後藤象二郎
幕末から明治にかけて活躍した土佐藩出身の政治家、後藤象二郎は、藩の大目付として藩政改革に取り組む叔父の吉田東洋により、幡多郡奉行や土佐藩大坂藩邸建築のための普請奉行に抜擢されている。
しかし、文久2年(1862)に東洋が藩内尊王攘夷派の土佐勤皇党に暗殺されると、失脚して江戸で学問を学ぶなどして過ごしている。
元治元年(1864)藩政に復帰した象二郎は、前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て、大監察や参政に就いて公武合体派の急先鋒として活躍。
この頃、京では「八月十八日の政変」と呼ばれるクーデターにより、長州藩を中心とする尊王攘夷派が追放され政局は一変していた。
そのため、藩政を支配していた土佐勤皇党は弾圧され、リーダーの武市瑞山には切腹の処分が下される。
象二郎は藩の財政改革にも取り組み、その一環として海外貿易を模索し長崎や上海を訪れ、そこで土佐藩脱藩浪士で薩長同盟の立役者・坂本龍馬と会談している。
尊王攘夷派を弾圧した象二郎であったが、世の中は薩長同盟により再び尊皇攘夷へと傾き、土佐藩は世間の流れから取り残されていく。
象二郎は以前、吉田東洋を暗殺犯したのは龍馬ではないかと疑っていた時期があり、元土佐勤皇党の龍馬も盟友の武市瑞山を殺されたという遺恨があったが、大局のために二人は手を結び、龍馬の率いる商社「亀山社中」は土佐藩の資金援助を得て「海援隊」として活動していく。
そして龍馬の発案である「船中八策」をもとに象二郎は山内容堂へ「大政奉還」を進言し、歴史を大きく動かし明治維新の立役者となっていく。
しかし、明治以降、象二郎は逓信大臣や農商務大臣などを歴任したものの目立った活躍はしていない。
また、「大政奉還」など維新にまつわる話しについて色々聞かれても話をはぐらかし、自らの功績を積極的に語ることはなかった。
象二郎は山内容堂へ「大政奉還」を進言した際に、発案者の坂本龍馬の名を告げず手柄を横取りしたと、その功績を低く評価する人もいるが、発案者が郷士の龍馬であると容堂公が聞いたら聞く耳を持たず却下される可能性があり黙っていたと言う説もある。
そして明治以降も目立った活躍はしていないが、派閥争いや自由民権運動の高まりで政局が混乱する中で事態を収拾できるのは後藤象二郎しかいないと高く評価する人々も多くいた。
墓(表側)
墓(裏側)
象二郎は囲碁愛好家であり、明治以降設立された方円社を支援している。方円社と家元が深刻な対立状態にあった時期には象二郎が双方の仲介を行い、その結果、本因坊秀栄は方円社社長の村瀬秀甫へ家督を譲り、十八世本因坊秀甫が誕生している。
明治30年、象二郎は心臓病により亡くなり青山霊園に葬られている。享年60歳。
墓所:東京都港区南青山 青山霊園 1-イ13-24