明治以降、大正末期に日本棋院が設立されるまでの間、日本囲碁界の一翼を担っていった「方円社」は、明治十二年四月二十日に囲碁研究会として発足している。設立当初のメンバーは十名で、当時の第一人者であった村瀬秀甫をトップに中川亀三郎や小林鉄次郎らが中心となり、家元からも林秀栄、安井算英、そして病となった本因坊秀悦に代わり弟の土屋百三郎(秀元)が加わっていた。
 発会式は、神田花田町の相生亭で行われたと記録され、その後も例会は相生亭で行われていたという。
 方円社は設立後まもなく、秀栄らが参加の条件としていた井上一門排除の履行が行われないことや、実力重視で家元の権威を尊重しない会の運営に反発して家元が脱退したことで分裂し、村瀬秀甫を社長とする会社組織として再出発することとなる。
 なお、方円社の事務所は神保町に置かれていたが、例会は引き続き相生亭にて行うことが規約に明記された。
 方円社発祥の地で、例会の会場となった「相生亭」について、詳細は不明であるが、住所は「神田花田町八番地」と規約に記載されていた。

 

明治七年の秋葉原付近の地図 ※赤枠が相生亭の場所

 

 花田町は、かつて現在の千代田区外神田の一画であった町名である。秋葉原駅のすぐ北側で、「ビックカメラ AKIBA」および愛三ビルが建っている交差点から東側へ向かう道沿の山手線に達する辺りまでがその範囲であった。
 明治七年の地図を確認したところ、秋葉原駅がある場所は、当時はまだ明治二年(一八七〇)の大火を受けて設けられた火除地であった。宮城(江戸城)内の紅葉山より鎮火三神を勧請した「鎮火社」が鎮座していたことから、人々は火除地の事を、祀られている火防の神・秋葉大権現にちなみ「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んでいたといい、これが秋葉原という地名の由来となっている。
 また、当時の地図を見ると、現在の万世橋が架かっている場所には橋が無く、200mほど離れている現在の昌平橋がある付近に同名の橋が存在するなど、現在とはかなり異なる風景であったことが分かる。
 なお「鎮火社」境内は「花岡町」であった。そして、明治二十三年に上野駅より鉄道が延伸され、境内が「秋葉原駅」(貨物駅)となった際に、「花田町」の一部も鉄道の敷地拡張のために取り込まれ「花岡町」へ編入された。
 花岡町は現在、神田花岡町、そして花田町の東隣りにあった相生町も、神田相生町として名を残しているが、花田町の名は消滅している。「相生亭」の名はおそらく相生町から来ているのであろう。

 当時の地図を確認したところ、相生亭があった八番地は、現在の愛三ビルの東側三差路および秋葉原ダイビルの辺りであることが分かった。

 

相生亭跡、愛三電機の隣りの大きなビルが秋葉原ダイビル
 

 相生亭がいつまで存在していたが分からないが、秋葉原駅が出来た頃には方円社の例会の会場としての記録が見られなくなっている。相生亭のあった場所は駅敷地として花岡町へ編入された区域の境界あたりであるため、確証はないが、この時期に廃業した可能性もある。
 いずれにしても、現在、世界に向け新しい文化を発信し続けている秋葉原にて、囲碁界でも明治期に新しい波が起こっていたかとおもうと感慨深いものがある。

 方円社設立の経緯については、詳細をnoteの記事(一部有料)でも公開しているので、そちらも見ていただきたい。

 note(有料版):囲碁史記 第72回 方円社の設立

 

 

 

JR市ヶ谷駅

 

囲碁モザイクアート

 

説明板

 

 日本棋院東京本院の最寄駅であるJR市ヶ谷駅の構内には「長生の図」の囲碁モザイクアートが設置されている。
 2010年に安全対策で床を防滑素材に張り替えた際に、日本棋院の提案を受けて設置されたものである。
 「長生」とは同手順を繰り返すことにより永遠に石が死ぬことのない珍しい形で、長寿を連想させる縁起のいいものとされている。モザイクアートは名人井上因碩が著した『発陽論』からのものであり、説明版も設置されている。
 

【住所】

 

 京都伏見区にあった伏見城は豊臣秀吉や徳川家康ゆかりの城で、囲碁との関わりも多い。
 伏見城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために築城されている。
 当初、文禄元年(1592)に伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設されたが完成直後に慶長伏見地震によって倒壊。そのため、指月から北東に約1kmほど離れた木幡山に再建される。
 慶長2年(1597)に新しい城が完成したが、秀吉はその1年後に城内で亡くなる。
 秀吉の死後、遺言により豊臣秀頼は大坂城へ移り、伏見城へは五大老筆頭の徳川家康が入って政務を行っている。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、西軍の攻撃により落城し、建物の大半が焼失した。
 その後、慶長7年(1602)頃に家康によって再建され、慶長8年(1603)には、伏見城において家康が征夷大将軍の宣下を受けている。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われた。
 やがて家康は駿府城へ移り、将軍の京都での居城は二条城へと一本化されたことから、伏見城は元和5年(1619)に廃城となる。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。
 伏見城跡は江戸時代には桃の木が植えられたことから桃山と呼ばれるようになり、伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも称されるようになった。織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代が「安土桃山時代」と呼ばれているのもここからきている。

 

伏見桃山陵の看板

 

陵へ上がる石段

 

 小高い山の上にある現在の伏見桃山陵(明治天皇陵)が伏見城の本丸の跡である。そのため、発掘調査が出来ず、城の詳細は分かっていない。
 明治天皇は急死した父親の孝明天皇の跡を継いで15歳で第122代天皇に即位。尊王攘夷運動が高まる幕末において、幕府に理解のあった孝明天皇が亡くなったことで朝廷内は討幕派が優勢となり、将軍・徳川慶喜は慶応3年10月15日(1867年11月10日)に大政を奉還、そして「王政復古の大号令」により新政府が樹立され、年号が明治と改められる。そして、天皇は東京の皇居に移られ、日本は急速に近代化の道を進んでいく。
 明治天皇は明治45年(1912)7月に、61歳(満59歳)で崩御。同年(大正元年)9月13日に現在の神宮外苑にて「大喪の礼」が行われた後、柩は列車で伏見桃山陵へ運ばれ、9月14日に埋葬されている。
 豊臣秀吉が亡くなった場所であり、徳川家康が天下取りを見据えていた場所でもある伏見城跡に、武家政治に終止符を打った明治天皇が眠っているのも感慨深いものである。

 

伏見桃山陵

 

陵墓

 

 伏見城は囲碁界にとってもゆかり深い場所である。京都の龍源院に展示されている「四季草木蒔絵碁盤・碁笥」は徳川家康と豊臣秀吉が伏見城内で対局した時に使用された物と伝えられ、碁笥には、それぞれ桐と葵の御紋が施されている。
 囲碁好きの家康は、秀吉が存命中も伏見の宿館に算砂らを招き碁会を行ったという記録が残されているが、それは城に入ってからも変わらず、たびたび碁打ちが召し出されている。慶長10年(1605)には、家康と秀忠が城で碁会を開催し、本因坊算砂と門下13名や、利玄、六蔵らも参加したと記録されている。

 

伏見桃山城運動公園 正門

 

模擬天守閣

 

 伏見桃山陵の少し北側に、現在鉄筋コンクリート造の伏見桃山城の模擬天守閣がある。昭和39年(1964)に伏見城花畑跡にオープンした遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして建設されたもので、平成15年に遊園地が閉園された際に解体される予定であったが、地元の要望で寄付され、「伏見桃山城運動公園」として整備された。耐震基準を満たさないため中に入る事はできないが、外観だけでも見ごたえがある。

 また、近くには平安京(京都)へ遷都したことで知られる桓武天皇の陵(柏原陵)があるなど、このあたりはまさに歴史の宝庫である。

 

【住所】