国手 王積薪 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 囲碁好きで知られた唐の玄宗皇帝は、開元初年(713)に囲碁をもって皇帝に仕える棋待詔という制度を設けているが、その中の一人、王積薪は国手と称され讃えられている。
 一説には囲碁の心得を説いた「囲碁十訣」の作者とも言われているが、これには異説もありはっきりしていない。

 王積薪は、唐の玄宗の時代に農家で生まれ、早くに父母を亡くし山に入り柴刈りで働いていたという。このとき山中の寺院で僧侶達が碁に興じているのを見て碁を覚え、やがて僧侶達を上回る実力になったという。
 その後、旅に出て腕を磨き、やがて玄宗に招かれ棋待詔として仕えている。

 755年に安禄山が起こした「安史の乱」で、玄宗皇帝は蜀を目指して長安を脱出、このとき同行した王積薪の逸話が『集異記』(薛用弱著、岩波文庫)に掲載されている。
 蜀の道路は大変狭く、旅の一行が宿泊するたびに道中の郵亭と民家の大部分が高官や権勢のある人々によって占拠された。
 泊るところがなかった王積薪は、谷川に沿って奥深く入り、山の中の老婆の住む家に宿泊した。そこは、嫁と姑の二人暮らしで、暗くなると二人は東と西の部屋に分れ戸をしめきり就寝した。
 積薪は、水と燈火を分けてもらい軒下に泊ったが、夜更けになっても寝つけずにいると、ふと、屋内で姑が嫁に話しかけている声が聞こえてきた。
 「あなたと碁をうちたいけど、いいかしら?」 と姑がいうと嫁が了承。
 しかし、戸が開く気配はなく、不思議に思った積薪が戸に耳をつけていると、まもなく、嫁の言葉が聞こえてきた。
「東から五、南から九に石を置きます」、これに姑が応じて「東から五、南から十二に石を置くよ」
 こうして、声だけで対局は続いていった。積薪は一つ一つ細かに覚えていったが三十六着目に突然、姑が「あなたの敗けだよ。わたしは九目勝っただけ」といって嫁も敗けを認めた。
 やがて夜が明け、衣冠を整えた積薪が老婆に碁のことについて教えを請うと、「ご自分の考えたとおりに碁盤の上に石を置いてごらんなさい」と言われ、積薪は布の袋から碁盤を取り出し平素の秘術をつくして布石をした。
 すると十数着も打たないうちに、老婆は、「この方には普通の方法を教えてあげてよいよ」と嫁に指示し、積薪は嫁から攻守・殺奪・救応・防禦の方法を教示される。その内容は非常に簡略であったため、さらに碁の打ち方の解説を求めると、老婆は笑いながら「これだけでも人間の世界では無敵です」と言ったという。
 積薪は、礼を述べて出立したが、十数歩行ったところで再び戻ろうと引き返したところ、それまであった屋敷はなくなっていた。それからは、積薪の技はまったく比類のないものになったという。
 積薪は、記憶を頼りに嫁と姑が対局したときの形勢を並べ、ありったけの智恵を絞り九目勝ちになる手順を調べたが、結局判らなかった。その棋譜は「鄧艾開蜀の陣」(鄧艾は三国魏の将軍、奇策で蜀の都を陥落させた)と名付けられ伝えられていくが、九目の勝ちになる手筋を誰も解くことはできなかったという。

 いわゆる目隠し碁は今でもプロ棋士がイベントなどで行う事があり、アマチュアでも一定の棋力になれば盤に石を並べず言葉だけで検討する事がある。それは頭の中に碁盤があり、それにより会話が成り立っているからである。
 プロでも上位に行けばいくほど碁盤が鮮明になってくると言われ、よく強くなるにはどうしたらいいかという質問に対し、詰碁の勉強が良いと答える人が多いのは、詰碁で手を頭の中で読むことにより、頭の中の碁盤をより鮮明にできるからとも言われている。
 ところでこの話では石を置く位置を東西南北で示している。これは碁は天文と絡んでいると言われていることから、その名残と考えられる。現代のように横縦を数字で示すようになったのは後の宋の時代からである。

 この他、王積薪には竜が口から数冊の棋書を出し自分に贈ってくれた夢を見て急激に棋力を伸ばしたという伝説もある。
 まるで、王積薪は才能の固まりで、天才的に強くなったように見えるが、実は大変な努力家であったと言われ、外出するときにはいつでも碁が打てるように携帯用の盤石を手放さなかったという。碁盤は木の盤ではなく紙に線を引いたもので、碁石といっしょに竹の筒に入れ、馬のたてがみと馬車の前部の棒のあいだに吊るしていたという。