」なる
言葉で表現しているものが席巻しているが、

その「マスゴミ」が取り上げるのは、
一般視聴者が興味持ちそうなものである。


ネットでもその話題を取り上げるのは、
そのマスゴミに乗っかっているのと同じである。
結局は、マスコミは一般国民の鏡なのである。


その様な中で話題に上ってしまった、
件のキャスター氏には、同情すると同時に、
「ないっちゃったキャスターでーす。」位のことが言える、
図太い神経をもって復活してほしいと、切に願っている。

オウム真理教の信者で、殺人幇助罪に問われていた、
菊地直子被告に、第一審の裁判員裁判の有罪を覆し
東京高等裁判所は、逆転無罪の判決を出した。


この判決に対し、裁判員裁判の結果を覆したとして、
各方面から批判が出ている。


本件の有罪無罪の争点は、
「被告が、自分が運搬していたものが、
 殺人に使われると知っていたかどうか。」
という点だ。


人の内心に関わることだけに、立証するのが難しい。


本件に当てはめれば、爆発に使われた薬品に殺傷能力があり、
それを殺人に使うことを知っていたかどうかだ。


裁判員裁判の東京地裁判決は、
オウム真理教元幹部の井上嘉浩死刑囚の証言をもって、
菊地被告が知っていたと事実認定し、有罪判決を出した。


第二審の東京高裁判決は、この証言の信用性を認めなかった。
本人が思い出しながら語っていた17年前の菊地被告の言動を
よどみなく答えた井上死刑囚に対し、

時間が経過しているのに、よどみなく答えていることに、
信用性を認めなかったのだ。


最高裁判所は、3年前の別の裁判の判決で、
控訴審(第二審)が第一審(裁判員裁判)に事実誤認がある時は、
その事実認定が不合理であることを具体的に示す必要がある。」
としている。


無罪判決を批判する論調は、総じて「常識」に反するとして、
この判決に疑問を投げかけ、裁判員裁判の否定と断じている。


しかし常に裁判員裁判の結果が正しのか。
その結果を覆したことが、即裁判員裁判の否定なのか。
その論調にこそ、疑問を感じる。


確かにオウム事件は筆者も含め、
当時の社会に大きな衝撃を与えた。


だからといって、同じ行為を「オウムだから」という理由で、
罪が重くなるのは、明らかに法の下の平等に反する。


裁判員裁判の導入の目的は、一般国民の感覚を取り入れ、
職業裁判官だけだと落としがちな視点を取り入れることである。
そこに、法の下の平等をも超える価値はない。


犯罪という認識がないなら17年も逃げないはずだ、
というのは一般国民の感覚であることは自然だろう。


法の下の平等であれば、オウムだから怖い、という感情が、
裁判に影響することはあったはならないのだ。
あくまで事件という事実をもとに、進めねばならないのだ。


逃げ回っていたから犯罪という認識があったことを、
裁判で事実認定しなければならなかったのだ。
その判断の分かれ目が、井上証言だったのだ。


確かに今回の高裁判決は、前日の最高裁判決の趣旨に、
かなっているかどうかは、議論の分かれるところである。


ただしあくまで事実認定を行う段階で、
第一審の事実にん手は認めなかっただけで、
裁判員裁判制度の否定など一切していない。


そして何より結果が出るまでは推定無罪であり、
井上死刑囚の発言に信用性が担保できない、となれば、
無罪になるのは当然である。


メディアも、有識者と呼ばれる人たちも、我々一般国民も、
「刑事裁判は、判決が出るまでは推定無罪。」が、
表現の自由と並ぶ民主主義、自由世界の骨格であることを、
忘れてはならない。

自民党の稲田朋美政調会長が、
太平洋戦争後(正式には休戦中)に行われた、
いわゆる「東京裁判」について、
その検証をする組織を、党内に立ち上げる。


東京裁判は「裁判」という名前こそついているが、
事象発生時にはなかった罪状を問われる、
いわゆる「事後法」の問題点が指摘されている。


その時には罪とならなかった行為を、
後から罪にしてしまうことは、法治国家ではなく、
人治国家になってしまうことから、
法の支配(人ではなく)の観点から
やってはならないこととされている。


東京裁判発生時は、事実上の全面降伏受入である
ポツダム宣言後に始まった。


事実上とはいえ、あくまで形式上は休戦状態である。
休戦であり、終戦ではない。
サンフランシスコ講和条約をもって、
勝敗付けずに、終戦となっている。


ということは、東京裁判の結果を受けた課役は、
敵による監禁、強制労働、殺りくなのである。


しかしながら、サンフランシスコ講和条約で、
日本は東京裁判の結果を受け入れた。


稲田氏は、その結果受け入れ事態に
異議は唱えないとしている。
しかし、前述の事後法の問題含め、
検討が必要だとして組織を立ち上げる。


東京裁判の矛盾を検証すること自体に、
筆者も異議はない。


しかし東京裁判は、太平洋戦争休戦中の出来事である以上、
太平洋戦争が起きた背景にまでさかのぼり、
「日本人の手で責任者に対する
所在を明らかにすること」までしないと、
中途半端になってしまう。


稲田氏や主張を一にする人たちにとってみれば、
戦争勃発の背景まで明らかになることは、
日本の正当性が揺らぐ危険性から、
手をつけたくない、という気持ちもあるのかもしれない。


しかし戦争は為政者が決めて始めたことである。
そこから眼をそむけては、東京裁判の非妥当性の指摘に、
正当性は、到底与えられない。


二度と戦争を起こさない、という理論武装をするなら、
起こした側の徹底検証が必要ではないか。

フランスで起きた同時テロは、
厳戒下で行われただけに、世界中に衝撃を与えた。


事件から半日経っても、全容が見えてこない。


フランス政府は、過激派組織「IS(通称:イスラム国)」の
犯行だと発表した。
そしてフランス人が犯人グループにいるとも。


これは、テロリストが外から入ってくるのではなく、
中にいて計画を進めて来たということである。


日本に置き換えてみれば、「島国だから大丈夫。」
という論理は通用しない、ということだ。


もっともこの論理も、同じ島国でテロが頻発していた
英国を見れば、そもそも通用しないのだか。


ISは、PRが非常に得意だ。
今回のテロも、13日の金曜日という、
キリスト教にとっては忌み嫌うめぐりあわせの上に、
トルコでG20サミットが開かれる直前という、
彼にとっては、まさに「好機」だった。


イスラム国の分派が、バングラデシュで
日本人を「有志連合の協力者」という理由で殺害したのは、
つい最近のことだ。


それも日本人が標的になったのは、今に始まったことではない。
昨年も2人殺害されている。


ISではなくとも、イラク戦争のさなかに、
日本人が拉致された事件が複数あり、
殺害されたケースもあった。


既に日本はターゲットなのだ。


ただこれまでは、国内ではまだ起きていない。
しかし、来年のサミット、5年後の東京五輪など、
ISがアピールできる格好の場は、日本にある。


それに日本国内で日本赤軍など、テロは数多く起きている。
それを知っている世代が少なくなってきているから、
「日本は安全」と思いこみたくなる。
自爆テロの発祥が、一説には日本であることも。


来年のサミットに向け、会場ではない都内を中心に、
また多くの警備が出てくるであろう。


とはいえ限界はある。


ISは効果的に狙ってくる。
自分なりに情報を分析して、例えばサミットの時は、
都内で人の集まる場所にはいかない、などと備えも
場合によっては必要になってくるのかもしれない。

民主党など野党が求めていた臨時国会の開催を、
安倍首相は無視している。


憲法第53条後段には、
「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、
内閣は、その召集を決定しなければならない。 」
とある。


これを安倍首相は「開催時期は書いておらず内閣が決められる。」
と、どうみても導き出せない解釈をしている。


外交日程や予算編成などの言い訳をして、
通常国会にしようとしているが、
前述の無理な解釈に則ったとしても、
このまま通常国会になったら、明確な憲法違反である。


安倍首相は、今の憲法を、
外国から押し付けられた憲法として、
改憲を試みようとしている。


しかし今ある憲法を順守せねばならないことに変わりなく、
もしそうでないとしたら、その憲法の下にある法律も無視できてしまう。


すなわち無法治国家である。


もっといえば、憲法の規定に則って内閣総理大臣になっている、
自分の存在を否定することに繋がる。


ルールを守れない首相に、憲法改正を発議する資格があるのか、
答えは明白である。


それを問題にしない我が国の風潮も、
近隣のことを笑うことはできない。


国民は、もっと民主主義を守るために、
考えを変えなければならない、と思うのは、
筆者だけであろうか。

日本共産党が、国民連合政府として、
民主党などとの連立政権樹立案を具体化させている。


志位委員長は、国民が本気で共産党に政権を
与えるとでも思っているのか、であれば噴飯ものである。


同党の政策は、行きつくところは、旧ソ連である。
そんな国家、誰が望むか。共産党員でさえ多数ではないはずだ。


共産党の存在価値は、旧社会党が中途半端にしていた
保守の自民党が、政権に長らくいることによる
権力の腐敗にブレーキをかける様々な活動にあったはずだ。


それこそ、かつてのキャッチフレーズ
「確かな野党」であるから、これからもそうであろうと
国民の期待があるから、このところの地方議会議席増だったはずだ。


それが、本気で我が国を共産主義国家にしようなどと画策したら、
国民の支持は一気に離れていく。


相変わらず非公開の党大会、
同じ人間がトップに居続ける半独裁、
かつては、平和の理念と無人する武装闘争まで掲げていた。


そんな党に誰が政権など託すだろうか。


資本主義・自由主義国家の我が国で、
共産党が存在価値を示せるのは、国家権力の暴走阻止である。
公権力の犠牲になった人たちを救うことである。


間違っても政権をとろうなどとは、夢にも思わないことだ。

中国の習近平国家主席が、米国に続き、英国を訪問した。


英国内の原子力発電や高速鉄道の約束を取り付けるなど、
表向きは、米国の時とは違い、成功に見える。


しかし良くその内容をみると、実は中身がないだけでなく、
それに気づかない?中国政府の応対が露呈された。


まず原子力発電だが、建設に向けて前進しただけで、
稼働するかどうかは、分からない。


この点英国のメディアは、
「中国に遠隔操作されたら安全保障が脅かされる。」
とかなり批判的だ。この批判も織り込み済みだろう。


鉄道に関しては、検討するとなっただけで、
具体的な話は何も前進していない。


中国には残念だが、英国では日立製作所の車両の評判が良く、
高速鉄道は当該車両で十分賄えるという。


国境を超える高速鉄道は、ユーロスターが既に通っている。
既に中国が入る余地はない。


それだけならまだ良い。


エリザベス女王主催の晩さん会では、
チャールズ皇太子が欠席した。


我が国の皇室と違い、英国王室は、
国家の行事には女王に
一定の差配権がある。


どの行事に誰が出席するか、
女王の意向が反映されるということである。


自分の後継者である皇太子を出席させなかった、
これが何を意味するか。


もともとチャールズ皇太子は、中国の人権状況に
批判的な考えを示していた、という。


ということは、女王が皇太子の欠席を認めた、とも言える。


つまり「未来も、英国は中国の人権状況を認めない。」
とエリザベス女王の意思を表した、ということである。


にもかかわらず、中国政府の報道官は、
それに対して批判的どころか、一定の理解さえ示している。


我が国に対する対応とは180度違う。


そこまでなめられているのに、習主席は、
当の晩さん会で、日本の軍国主義を批判した。


かつての英国は、現在の天皇陛下訪中の時にみられたように、
先の大戦での記憶を引きずり、決して親日ではなかった。


しかし2002年の日韓ワールドカップで、
英国人サポーターが、大歓迎されたことが本国に伝わり、
日本に対する見方がガラッと変わった。


当時、英国人が国外でサッカー観戦しようものなら、
フーリガンと疑われ、身体検査はそれはもう厳しいものだ。
街中でも決して歓迎されない。暴れると恐れられるからだ。


もちろん英国政府も、
そのような輩は極力外に出さないようにしている。


そのような状況で、英国が勝利した時は、
日本人サポーターが英国人に駆け寄り肩を抱き合って喜んだ。
英国人にしてみれば、まさにコペルニクス的展開とも言えよう。


これを機に一気に親日の方に向かったのである。


直近では習訪英の直前に開幕したラグビーワールドカップで、
日本が南アフリカを破り、英国市民に絶賛された。
そのほめっぷりは、日本人の筆者が恥ずかしくなるくらいである。


習主席から見れば、同じ大日本帝国の被害者の連帯を
強調したかったのだろうが、いつの時代のことを言っているのか。
晩さん会でのその発言が、英国で光を浴びることはなかった。


もっといえば英国は、1997年まで香港を租借していた。
租借と言うが、実態は99年にわたる時限占領であった。


その99年前は、英国を含む欧州列強が、
中国を事実上分割支配していた。
英国はその手段として、アヘンを蔓延させた。


その意味で本当なら、英国も日本に次ぐ
憎き相手になってもおかしくない。


しかし皇太子欠席の非礼を受けても、上述の反応だ。
英国にしてみれば、ここまでしてもおとなしいことに、
中国を余計に舐めることになってしまうのではないだろうか。


中国は、米国との関係でも難しいかじ取りを迫られている。
日本から見れば脅威に見えるが、中国から見る日本は、
米国並みに脅威に見えることは、想像に難くない。


利害が直接ぶつかるから日米とは批判の応酬になるが、
英国とは今のところ利害がぶつかることはない。
それも中国が激しくなることはない理由でもある。


米国には冷遇され、英国にはバカにされ、
本当に頼れる国はどこなのか、
習政権は、1992年の周辺国との関係を検証し、
当時それに失敗した江沢民政権時代を検証した方が良い。

安倍首相の経済政策、いわゆるアベノミクスは、
第2段階に入り新しい3本の矢を放つ、と宣言した。


その3本の矢の内容が、抽象的かつ長期的で、
安倍首相の自民党総裁としての任期より長く、
結果評価が出来ない。


その前に、第1段階の3本の矢の結果評価はどうだろうか。
それを検証せずに、第2段階に行くのには首をかしげる。


消費者物価指数は、消費税が上がったにもかかわらず、
前年比を割り込む状況だ。デフレの脱却には程遠い。


有効求人倍率こそ上がっているが、
正社員は1倍を割り込んだままだ。


企業の業績は上がっているが、外需頼みで、
中国経済の減速からそれも心もとない。


そして残ったのは借金の増加だけである。


これらを見る限り、アベノミクス第1段階は失敗のように思える。
しかし見方を変えれば、「これだけのマイナスでとどまった。」
とも言える。企業の業績が上がったのは事実だからだ。


ではなぜそれにとどまっているのか。


日本経済・社会がバブルを機に成熟し、同時に少子高齢化が進行し、
これまでの右肩上がりの経済成長は望めなくなった。


日本の経済成長は、夫が働き妻が家庭を守り、
少ないお年寄りの介護は妻が家庭の中で行っていた。


しかし正規雇用が減り夫の収入だけでは生活を維持できず、
妻も働きに出る。お年寄りは増えて社会保障費は増大する。
まだまだ働ける元気なお年寄りも増えている。


しかし、厚生年金のモデル過程は、
サラリーマンの夫、専業主婦の妻、子ども二人だ。
そんな家庭は、もはや多数ではない。


介護政策も、基本在宅で「お嫁さんが世話する」
ことを前提としている。託児所も増えない。
これでは女性が働きに出られず、収入が増えない、
消費も増えない、企業はますます外需頼みになる。


女性も高齢者もみんなが働けるようにしなければならないのに。


これを縛っている規範意識の1つの表れが、
自民党の憲法改正案だ。


現憲法が、「個人」を基本としているのに対し、
同党の改正案は「家族」だ。
そして、国家は個人に優先する。


詳説は他のサイトに譲るが、
家庭内での役割分担を明確にしてしまったら、
女性の社会的進出はますますおぼつかず、
結果、男性の精神的負担がましてしまう。


現行の政策でも、第3子から援助、など、
手厚いとはいえないものばかりだ。


この点、同党の小泉進次郎衆院議員も指摘している。
第1子からの援助でないと意味がない、
若者が結婚しやすい環境にしないといけない、と。


アベノミクスは機会の平等を基本としている。
(実際中身がそうなっているかは別にして。)
しかし、女性や高齢者が働きに出られなければ、
機会の平等すら提供されない。


みんなが働きに出られて、
初めてアベノミクスは効果を発揮する。
直接的な経済政策だけでなく、労働法制や福祉政策など、
制度から変えていかなければ、

結局残るのは、格差と借金だけになり、
停滞・衰退する社会になってしまう。


自民党の議員は、教条主義的家族基本価値観から、
一刻も早く脱却しなければ、自らの支持基盤が
音を立てて崩れることに気づかなければならない。

菅官房長官が、テレビのニュース番組で、
俳優の福山雅治氏と女優の吹石一恵氏の結婚について
感想を聞かれた際、


”子供を産んで国家に貢献してほしい”旨の発言をし、
個人の生き方に口を挟む者と批判を受けた。


個人の生き方に国家が口を挟むとして批判を受けたが、
この発言で、もう1つ問題なのは、「国家に貢献」の部分だ。


「国家」とは何を指すか見解は分かれるが、
統治機構または民主主義ではそれを選ぶ
国民全体であることに収斂する。


どちらにしても、国全体を指すことに異論はないだろう。


その統治機構の中枢にいる菅氏が、
「国家に貢献」ということは、
「統治機構への貢献」を指していると言われても抗弁できまい。


国民あっての統治機構である。
統治機構が国民に貢献することは第一の使命であるが、
国民が統治機構に貢献するなど本末転倒である。


簡易に言えば
「菅さん、何であんたに貢献しなければならないのか。」
ということである。


国民に貢献すべき統治機構の人間が、
「自分に貢献しろ」と言ったことになるのである。


かねてより、自民党の憲法改正案を見る限り、
それこそ「国民に国家への貢献」を義務付ける条項が並んでいる。


政治がやりたい放題でも国民は文句を言うな、ということである。
これは戦前の「国家総動員法」に代表される、
「戦前レジューム」のそのものである。


安倍首相はかねてより「戦後レジュームの脱却」を唱えてきた。
その女房役である菅氏が「戦前レジュームへの回帰」とも
捉えられかねない発言をするということは、


憲法改正案とも相俟って、
「本当に戦前レジュームへの回帰をもくろんでいるのでは、
との疑念を抱かざるを得ない。


本当に、日本を美しい国として取り戻したいなら、
先の大戦で日本を壊滅に追いやった戦前レジュームは
絶対にできないはずだ。


安倍首相以下自民党の政治家には、
そのことをしっかりと肝に銘じてもらわないと、
来年の参院選で、2007年の悪夢を招きかねない。


それこそ自民党にとって「恐怖」なのだから。