JR市ヶ谷駅

 

囲碁モザイクアート

 

説明板

 

 日本棋院東京本院の最寄駅であるJR市ヶ谷駅の構内には「長生の図」の囲碁モザイクアートが設置されている。
 2010年に安全対策で床を防滑素材に張り替えた際に、日本棋院の提案を受けて設置されたものである。
 「長生」とは同手順を繰り返すことにより永遠に石が死ぬことのない珍しい形で、長寿を連想させる縁起のいいものとされている。モザイクアートは名人井上因碩が著した『発陽論』からのものであり、説明版も設置されている。
 

【住所】

 

 京都伏見区にあった伏見城は豊臣秀吉や徳川家康ゆかりの城で、囲碁との関わりも多い。
 伏見城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために築城されている。
 当初、文禄元年(1592)に伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設されたが完成直後に慶長伏見地震によって倒壊。そのため、指月から北東に約1kmほど離れた木幡山に再建される。
 慶長2年(1597)に新しい城が完成したが、秀吉はその1年後に城内で亡くなる。
 秀吉の死後、遺言により豊臣秀頼は大坂城へ移り、伏見城へは五大老筆頭の徳川家康が入って政務を行っている。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、西軍の攻撃により落城し、建物の大半が焼失した。
 その後、慶長7年(1602)頃に家康によって再建され、慶長8年(1603)には、伏見城において家康が征夷大将軍の宣下を受けている。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われた。
 やがて家康は駿府城へ移り、将軍の京都での居城は二条城へと一本化されたことから、伏見城は元和5年(1619)に廃城となる。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。
 伏見城跡は江戸時代には桃の木が植えられたことから桃山と呼ばれるようになり、伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも称されるようになった。織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代が「安土桃山時代」と呼ばれているのもここからきている。

 

伏見桃山陵の看板

 

陵へ上がる石段

 

 小高い山の上にある現在の伏見桃山陵(明治天皇陵)が伏見城の本丸の跡である。そのため、発掘調査が出来ず、城の詳細は分かっていない。
 明治天皇は急死した父親の孝明天皇の跡を継いで15歳で第122代天皇に即位。尊王攘夷運動が高まる幕末において、幕府に理解のあった孝明天皇が亡くなったことで朝廷内は討幕派が優勢となり、将軍・徳川慶喜は慶応3年10月15日(1867年11月10日)に大政を奉還、そして「王政復古の大号令」により新政府が樹立され、年号が明治と改められる。そして、天皇は東京の皇居に移られ、日本は急速に近代化の道を進んでいく。
 明治天皇は明治45年(1912)7月に、61歳(満59歳)で崩御。同年(大正元年)9月13日に現在の神宮外苑にて「大喪の礼」が行われた後、柩は列車で伏見桃山陵へ運ばれ、9月14日に埋葬されている。
 豊臣秀吉が亡くなった場所であり、徳川家康が天下取りを見据えていた場所でもある伏見城跡に、武家政治に終止符を打った明治天皇が眠っているのも感慨深いものである。

 

伏見桃山陵

 

陵墓

 

 伏見城は囲碁界にとってもゆかり深い場所である。京都の龍源院に展示されている「四季草木蒔絵碁盤・碁笥」は徳川家康と豊臣秀吉が伏見城内で対局した時に使用された物と伝えられ、碁笥には、それぞれ桐と葵の御紋が施されている。
 囲碁好きの家康は、秀吉が存命中も伏見の宿館に算砂らを招き碁会を行ったという記録が残されているが、それは城に入ってからも変わらず、たびたび碁打ちが召し出されている。慶長10年(1605)には、家康と秀忠が城で碁会を開催し、本因坊算砂と門下13名や、利玄、六蔵らも参加したと記録されている。

 

伏見桃山城運動公園 正門

 

模擬天守閣

 

 伏見桃山陵の少し北側に、現在鉄筋コンクリート造の伏見桃山城の模擬天守閣がある。昭和39年(1964)に伏見城花畑跡にオープンした遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして建設されたもので、平成15年に遊園地が閉園された際に解体される予定であったが、地元の要望で寄付され、「伏見桃山城運動公園」として整備された。耐震基準を満たさないため中に入る事はできないが、外観だけでも見ごたえがある。

 また、近くには平安京(京都)へ遷都したことで知られる桓武天皇の陵(柏原陵)があるなど、このあたりはまさに歴史の宝庫である。

 

【住所】

 

 

深谷駅北口

 

渋沢栄一像

 

 明治以降の囲碁界の有力支援者であった渋沢栄一の故郷、深谷市にあるJR高崎線の深谷駅は、レンガを用いた東京駅そっくりな駅舎で知られている。
 耐火性に優れたレンガ造の建物は明治初期には需要も少なく、レンガは国内では当初、瓦職人や大工・左官職人の手によって生産および建築が行われていた。しかし、明治4年(1872)に発生した銀座や丸の内一帯を焼き尽くす大火をきっかけに銀座煉瓦街が形成されると、レンガの需要が逼迫。そこで渋沢栄一が目を付けたのが故郷の深谷。良質な粘土が採れ、古くから瓦の生産地として知られていた深谷に、明治20年(1887)に日本初の機械式レンガ工場「日本煉瓦製造会社」を設立する。
 三菱一号館から始まる丸の内レンガ建築群の仕上げとして、大正3年(1914)に開業した東京駅には約927万個のレンガが使用されているが、そのうち約833万個が日本煉瓦製造が生産したレンガだという。
 深谷駅の駅舎は平成8年(1996)に改築されているが、この時、レンガの街・深谷のシンボルとして東京駅を模したデザインとなった。なお、レンガはタイル貼りだそうだ。
 駅北口前にある青淵広場には和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っている。

 

【囲碁史人名録】 渋沢栄一

【住所】