伯爵 芳川顕正 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

芳川顕正

 

 明治期から日本棋院が設立される大正末期にかけて日本囲碁界の一翼を担った「方円社」は、明治12年(1879)4月に発足しているが、設立時に賛成者として名を連ねた人物の一人に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正がいる。
 芳川顕正は、天保12年(1842)に阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)の医師の原田家で生まれる。
 幼名は原田賢吉。医学を学び、21歳の時に徳島市の医師・高橋家の養子となり高橋賢吉と名乗る。
 文久2年(1862)より長崎へ遊学し、医学・英学を学ぶ中で伊藤博文と知り合う。留学経験のある伊藤は英語を話せたが書くことが苦手であったといい賢吉が教えていたという。
 明治元年(1868)に芳川と改姓、明治3年(1870)に大蔵省へ出仕し。翌年にかけて伊藤博文と渡米し貨幣・金融制度の調査を行った後、紙幣頭・工部大書記官・外務少輔などを歴任、明治15年(1882)には東京府知事へ就任している。
 明治23年(1890)、第1次山縣内閣において文部大臣に就任すると教育勅語の制定および発布に尽力。その後も司法相、内相、逓信相を歴任していく。
 明治29年(1896)に子爵へ叙爵されると明治33年(1900)より貴族院議員を務め、明治31年(1898)には伯爵へ叙爵。大正元年(1912)には枢密院副議長に就任する。
 

芳川家の墓所(青山霊園 1種イ21号9側)

 

芳川顕正の墓

 

 芳川は囲碁界と関わり深い人物であったが、それよりも将棋の愛好家として知られていて、家元以外で初となる十二世名人・小野五平の有力な後援者でもあった。

 

 芳川顕正は、四女の鎌子の夫で曾禰荒助子爵の次男である寛治を後継者としているが、放蕩癖のあった寛治は妾宅に入り浸り、思い悩んだ妻の鎌子がお抱え運転手と駆け落ちして千葉駅近くで列車に飛び込み自殺を図るという事件が発生、幸い二人は一命をとりとめたが、後に運転手は一人で自殺している。この事件は「千葉心中」として世間を騒がす大スキャンダルとなり、芳川顕正は大正6年(1917)に騒動の責任をとって枢密院副議長を辞任。大正9年(1920)に腎臓炎のため79歳でなくなっている。
 なお、事件を起こした鎌子は勘当となるが、その原因となった寛治は芳川家が世間体を気にしたためそのまま伯爵を継いでいる。しかし、騒動の影響で政治家としての道は断たれ実業家として活躍していく。芳川寛治は顕正以上に囲碁界と関わっていくが、それについては次回紹介していく。