乃木希典 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

乃木希典(カラー処理)

 

乃木希典の墓

 

【乃木希典の生涯】
 日露戦争の英雄で軍神と讃えられている乃木希典は、嘉永2年11月11日(1849年12月25日)長州藩の支藩である長府藩の藩士の子として江戸の上屋敷に生まれる。
 安政5年(1858)父が藩のお家騒動に巻き込まれ国元での閉門を命じられたため長府へ転居。
 16歳の時には学者の道を志し、親戚で松下村塾創始者の玉木文之進のところへ押掛け学問の手ほどきを受けている。
 その後、第二次長州征伐を経て、軍人として生きていく意志を固めた乃木は、明治4年(1872)22歳の時に異例の若さで大日本帝国陸軍の少佐に任官する。
 しかし、西南戦争へ歩兵一四連隊長心得として出陣した乃木は、西郷軍に軍旗を奪われたことで自殺未遂騒ぎを起こし、戦後も鬱積した思いからか生活は荒れ、料亭通いなどの放蕩生活を繰り返していく。
 ところが、明治20年(1887)からのドイツ留学を機に、その生活は一変し、帰国後軍紀確立を上申すると、自らがその手本となるよう質素な生活を送るようになります。
 明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると歩兵第1旅団長として大山巌率いる第ニ軍の下で出征し旅順等を攻略。
 明治37年に日露戦争が開戦されると旅順攻略のために新設された第三軍司令官として激戦の末陥落している。
 旅順攻略では、当初多くの犠牲を払いながら作戦が失敗したため、乃木に対し国民からの非難が巻き起こるが、乃木の二人の息子も戦死している事が伝わると一気に沈静化したという。
 乃木の軍人としての評価は、作家司馬遼太郎ら批判的な意見がある一方、それに反論する意見もあり定まっていない。
 ただ、降状した旅順要塞司令官ステッセルとの水師営の会見では、武人としての名誉を重んじ、ステッセルに帯剣を認め、酒を酌み交わすなど極めて紳士的に対応したことから、世界中から賞賛され尊敬されていたそうだ。 
 戦後は、乃木を大変信頼していた明治天皇の意向で、孫(後の昭和天皇)の教育にあたるため学習院院長に就任している。
 明治天皇が崩御され、大喪の礼が行われた大正元年9月13日、乃木は妻静子とともに自宅で殉死している。
 多くの国民が悲しむ一方、学習院での教育方針に批判的だった「白樺派」の志賀直哉らは「前近代的行為」と批判し、賛否両論を巻き起こした。

【乃木希典と囲碁】
 乃木大将は囲碁が大変好きだったと伝えられている。日露戦争の英雄として乃木大将と並び称される東郷平八郎元帥も囲碁が好きで、二人が明治44年に天皇の名代としてイギリス国王の戴冠式に出席した際、イギリスへ向けての約40日間の船旅を毎日二人で囲碁をして過ごしていたと伝えられている。
 二人は終日戦っていても碁盤を挟んで終始無言のままで、何も言わずに石を下ろすだけだったという。二人の棋力はどちらかと言うと乃木の方が少し上だったが、どちらも自他ともに認めるザル碁で、棋力が似通っていたため互角の勝負だったという。

 青山霊園にある乃木希典の墓は、 生前質素な生活を心掛けた乃木大将らしい墓で、墓所には妻や日露戦争で戦死した長男・勝典と次男の保典の墓もある。
 乃木大将が殉死した自宅は青山霊園のすぐ近くに現存し、その隣には乃木大将を祀った「乃木神社」が建立されている。乃木神社前の「乃木坂」はもともと幽霊坂と呼ばれていたが、乃木大将の自宅があったことにちなみ改名している。

 乃木家の墓所:青山霊園 1-ロ10-26