楊貴妃 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 第9代皇帝玄宗は「開元の治」と称される善政により唐を絶頂期に導いたものの、晩年は寵愛する楊貴妃の魅力に溺れて国政を顧みることがなく、「安史の乱」で退位し、半ば軟禁状態の余生を送っている。
 安史の乱を引き起こしたとして「傾国の美女」とも呼ばれている楊貴妃には、囲碁が絡んだ玄宗皇帝との逸話が残されている。

【楊貴妃の生涯】
 楊貴妃は719年、蜀の国(現在の四川省)の地方役人の家に生まれる。もともとの名は楊玉環。貴妃は皇帝の側室の中で皇后に次ぐ高位の者に与えられた封号である。
 幼いころに両親を失い叔父の家で育てられた楊貴妃は、開元23年(735)に玄宗の第十八子である寿王李瑁の妃となるが、玄宗に見初められて一旦、女道士(女冠)となった後に天宝4載(745年)に貴妃として迎えられる。これにともない楊一族は権勢を振るい屋敷には贈り物を届ける使者が並ぶ状態だったと伝えられている。なお、後に安史の乱を起こす軍人の安禄山も楊貴妃の兄弟姉妹と義兄弟となり取り入っている。
 容貌が美しく、利発で音楽・楽曲・歌舞にも優れていた楊貴妃を玄宗は寵愛し、二人は政治を顧みず、長安から離れた驪山(りざん)の温泉に入り浸るようになったという。
 楊貴妃の又従兄にあたる楊国忠は宰相まで登り詰め権勢を振るうが、外征に失敗して大勢の死者を出したことで人々の恨みを買うこととなる。特に野心あふれる安禄山との対立は深刻で、755年に安禄山が反乱(安史の乱)を起こし洛陽が陥落。玄宗は首都長安を抜け出し蜀への脱出を決断する。
 しかし、その道中に乱の原因となった楊国忠は兵士たちにより殺害され、さらに楊貴妃を殺害するよう玄宗に要求してきた。玄宗は当初、貴妃は楊国忠の謀反とは関係がないとかばったが、重臣の進言によりやむなく了承し、楊貴妃は宦官によって絞め殺されている。
 玄宗と楊貴妃の悲劇は、後に白居易(白楽天)の『長恨歌』にうたわれ広く知られるようになる。平安時代の日本にも伝えられ貴族たちに愛読されていた。
 その後、皇太子の李亨(粛宗)が皇位継承を宣言し、太上皇となった玄宗は長安で半ば軟禁状態の余生を送り、762年に崩御している。
 楊貴妃は古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)、あるいは日本では世界三大美人(クレオパトラ・楊貴妃・小野小町)と称されている。 
 また、傾国の美女とも呼ばれているが、生前に彼女を非難する声はほとんどなかったという。政治に介入することもなく、妃同士の争いも無かったためで、あるとすれば玄宗や楊国忠との連帯責任ぐらいだろう。
 もともと実像が良く分からない人物なので、後の時代に色々脚色されて悪女というイメージが形作られていったのかもしれない。

【囲碁の逸話】
 玄宗皇帝が、ある夏の日、親王と碁を打っていたときのことである。高名な音楽家の賀懐智に琵琶の独奏をさせ、貴妃は局前に立って観戦をしていた。
 帝が碁石をかぞえて負けそうになると、貴妃は、康国(サマルカンド)産の小犬を座席の側で放した。小犬は碁盤にあがり、盤面をめちゃめちゃにしてしまったから、帝は大変喜んだという。
 この様なはなしが伝えられている。この逸話の解釈として犬が盤面を荒らしても放っておくほど貴妃はわがままであったという人もいるが、利発と言われた貴妃のことだから、帝が負けて機嫌を損ねる前に手を打ったとみるのが自然ではないだろうか。そもそも、わがままであれば、じっと盤面を鑑賞していられるはずがない。とすれば、見ていて勝敗が判断できるほど囲碁も打てたとも考えられる。