芳川寛治 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

芳川寛治

 

【芳川寛治の概要】
 大正9年(1920)に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正が亡くなり襲爵したのが娘婿の芳川寛治である。
 顕正は将棋の十二世名人・小野五平の有力後援者として知られていたが、寛治は囲碁愛好家であり、特に裨聖会の有力支援者として活躍している。
 寛治は明治15年(1882)に大蔵大臣、外務大臣等を歴任した曾禰荒助子爵の次男として生まれ、三井物産に務めていた明治42年(1909)に芳川顕正の四女鎌子と結婚し娘婿となっている。
 しかし、寛治は身持ちが悪く妾邸に頻在したため夫婦関係が破綻。思い悩んだ鎌子はお抱え運転手と駆け落ちし、千葉駅近くで列車に飛び込む心中未遂事件を起こしている。
 幸い二人は一命をとりとめたが、後に運転手は一人で自殺し、この事件は「千葉心中」と称され小説や歌の題材にもなっている。
 この大スキャンダルの責任をとって顕正は枢密院副議長を辞任。鎌子は退院後、勘当となっている。
 一方、騒動の原因を作った寛治は、世間体を気にする芳川家の思わくもあり、家を追い出されることなく、顕正の没後、伯爵を襲爵している。
 しかし、本来であれば義父の功績により貴族院議員にでもなれたのであろうが、スキャンダルによりその道は断たれ、実業家としての活動に専念することとなる。
 台湾鉱業、磐城鉱業、足利紡績の社長などを歴任、さらに池上電気鉄道社長(大正10年)、満州繊維工業社長(昭和16年)、藤田組社長(昭和18年)に就任するなど活躍し、昭和31年(1956)に亡くなっている。
 家督は娘婿の芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。
 なお、青山霊園の芳川家の墓所には芳川顕正と夫人の墓、そして伯爵芳川家の墓の三基があるが墓誌が無いため誰が葬られているか確認できなかった。しかし、寛治は当主なので伯爵芳川家の墓に葬られていると思われる。
 

伯爵芳川家の墓(青山霊園 1種イ21号9側)

 

【囲碁界との関り】
 明治以降の囲碁界は、家元本因坊家と囲碁結社方円社の二大勢力が並立する時代が続いてきたが、第一次世界大戦後の不況もあって大正期には碁界合同の気運が高まっていた。
 しかし、動きが具体化していくなかで、考え方の違う両者の合流に不満を募らせていた雁金準一、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4名の棋士が、大正11年(1922)に裨聖会を設立。
 参加したのは僅か4名であったが、いずれも棋界トップクラスの実力者であり、段位制を廃し対局は総互先(コミなし)、成績は点数制、持ち時間制の採用など革新的な制度を打ち出していく。
 裨聖会に危機感を抱いた方円社、本因坊両派は合同の動きを加速していき、翌年1月に中央棋院が設立される。しかし中央棋院は資金運営などを巡り対立し、再び方円社と中央棋院の名を引き継いだ本因坊派に分裂、裨聖会を加えた三派鼎立の時代を迎えている。
 この裨聖会設立に向けて尽力していたのが芳川寛治である。
 裨聖会の役員は会長が細川護立公爵、評議員は芳川寛治を含めて八名で構成されていたが、細川会長は名前を貸すだけで一切責任を負わないことを条件に就任したそうで、積極的に動いていたのが芳川であった。
 しかし、囲碁界に影響力を持つ時事新報の矢野由次郎へ設立賛同の署名を依頼したものの棋界合同の動きに反すると断られ、本因坊門を破門されていた野沢竹朝と親交があり、裨聖会へ勧誘したものの、定先に打込んでいた高部や鈴木と互先で打つことを拒んで拒絶されるなど、その活動は思うように進まなかったという。
 寛治の尽力もあり裨聖会は設立されたが、大正12年(1923)9月に関東大震災が発生し各派とも打撃を受けたことにより、再び碁界合同の話し合いが行われ、大正13年(1924)7月、三派に関西、中京の棋士も加えて日本棋院が設立、裨聖会は解散している。