唐九代皇帝 玄宗 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

玄宗(歴代君臣圖像)

 

【玄宗皇帝の生涯】
 唐を絶頂期に導いた第9代皇帝玄宗は囲碁好きで知られ、その代に碁は盛んとなる。
 玄宗は第5代皇帝睿宗の三男として685年に洛陽で生まれる。諱は隆基。
 隆基(玄宗)が幼少の頃は祖母の武則天が中国史上唯一の女帝となり、国号が唐から周(武周)へと変わっていた。
 二代皇帝太宗の側室であった武則天は、太宗崩御により出家していたが、三代高宗の側室として再び迎えられ皇后にまで登り詰める。
 高宗に代わり垂簾政治を行い、敵対する貴族を排除して貴族以外でも有能な人材を積極的に登用していった。
 そして太宗が亡くなると息子の李顕(中宗)を即位させるが中宗が皇后韋氏の一族を重用したためこれを廃し、弟の李旦(睿宗)を即位させるなど権力を維持し続け、690年には自ら帝位に就き、国号を「周」とする。
 武則天の治世になっても高宗時代から彼女が重用した有能な人材により政権基盤は盤石であったが、晩年、武則天が病がちになると唐復活の機運が高まっていき、705年に武則天は退位して中宗が復位。国号も唐に戻されている。
 706年に武則天が亡くなると、中宗皇帝は絶大に信頼する韋皇后を国政にも参加させているが、韋皇后は武則天に倣い自ら帝位に就くことを目論み中宗を毒殺。皇太子の李重俊ではなく末弟の李重茂(殤帝)を即位させ、後に自分に攘夷させようと企てた。
 ここで立ち上ったのが隆基である。隆基の従兄である皇太子李重俊がクーデターに失敗したのを見ると、隆基は叔母の太平公主と協力して慎重に計画を立て、710年に韋皇后およびその一派を粛清。廃位されていた父の睿宗を復位させることに成功。そして、隆基はその功績により皇太子に立てられた。
 そして、712年に睿宗から譲位され第9代皇帝に即位する。
 玄宗の治世の前半は「開元の治」と称され、唐の絶頂期を迎えている。玄宗は綱紀の粛正、農業振興、辺境の防備などに積極的に取り組むが、これら政策を実行したのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相であった。唐は北方の外敵を征服するなど平和を維持し、経済・文化が発展するなど繁栄していく。
 しかし、玄宗が評価されているのは前半の治世までである。太平の世が続くと玄宗は側室の楊貴妃を寵愛し徐々に国政を顧みなくなっていく。
 そして、政治の実権を握った楊貴妃の親族楊国忠と軍人の安禄山の間で権力争いが激化し、楊国忠が玄宗へ讒言したことに危機感を抱いた安禄山が、ついに叛乱を起こす。(安史の乱)
 叛乱軍が長安に迫ると、玄宗は蜀の地をめざして逃亡。随従する兵士の不満が高まり楊国忠と楊貴妃は処刑されている。
 混乱のなか、756年に皇太子の李亨(粛宗)が皇位継承を宣言し、玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。
 譲位後、太上皇となった玄宗は長安で半ば軟禁状態の余生を送り、762年に崩御している。

【囲碁の逸話】
 囲碁好きであった玄宗は棋待詔という皇帝直属の制度を設けている。「待詔」は学芸の能で天子に近侍する官人のことで、囲碁をもって仕える棋待詔は開元初年(713)に設けられている。棋待詔として国手と呼ばれた王積薪や、顧師言、王倚、滑能、朴球などが召抱えられている。
 738年、新羅の第33 代聖徳王が亡くなり、玄宗は弔問の使節を派遣する。このとき新羅は東方君子の国と聞いているとし碁の強い人物も多いだろうと、近衛兵一の打ち手・楊李鷹を副使節として同行させている。親善対局では新羅の強豪も楊には歯が立たなかったという。

 また好棋家であった王鉷は文才をもって玄宗に取り入り出世するが、性格が陰険で奸佞の人であった。そして弟の罪に連座して死を賜ったとある。
 玄宗と日本人との逸話も残されている。玄宗が即位する前の702年に日本から遣唐使としてやってきた僧侶・弁正がいた。弁正は囲碁を通じて玄宗と親しくなり、そのまま唐に仕え生涯を閉じる。唐で生まれ日本に帰った息子の秦朝元は、やがて遣唐使の一員として唐を訪れるが、その際、玄宗は手厚くもてなしたと言う。弁正については改めて詳しく紹介する。