一二峠御廟入口

 

 兵庫県美方郡香美町村岡区と美方郡香美町小代区を結ぶ県道89号にある一二峠(ほいとうげ)には、但馬国七美郡6700石を領した寄合交代旗本・山名氏の祖である山名豊国の供養塔「一二峠御廟」がある。豊国は、徳川家康が幕府を開く前に度々開催していた碁会の主要参加者の一人である。

 元因幡国守護職(鳥取城主)であった豊国公は、勢力を拡大する織田信長と中国地方の覇者・毛利氏が対立する中、織田方に就くことを決断するが、毛利方へ就くことを主張する家臣により城を追放される。その後、秀吉からの誘いを断り浪人となるが、やがて、秀吉に近侍し、天正20年(1592)には、朝鮮出兵にともなう九州肥前名護屋城への同行を命じられている。この時期に徳川家康からも知遇を得たと伝えられ、秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原の戦いでの功績により領地を与えられた。山名氏は新田源氏の庶流である名門で、豊国も和歌・連歌・茶湯・囲碁・将棋などに精通していた。山名氏は知行こそ1万石に満たないが、参勤交代を行い、大名と同じ待遇を受けた寄合交代旗本という身分であり、幕末まで続いていく。名門として囲碁などを嗜む文化人としての家風が継承されていったのか、囲碁史においても度々、山名氏の名を見ることができる。

 

 

一二峠御廟


 豊国は、寛永3年(1626)に死去。享年79歳。山名氏の菩提寺は京都の東林院であったが、寛永19年(1642)に村岡山名家三代目の矩豊により領地に「一二峠御廟」が建立された。一二峠は他領との境界にあり、領地を守護してほしいという思いがあったのかもしれない。

 廟の管理は、村岡における村岡山名氏の菩提寺・法雲寺が行っている。

 

墓標の五輪塔

 

 一二峠にある墓標の五輪塔には、「二の字の毛虫除けに効く」という俗信から、削って持ち帰る人が後を絶たず、現在のような姿になったという。

 

 

 

【囲碁史人名録】 山名入道禅高(山名豊国)

 

 

 本因坊歴代が眠る巣鴨の本妙寺は、寛永十三年(1636)から明治四一年(1908)に現在地へ移るまでの間、本郷丸山(文京区本郷5丁目)にあり、「丸山様」とも称されていた。

 明暦3年(1657)に発生し、江戸の大半を焼失した「明暦の大火」は、異説はあるものの本妙寺が火元と言われているが、それも本郷丸山時代のことである。
 もともと、本因坊家菩提寺は初代算砂が住職を務めた京都の寂光寺であったが、元禄15年(1702)に亡くなった四世道策が遺言により本妙寺の塔頭感應院に葬られたのを機に感應院が菩提寺となっている。
 そして、感應院は明治初期に廃寺となり、墓所は本妙寺へと引き継がれて現在に至る。

 

江戸切絵図に記された本妙寺

 

 江戸時代の切絵図にも本妙寺の場所は記されている。隣接する長泉寺は現在もこの地にあるため、そこから本妙寺境内の大まかな位置は推定することは出来る。しかし、切絵図には境内の様子は描かれていないため、感應院の場所まで特定することは出来なかった。

 本妙寺境内の本堂や塔頭の位置を知る資料としては、寺社奉行が各寺院境内の坪数を調査した「諸宗作事図帳」がある。その中には、当時の本妙寺の図面が掲載されていた。

 本妙寺の寺域は、境内4800坪(約15868㎡)と無年貢持添地247坪半(約818㎡)、間口は表(南)53間(約96m)、裏(北)49間半(約90m)、奥行は東側96間半、西側73間、塔頭12軒と記録されている。塔頭は惣門を潜ってすぐの所に建ち並んでいて、本妙寺本堂は塔頭群の奥にあった。寺域の東側から北側にかけては墓地が広がっていたようだ。
 境内には惣門から位牌土蔵へ向かう道と、西側に本堂へ向かう二つの道があり、文献によれば惣門側の道は表通り、もう一つは裏通りと呼ばれていたという。感應院の場所は「裏通東側北角」と記載されている。


 

本妙寺境内の図面

 

 現地を訪れるにあたり、寺域の正確な場所を特定しようと調査した結果、明治期に作成された本郷周辺の実測図がある事が分り、それをもとに現在の地図と照合した結果、本妙寺境内は現在の本郷5丁目の15から18番地である事が確認できた。

 

本妙寺境内の位置(本郷5丁目)

 

 早速、現地訪問を行った。

 文京区本郷二丁目の都営大江戸線「本郷三丁目駅」3番口から180m西の本郷小学校前交差点を右折したところにある下り坂は「本妙寺坂」と呼ばれている。坂下は菊坂と交差しているが、その先が本妙寺の入口でがあったのが由来であり、坂の途中には説明板も設置されていた。


本妙寺坂(文京区本郷4丁目)

 

本妙寺坂説明板

 

 本妙寺入口は、長さ二十一間(約38m)、幅五間(約9m)の石段、あるいは坂道で、両側に五尺二寸(約1.6m)の駒寄の柵あったという。

 

本妙寺入口跡の坂道

 

 坂上の現在本妙寺跡の説明板が設置されている辺りには、かつて惣門があった。そこから先が境内である。

 惣門は冠木門で、高さ九尺八寸(約3m)、幅一丈五寸(約3.15m)。両脇には門袖があり、門の右に門番所、沐浴所、馬立もあったという。馬立があるという事は、ここまで馬が登ってこれたのだろう。

 そして説明板より北側の道が、かつての表通りであり、惣門跡付近では道の両側に塔頭が建ち並んでいた。

 

惣門跡に設置された説明板(右)と、表通り跡

 

 説明板には「囲碁の本因坊歴代の墓所があった」と記述されていた。
 なお、合わせて説明されている「私立女子美術学校菊坂校舎跡」は、本妙寺が移転した直後の明治四十二年の建設で、表通東側の塔頭跡に建てられている。


本妙寺跡の説明板

 

 明治期の本妙寺の様子について、当時の本に次のように紹介されている。

 

 前なる小急坂と、菊坂道、一線を隔てヽ、對岸、高く樹木茂げれる所に、本妙寺あり、右なる門には、日蓮宗二派宗務所、左なる門には、長久會本部と、其柱に筆太に、標札を釘しぬ、門を入れば、境内頗る淸浄にして、閑淸なる所、本行院、東岳院、圓立院、妙雲院、本立院、圓行院、感應院、本蔵院、及び雅樂協會あり、天女の奏樂、妙音を、空林に響かして、庭上自ら塵なし、寺境を蟯れる俗家、亦往々學生棲家の段、朝夕咿唔の聲、梵唄と相和して、いとゆかし、此断崖、亦頗る眺望に富あり。

【最新東京案内記 春の巻(明治31年、東都沿革調査会)】
 

 「前なる小急坂」とは本妙寺坂の事である。本妙寺は惣門がある南側の境界が断崖となっていたようで眺望に富んでいたと記されている。実際に説明板の道向いの建物の隙間を覗いてみたところ、地面がかなり低い所にあり、ここがかつて断崖であった事を示していた。
 なお、東大が本郷へ移って来た影響で、本妙寺境内には下宿屋が建てられ、学生たちがこの辺りを行き交っていたという。


境内の境界である断崖跡の形跡(本妙寺跡説明板の道向かい)

 

 表通り跡である道路をしばらく歩くと、長泉寺入口の交差点の角に駐車場が見えてくる。

 先に紹介した本妙寺境内の位置を示した地図を見てもらえば分かるが、その駐車場の西側(長泉寺側)あたりに本妙寺の本堂があった。

 

本妙寺の本堂前

 

 交差点を曲がり、長泉寺側を臨むと、右手(北側)が本堂跡地となる。ちなみに道路沿いの左手(南側)は、本堂と塔頭群の間にあった「番神宮」の跡地と思われる。

 番神宮は、一ヶ月毎日交代で法華経の信者を守護するといわれる三十番神を祀る神社で、かつては法華経寺院の境内で祀られていた。

 

駐車場から長泉寺側を臨む。本堂は右側にあった。

 

 路地の突当りは長泉寺の東側の入口である。
 江戸時代より長泉寺は南側(菊坂側)に山門が設置されていたが、本妙寺が移転してからは東側にも入口が造られている。

 

長泉寺(文京区本郷5-6-1)の東側入口

 

 長泉寺東側入口から北側を見ると、右手(東側)は住宅街となっている。かつての本妙寺本堂裏側であるが、長泉寺の塀が境界線を示している以外は、当時の様子を偲ぶことは出来ない。

 

本堂の裏側付近、左は長泉寺の塀

 

 次に本因坊家菩提寺である感應院の跡地に行ってみた。
 『東京市史稿』市街篇第五巻(昭和三年)によると、感應院は本妙寺開山日慶上人の隠寮として創建された寺院だそうだ。日慶上人は元和六年(1620)没なので、早い段階から本妙寺の塔頭として存在していたことになる。
 「諸宗作事図帳」には感應院の図面も掲載されている。
 座敷は二間あるが、ここで本因坊家の法要や対局が行われたのだろうか。位牌蔵があるが、ここには歴代本因坊の位牌もあったのかもしれない。
 敷地は狭く墓地は確認出来ないため、歴代本因坊の墓所は本妙寺境内の東から北にかけて広がる墓地にあったと考えられる。

感應院の図面(諸宗作事図帳)

 

 感應院跡には現在マンションが建っていた。周りの道は、ほぼ塔頭群の区域に沿って作られているようだ。

 長泉寺側(左側)の道は、かつての裏通りである。
 

感應院跡 ライボハイム(本郷5丁目17―4)

 

 最後に、長泉寺の菊坂側の入口へ行ってみた。

 道幅は本妙寺より狭いが、菊坂から山門までの距離はほぼ同じで、石段もある事から、当時の本妙寺入口はこのような風景であったと思われる。

 

長泉寺入口

 

 今回は、江戸時代に本因坊家の菩提寺である本妙寺があった跡地を訪ねてみた。

 現在は住宅街となり、当時の痕跡は道の形状などごく僅かであるが、ここを歴代本因坊が訪れていたかと思うと感慨深いものがある。

 

 

 明治十二年四月二十日に発足した方円社は、神田区表神保町に事務所を置き、例会は神田花田町(秋葉原)の相生亭で行っていた。
 表神保町の方円社では、後に社長となる石井千治や、田村保寿(後の本因坊秀哉)が塾生として寝泊り。修行の日々を送っていたという。塾生以外では高橋杵三郎も住み込んでいた。

 また、社長の村瀬秀甫は、すぐ近くの小川町に住んでいて、そこから通っていたという。
 

明治時代の神田神保町

 

 方円社の機関誌「囲棋新報」には方円社の住所具は「神田区表神保町2番地」と記載されている。現在の神田神保町1丁目付近であり、靖国通りの「駿河台下交差点」から別れるすずらん商店街の南側付近であることは分かったが、2番地の範囲は広く、枝番があったのか不明であるため、ピンポイントでの場所の特定は出来なかった。

 

駿河台下交差点、右奥がすずらん商店街

 

 家元制度という旧来の枠に捉われない方円社は、明治維新という時代の波に乗り人々から支持され、表神保町の方円社はその拠点として活用されていったが、明治二十二年頃には移転している。ここで暮らしていた本因坊秀哉の著書「本因坊奇談」によると、昭和十九年に方円社を牽引していた村瀬秀甫が亡くなって以降資金繰りが苦しくなり、庭が広く大きな古い家である事務所を維持することが困難となったためといわれている。方円社は540円、現在の金額で約一千万円で売却されたそうで、その資金をもとに移転先を探すこととなった。
 

 なお、 神保町時代の方円社については、詳細をnoteの記事(有料)でも公開しているので、そちらも見ていただきたい。

   囲碁史記 第76回 方円社 段位制から級位制へ